第209話 仇敵

 妖魔の大侵攻――。

 領地の南に広大な森林を擁しているグラスター領では、およそ十年ごとに妖魔による領地への侵攻が発生する。その原因は、大森林の中で増え過ぎた妖魔が森の外に押し出されているから、というのが有力な説とされていた。

 なので、大侵攻といっても妖魔に明確な目的があるわけではなく、せいぜい数百程度の妖魔が短期間に繰り返し領内に侵入してくる状況を指してそう呼んでいるだけだった。

 だが、今回の大侵攻はそれまでのものとはあきらかに一線を画していた。

 数千の妖魔がまるで軍隊のように統率されて動いているのだ。


 カシェルナ平原の中央に陣取っていたはずの妖魔軍が南に向かって動き出した――その報を受けたグントラムは迷うことなく全軍に南に向かうよう指示を出した。

 妖魔軍が南に引き返したのは気まぐれなどではなく、南に集結しようとしているフェリアンの部隊と即応部隊を各個撃破しようとしているからだと考えたのである。


「妖魔がそんなことをするはずがない」


 多くの騎士がそう口にしたが、グントラムはこれまでに集めた情報から、今回の妖魔の侵攻には間違いなく何者かの意志が存在していると確信していた。

 それ故に、即断即決で軍を動かすことができたのである。


「――どのくらいついてこられた!?」


 馳せる馬上からグントラムは騎士団長カーティスに声を掛けた。


「歩兵のほとんどが脱落しております!」


 返ってきた答えにグントラムは舌打ちする。

 全力疾走する騎馬に徒歩の兵が付いてこられるはずもなく、そうなるのは必然だった。

 騎兵隊はたしかに強力だが、戦の中心はあくまでも歩兵である。その到着を待たずに突撃するのは危険な賭けと言わざるを得ない。

 だが、斥候の報告では戦場の味方はすでに多数の妖魔に包囲されているらしく、急いで参戦しなければ全滅は必至だった。


「まさかこのような形で開戦を迎えようとは……ままならぬものだな」


「妖魔相手はいつもこんなものでしょう。やつらは人と違ってこちらの都合など考えてはくれませんからな」


 カーティスの言葉にグントラムは「ふん」と鼻を鳴らす。


「――歩兵の到着を待つ猶予はない。このまま我らだけで突撃するぞ!」


「御意!」


 返事と同時にカーティスは右腕を大きく上げた。その合図で騎兵隊は移動しながら素早く突撃陣形を組む。

 グントラムは愛馬の頭の先にある戦場にもう一度視線を向けた。

 戦場は不自然な霧に覆われていた。機動力が命である騎兵隊にとって霧は好ましいものではない。

 ここ数日、カシェルナ平原に雨が降ったという報告はなく、空気にも湿気を感じない。明らかに自然発生した霧ではなかった。

 嫌な予感がグントラムの胸中に渦巻く。


 大森林には今も無数の妖魔が生息し、その数を増やし続けている。

 妖魔が生物である以上、学習や進化をしないという保証はない。現に、中位以上の妖魔の中には稀に剣や弓の扱いに長けている個体も存在しているという報告もある。

 グラスター騎士団が策を弄さずに突撃戦術にこだわるのは、単に力を誇示する為ではなく、妖魔に余計なことを学習させない為でもあった。

 人類は妖魔の全てを知っているわけではない。長い年月の中で、人類の想像を超える強大な力や能力を持った妖魔が誕生していたとしてもおかしくはないのだ。


「領地を守り続けるだけではいつかじり貧になる」


 この焦燥感は歴代の領主誰しもが抱くものであった。

 無論、グントラムもそのひとりである。

 だが、現実問題として大森林から妖魔を駆逐することは不可能だった。

 今のグラスター領に大森林へ侵攻するだけの余力はない。そして現国王に大森林を積極的にどうにかしようという意志がないこともわかっていた。あまりにも長く妖魔と戦い続けてきた弊害とも言えるだろう。かく言うグラスター領ですら、妖魔の存在ありきで経済が回っていることは否定できなかった。

 それでも、終わりのない戦いは人々の心を疲弊させ、荒ませる。

 グラスターの民は領主グントラムのカリスマ性と騎士団の圧倒的な強さがあるからこそ、心の均衡を保てている状態なのだ。もしこの一戦に負けるようなことがあれば、その均衡は一気に瓦解するだろう。

 たとえどのような悪条件であろうとも、この戦は絶対に勝たねばならない戦だった。

 故に、グントラムはもっとも信頼する騎士に先陣を託した。




「一番槍は貴様だ! ランドルフッ!」


 声を掛けられたランドルフは「承知!」と応じると、騎兵隊の先頭へと躍り出た。

 霧でかすむ視界の奥から奮戦する味方の声が聞こえてくる。


(よく持ちこたえている!)


 ランドルフは馬を操りながら素早く、かつ慎重に突撃する場所を選定すると、騎兵槍ランスを構え、目に付いたオーガ目掛けて突っ込んだ。

 さしものオーガも馬の突進力が加わった騎兵槍ランスの一撃をまともに喰らえば無事では済まない。胸を貫かれたオーガは近くにいたゴブリンどもを巻き込んで派手に倒れた。

 それを見届けることなく、ランドルフは素早く剣を抜いて進路上の妖魔どもを次々と叩き斬っていく。

 ランドルフの赴くところ、血と絶叫が巻き散らされる。その凄まじい戦いぶりに騎兵隊の士気はいやがうえにも上がり、嵐のような暴風となって敵を蹴散らしていった。

 後続のグントラム、カーティス両名に指揮された部隊も次々と突撃を成功させており、妖魔どもは散り散りとなり、ひたすら右へ左へと逃げ惑う。


 ――その時、ランドルフの耳に何かが激しくぶつかり合う音が聞こえてきた。まるで破城槌で城門を叩いているかのような轟音だった。悲鳴や怒号が飛び交う戦場において、その音だけが異様に際立っていた。

 ランドルフは音のした方へと視線を向ける。

 そこでは、見知らぬ黒い妖魔と戦棍メイスを手にした巨漢の戦士が死闘を繰り広げていた。

 巨漢の戦士が振るう戦棍と黒い妖魔の爪が激しくぶつかり合い、両者の間で火花を散らす。

 黒い妖魔が上位妖魔であることは、幾度となく上位妖魔と戦ってきたランドルフには一目でわかった。周辺に転がっている無数の兵士の死体が、この妖魔がとてつもない化け物であることを雄弁に物語っていた。

 対する巨漢の戦士も相当な手練れだった。しかし、すでに何度か攻撃を避け損ねたのか、全身のあちこちから出血している。

 戦いはあきらかに巨漢の戦士が劣勢だった。


 ランドルフはすぐさま助太刀に向かうべく馬首を返そうとした。

 すると、それを見た古参の騎士が慌てて声を上げる。


「お待ちください隊長! あれはおそらく上位妖魔サリス・ダーです!」


 その言葉にランドルフの身体がぴたりと止まる。


「サリス・ダー、だと……?」


 その名を忘れるはずがなかった。

 幼少の頃に故郷の村を襲い、家族を皆殺しにした妖魔……その妖魔の名がサリス・ダーだった。

 ランドルフは母親の機転で床下の収納庫に隠れていた為、村を襲った妖魔の姿を実際に見てはいない。知っているのは名前だけだった。

 あらためて黒色の妖魔を見る。

 聞いていたサリス・ダーの特徴と合致していた。

 次の瞬間、ランドルフの心に歓喜と、どす黒い殺意が同時に吹き上がる。

 二十年越しにようやく仇敵に巡り合えたのだ。

 無論、目の前のサリス・ダーが村を襲った個体と同一だという保証はない。

 しかし、そんな理屈は今のランドルフにとっては意味を成さなかった。サリス・ダーと名のつく妖魔は全て殺せばいいと、そう考えていた。

 騎士になって自分と同じ境遇の子供を生み出さないようにする――そんな綺麗事を口にしておきながら、心の大部分を占めていたのは、この手でサリス・ダーを殺すという復讐心だった。

 その為に騎士になり、剣の腕を磨いてきたのだ。


「単独では危険です! 急ぎ隊列を整え騎兵隊の突撃をもって――隊長ッ!?」


 騎士の言葉はすでにランドルフの耳には入っていなかった。

 この戦場で最も恐るべき復讐者へと変貌したランドルフは、馬の腹を蹴って一気にサリス・ダーへと肉薄する。そして、すれ違いざまにサリス・ダーのがら空きの背中へと魔剣を叩きつけた。

 漆黒の皮膚が裂け、そこからどす黒い血が飛び散る。

 サリス・ダーは苦悶の声を上げてのけぞった。

 そこへ間髪容れずに巨漢の戦士が戦棍メイスを振り下ろし、妖魔の左膝に強烈な一撃を入れる。体勢が崩れたところへ、二度、三度と容赦なく戦棍を叩きつけ、最後は下がった顎に強烈な一発を叩き込んだ。

 さしものサリス・ダーも悲痛な声を上げて仰向けに倒れた。

 戦いを見守っていた兵士達から「おおっ」というどよめきが沸き起こる。

 この程度で上位妖魔は仕留められないとわかっているランドルフは、素早く馬を旋回させ、もう一度同じ攻撃を繰り返そうとした。

 だが、相手の動きは予想以上に素早かった。

 サリス・ダーはなんの予備動作もなく跳ね起きると、宙を舞って一瞬でランドルフの目の前に飛び込んできた。


「――ちッ!」


 ランドルフは迷わず馬から飛び降りる。

 その直後に黒い塊が暴風となって通り過ぎた。

 主を失った馬はそのまま走り抜け、しばらく進んだところで横倒しにどうと倒れた。

 少し離れた場所に着地したサリス・ダーの手には、たてがみを掴まれた愛馬の首がぶら下がっていた。すれ違いざまにもぎ取られたのだ。

 サリス・ダーの驚異的な身体能力を目の当たりにしてランドルフは戦慄する。もし咄嗟に飛び降りていなければ、ああなっていたのは自分だっただろう。

 黒色の妖魔はそんなランドルフをあざ笑うかのように馬の首を高々と掲げて滴る血を飲み始めた。


「……上等だ」


 ランドルフは低い声で呟くと魔剣を真横に構えた。

 すると、先ほどの巨漢の戦士が横から割り込んできた。


「どけ、あれは俺がやる」


 冷たく言い放つランドルフに、巨漢の戦士は「ううっ!」と首を横に振って拒絶の意を示した。

 ランドルフは殺意を込めて睨んだが、巨漢の戦士はまったく怯むことなく、逆に哀愁を込めた目で見返してきた。まるで「ひとりで戦っては駄目だ」と言っているようだった。

 猛る心が急速に落ち着きを取り戻していく。


「……わかった」


 この巨漢の戦士の実力ならば、足手まといにはならないだろう。

 妖魔を倒すのに一騎打ちに拘る必要はない。どのような手段を使おうとも、目の前のサリス・ダーを殺せさえすればそれでいいのだ。

 ランドルフは小さく息を吐き出し、一歩前に進み出た。


 その時、再び戦場に大きな歓声が上がった。

 遅れていた歩兵隊がようやく戦場に到着したようだった。これで形勢は一気にこちら側へと傾くだろう。

 妖魔どもに失った勢いを取り戻すだけの余力はもはや残されていない。

 つまり、目の前の上位妖魔を倒せばそのまま戦の勝利が決定的となる。

 復讐と大義が同時に果たせるのだ。


「おおおおぉッ!」


 ランドルフは気合の声を上げて、サリス・ダーへと突進した。

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