第238話 魔法王

 およそ六百年前のイステール帝国末期。

 魔術師ルーファスは、魔法王に代々仕えているヒギンズ家の長男としてこの世に生を受けた。

 ヒギンズ家は八代続く魔術師の家系であり、多くの優秀な魔術師を輩出してきた名門である。

 ルーファスは、その一族の中でも特に才能に恵まれた、いわゆる天才と呼ばれる類の人間だった。

 繊細な魔力操作を苦もなく行えるセンスと優れた知性。

 魔法に対する貪欲な知識欲とあくなき向上心。

 同世代の子がマナの扱いに苦心するなか、彼は五歳にしてすでに基礎的な魔法を完璧にマスターしていた。


 父親は息子が最高峰の魔術師となって帝国の中枢を担うと信じて疑わなかった。

 だが、当のルーファスは父親の考え方に疑問を抱いていた。

 なぜ誰かの下につくことを善しとするのか。

 なぜ自らが頂点に立とうとは考えないのか。

 なぜ何世代にもわたって研鑽を重ねてきた力を他人の為に使おうとするのか。

 持って生まれた才能が、彼を傲慢にした。

 ルーファスはいつか皇帝すら超える魔術師になるという野心を密かに抱いていたのである。


 当時、グラスターの地に君臨していたのは、サーヴィンという名の魔法王だった。

 サーヴィンは地下に巨大な都市を作り、圧倒的な魔法の力をもって数百年に渡って地上を支配し続けてきた。

 帝国の支配の根幹は知識の独占にある。

 その知識の中には、十二人の魔法王のみが扱うことを許された『魔門開放の術』と呼ばれる秘術が存在した。


 人体には『魔門』と呼ばれる魔力を司る器官がある。

 通常、人間は魔門の力を常時一割程度しか活用できないとされているが、魔門開放の術は、強制的に魔門を開放して、膨大なマナと魔力を操ることが出来るようにするのである。

 無論、何の代償もなしに力は得られない。

 術の成功率は四割に満たず、失敗すれば魔門が暴走し、二度と魔法が扱えない体となるか、最悪の場合は死に至るというリスクがあった。仮に成功したとしても、開かれた魔門から発生する膨大な魔力を御しきれずに自滅する者も数多くいた。

 さらに、魔門を開いた者は身体の成長に伴い、性欲、睡眠欲、食欲といったあらゆる欲望が希薄となり、徐々に人間性を失っていくという副作用もあり、多くの魔術師が成人する頃には自我を失い、廃人となった。

 だが、それでも術を受けようとする者は後を絶たなかった。

 帝国において魔力の強さは絶対であり、魔術師として大成する為には、魔門を開くことが必須条件だからである。


 十歳になったルーファスは、その魔法の才を認められ、魔門開放の術を受けることになった。

 術の成功率は被術者の素質に左右されると言われている。

 一族の誰もがルーファスの魔門が開放されることを疑わなかった。無論、当人もである。


 だが、術は失敗した。

 魔門の暴走によって、ルーファスは二度と魔法が扱えぬ身体となった。

 一命こそ取りとめたものの、魔法が扱えなくなった息子を父親は早々に見限り、わずかな逡巡すら見せずに一族から追放した。

 帝国において魔法が扱えぬ人間の末路は決まっていた。


 地上送り――。


 地上の人間は帝国の民ではない。生産した食糧や採取した資源を地下に送る為の労働力として生かされている奴隷だった。

 行動の自由を奪われ、生活のすべてを監視される。反乱を企てようとすれば瞬く間に察知され、大量の魔動人形ゴーレムを引き連れた魔術師によって粛清される……まさしく家畜のような存在だった。

 ときおり魔法の実験体として地下に連れていかれる者もいたが、その者が地上に戻ってきたことは一度としてなかった。


 ただ、地上の民は行動の自由こそなかったが、住む家と十分な食事を与えられ、病に罹れば治療を受けることも出来た。

 神聖魔法の使用こそ禁じられたが、神への信仰すらも許された。

 逆らえば殺される。しかし、従順でさえいれば安全な暮らしが保障される。ある種の人間にとって地上は楽園とも言えた。

 多くの地上の民は奴隷としての生き方を受け入れ、夢や希望を抱くことなく、ただ漫然と日々の労働に従事する、そんな生活を送っていた。


 とはいえ、人間である以上、日常生活にある程度の刺激は必要である。

 感情に蓋をして日々を生きる地上の民にとって、地下から送られてきた魔術師崩れの人間は、抱え込んだストレスを発散させる相手としてまさにうってつけだった。

 無数にある集落のひとつに送られたルーファスは、過酷な労働に加え、ろくに食事も与えられず、理不尽な暴力を振るわれた。

 魔法が使えないルーファスは、ただの貧弱な少年である。抵抗などできるはずもなく、ただひたすら暴力に耐えるだけの日々を送った。

 彼が命を落とさずに済んだのは、集落の人間に慈悲の心があったからではなく、集落から死人を出すことが許されていなかったからである。


 そんな過酷な生活を送るルーファスを支えたのは、生来のプライドの高さと、魔道の頂点を目指すという強烈な野心だった。

 必ず傷ついた魔門を癒す方法を見つけ、力を取り戻す。そして魔法を極め、いつか皇帝すら凌ぐ魔術師になる。

 殴られようが蹴られようが、決して媚びず、ひれ伏さない。

 ルーファスは燃えるような野心を内に秘め、過酷な日々を耐えながら、魔力を取り戻すべく試行錯誤を繰り返した。




 転機が訪れたのは、地上に送られてから五年経ったある日のことだった。

 集落に濡羽色のローブを纏ったひとりの女が現れた。

 その女は美しかった。

 ただ、その美しさは生命の瑞々しさを一切感じない、まるで陶器で出来た人形を思わせる無機質なものだった。ローブの袖から覗く細い腕は病的なまでに白く、唯一、つり上がった深紅の双眸だけがこの女が生物であることを証明していた。


 女は来訪の目的を告げることなく勝手に集落を歩き回った。

 集落の者は誰も彼女を咎めようとはしなかった。面倒事を避ける為であったが、それ以上に女の異質さに恐怖し、圧倒されたからだった。

 やがて女は畑仕事に従事するルーファスの前で足を止めると、


「お前の身体を治してやってもいい」


 なんの前置きもなくそう告げた。

 ルーファスは迷うことなくその言葉に飛びついた。

 五年の歳月をかけても魔力を取り戻す糸口すら見つからなかったのだ。もはや藁にも縋る思いだった。後にどんな要求をされようが、どのような代償が伴おうが、一向にかまわなかった。


 おそらく魔法を使われ、意識を失わされたのだろう。

 目覚めた時、ルーファスは寝台の上で横になっていた。

 女から「飲め」と差し出された小さな杯を、言われるがままに飲み干す。

 女はそれを確認すると魔法の詠唱を開始した。

 そこからの記憶は曖昧だった。

 高熱により何度も気を失った。目覚めている時も常に意識は朦朧とし、全身を何千本もの針で刺されるような痛みに襲われ続けた。毛穴という毛穴から生命力が零れていくような感覚に、何度も死を意識させられた。

 そんな時間が七日七晩続いた。


 次に意識を取り戻した時、ルーファスはすぐに身体に起こった変化に気付いた。

 全身に魔力が満ちていたのだ。それも魔門が開いた状態で。

 込み上げてくる歓喜で全身が震えた。これほどの昂りを覚えたのは生まれて初めて魔法を使った時以来だった。


 女の話では、ルーファスの魔門には一種の呪いのような術が掛けられた痕跡があったとのことだった。

 魔門開放の術は、皇帝と十二人の魔法王のみが執り行うことのできる秘術である。

 術を受ける者は魔法によって眠らされ、幾重にも結界が張り巡らされた密室の中で術を受けることから、その成否は完全に術者に委ねられる。

 ルーファスに術を行使したのは、その地に君臨する魔法王……すなわちサーヴィンである。


「魔力を取り戻したことをサーヴィンに悟られぬよう、せいぜい気を付けることだ」


 女はそれだけを言い残すと、何かを要求することもなく去って行った。

 結局、彼女の目的も、正体も、何もかもが不明のままだった。

 だが、そんなことはルーファスにとってどうでも良かった。

 再び魔法を扱えるようになった今、やるべきことは決まっていた。

 魔道の頂点を極める――その野望を果たす以外のことに興味はなかった。

 サーヴィンへの復讐も頭になかった。魔法王になる過程でどうせ葬ることになるのだから、復讐などに心を囚われるのは愚かというしかない。

 とはいえ、魔法王の力は絶大である。

 サーヴィンの魔力は広大なグラスターの地を覆えるほどに強大なのだ。

 その力には必ず秘密がある。まずはそれを知ることが急務だった。


 そこからは気の遠くなるような地味な調査と研鑽の日々が続いた。

 魔法王の秘密に至るのは容易ではない。危険な橋を何度も渡ったにもかかわらず、調査は遅々として進まなかった。

 それでも、魔法が扱えなかった五年間に比べれば、なんら苦ではなかった。今やっていることはすべて未来に繋がっている。そう思えば楽しいとすら感じられた。


 ルーファスは幼少の頃より精神干渉系の魔法が得意だった。特に他人の精神を支配し意のままに操る『操心の術』に関してはかなりの自信を持っていた。

 彼はその術を駆使して、幾度となく地下へ赴き、何年もの時間を掛けて慎重にサーヴィンの周辺に近づいた。

 そしてついに側近のひとりを取り込むことに成功し、それを足掛かりにして魔法王の力の秘密にたどり着いたのである。


 地脈からマナを吸い上げ、それを魔力に変換して特定の術者に供給する魔動装置『魔力炉』……それが魔法王の力の正体だった。

 無限に魔力を生成できる魔力炉が魔法王に絶大な力を与えているのだ。

 この魔力炉を無力化することが勝負に打って出る為の最低条件であった。


 その後、さらに調査を重ねていくうちに、魔力炉の稼働には、『コア』と呼ばれる物が必要であることが判明した。

 コアは一見するとただの水晶球だが、これは無数の術式と極限にまで圧縮された魔力によって作り出された鍵だった。

 コアがなければ魔力炉は稼働しない。

 そして、コアは定期的に交換が必要となる代物だった。

 交換の際には、一時的に魔力炉が停止する。

 このわずかな時間こそが、魔法王を打倒できる唯一無二の機会だった。


 ルーファスは実に十年という歳月を準備に費やした。

 思い付く限りの手を打ち、満を持して決戦に挑んだ。

 魔力炉がなくても、サーヴィンが偉大な魔術師であることに変わりはない。

 戦いは壮絶を極めた。

 勝敗を分けたのは執念だった。

 何百年という年月を魔力炉に頼って生きてきたサーヴィンと、短いながらも凄惨な時間を過ごしてきたルーファスとでは、戦いに臨む覚悟が違った。

 ルーファスは死闘の末、サーヴィンを打ち倒した。


 帝国史上、魔法王が魔法王以外の魔術師に倒された例はない。

 ルーファスはその歴史を塗り替えることに成功したのだ。

 帝国では魔力の強さが絶対である。

 皇帝はサーヴィンを倒したルーファスをあらたな魔法王と認めた。


 こうして異端の魔術師ルーファスは、サーヴィンが持っていた膨大な知識と魔力炉を手に入れ、広大なグラスターの地を支配する魔法王となったのである。


 だが、その栄光はさして長続きしなかった。

 言わずと知れた魔神の出現である。

 皇帝は魔神の王との戦いに敗れ、イステール帝国は滅びた。

 ルーファスは自らを封印することで辛くも死を免れたが、次に彼が目覚めた時、地上の世界は大きく変わっていたのである。


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