第一章
第1話 神との邂逅
突然、分厚い電話帳をものすごい勢いでめくったような音と不快な振動が頭の中を駆け巡り、修介の意識は覚醒した。
意識を取り戻した修介の目に飛び込んできた光景は、青いペンキをぶちまけたかのような真っ青な空と、規則正しく隆起を繰り返す波模様の白い大地であった。
空には雲一つ浮かんでおらず、それどころか太陽の姿も見えない。
白い大地はよくよく見てみるとこれが雲なのではないかと思えてきた。
「波状雲っていうんだっけか? でも雲の上って立てたっけ? っていうかここはどこだろう……?」
たしかトラックに撥ねられたはずである。普通に考えて無事でいられるわけがない。それがいきなり見たこともないような非現実的な景色のなかに立っているのだ。混乱するのも当然であった。
「やっぱり俺、死んじゃったのかな……」
自分がトラックに撥ねられてからどのくらいの時間が経ったのかわからない。感覚的にはついさっきの出来事のように思える。
激突する直前の迫りくるトラックの迫力を思えば、とても自分が生きているとは思えなかった。
そして意識を取り戻しはしたものの、自分の体がまったく動かないことに修介は気づいた。視線だけは動かせるが、首も、手足も何一つ動かなかった。
死ぬっていうのはこんな感じなんだろうか――思っていたのと少し違ったが、ずっとこのままなのは嫌だな、と修介は思った。
「そういえば、あの女の子は無事かな?」
自分が死んでまで助けようとした女の子の無事はやはり気になった。事故の直後に意識を失ってしまったので仕方がないとはいえ、確認できないのはもどかしかった。
ここに来てから何一つ変化のない目の前の景色をなんとなく眺めながら、修介は自分の死についてあらためて考えてみることにした。体が動かないこの状況ではそれ以外にすることもなかった。
独身だった修介には妻子はいなかった。なので残された家族の心配をする必要はない。
父親はすでに他界しており、母親は健在だったが近所に妹夫婦が住んでいるからそこまで心配する必要はないだろう。親より先立ってしまい申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、悪いことではなく一応人助けをして死んだのだから許してほしい。
次に飼っていた猫のことを思い出した。白い雌猫で、名前は安直に『シロ子』だった。元は野良猫だったのが勝手に庭に居つき、そのうち図々しく家に上がり込んできて、気が付いたら飼い猫になっていた。かなりの老猫だったが、まさかあいつよりも先に死ぬことになるとは思わなかった。
職場の同僚もきっと驚いているだろう。いくつか面倒な案件を残してきてしまったが、死んでしまった今となってはどうでもよかった。残してきた仕事が気になって成仏できない、となるほど仕事熱心な人間ではもちろんない。面倒な案件を押し付けることになってしまった同僚には申し訳ない気持ちもあるが、きっと死ぬよりはましだろうから頑張ってもらいたい。
しばらくして考えることに飽きてきた修介は、真っ青な空の向こうに星とか月が見えないかと目を向けた。しかし、果てしなく続く青いキャンバスには星どころかシミ一つなかった。
「何か見えるかの?」
「うわぁ!」
突然声を掛けられ驚く修介。
視線を前方に戻すと、いつの間にかひとりの老人が立っていた。
老人は薄い緑色の粗末な着物を着ており、頭髪がないかわりに長く立派な白い髭を口元に蓄え、細い目と長く伸びた眉毛とがあいまって、いかにも好々爺という見た目をしていた。手には木でできた杖を持っているが、腰は曲がっておらず、杖が必要そうには見えなかった。
「……失礼ですがどちら様ですか?」
修介はとりあえず率直な疑問を口にした。
「わしは神じゃ」
老人は短く答える。
「はぁ、神様ですか……」
気を付けたつもりだったが、声に若干の胡散臭さが含まれてしまったかもしれない。
「なんじゃ、信じられんのか。おかしいのう、おぬしの頭の中にあった神様のイメージをそのまま再現してみたんじゃが……」
和装の神様から「イメージ」という横文字が出てくることに違和感を覚えたが、そこはあえて無視して修介は先ほどの老人の台詞でもっとも気になった部分について聞いてみることにした。
「おぬしの頭の中って、どういうことですか?」
「そのまんまの意味じゃ。おぬしをここへ連れてくる過程で、おぬしの頭の中を閲覧させてもらった。今のわしの姿も、この景色も、すべておぬしのイメージを基に作っておる」
言っていることが突拍子もなさすぎてとても信じられなかったが、修介はここに来る直前に体験した頭の中の不快な振動を思い出した。あれは記憶を閲覧される過程で生じたものだったのだろうか。
確かに言われてみれば、目の前に立つ老人や周囲の景色は自分の抱いていた神様や天国のイメージに近い。なんにせよ、もし記憶を勝手に見られたのが事実ならばあまりいい気分はしなかった。
「自分、神様とか信じてないクチだったんですが、神様って実在してたんですね」
不愉快な思いが抜けていなかったからか、思いがけず皮肉な口調になってしまった。
「いや、おぬしの言う神とわしはまったくの別物じゃ」
「はい?」
予想外の老人の言葉に、修介は思わず間抜けな声を出してしまった。
「わしが神と名乗ったのは、あくまでもおぬしとコミュニケーションを取るための方便であって、実のところわしは神ではない。神を名乗ったほうが人間を篭絡するのに手っ取り早いからそうしただけじゃ」
それ言っちゃったら意味ないじゃん、と修介は思ったが口には出さないでおいた。
「おぬしの知識ベースで理解しやすいように言い換えると、わしはおぬしのいた世界を含めたいくつかの世界を管理する管理人じゃな。死んだ人間の魂を管理運用するシステムオペレーターみたいなものじゃ」
「死んだ人間の、ってことはやっぱり俺は死んじゃったんですか?」
「そうじゃな」
「やっぱりそうなのか……」
予想していたとはいえ、あらためて死んだという事実を突きつけられるとショックは大きかった。
「……そういえば、俺が助けようとしたあの女の子はどうなりました?」
「生きておる。怪我もないようじゃな」
「よかった……」
自分の行為が無駄にならなかったことに修介はほっとした。これで女の子が無事じゃなかったら完全に無駄死にである。
自分が死んだことはショックだったが、あの時咄嗟に女の子を助けるために行動できたことは自分にしては上出来であった。人間は土壇場で本性が出るっていう話もある。自分の本性が人を助けられるものであったことは素直に喜ばしいことであった。
「……話を続けてもよいかの?」
老人の声に修介は自分が考え事に没頭していたことに気づき慌てて頷いた。
「通常死んだ人間は、おぬしのイメージでいうところの『魂』から記憶や意識、価値観、感情といったあらゆる記録を『世界事典』に保存してから、まっさらな状態に戻して新しい生命として元の世界に戻すのじゃが、ごくまれに現れる『数奇な運命』を持った魂はそういった従来の措置をせずに別の世界へ転生させておるのじゃ」
「はぁ……」
「おぬしは、おぬしの世界では非常に珍しい『トラックに撥ねられそうになった子供を救って死ぬ』という事象を引き寄せた稀有な魂を持った人間なのじゃ」
「漫画や小説だと割とありきたりな話だと思いますけど……」
「そりゃフィクションじゃからな。現実にはそんなことそうそう起らんじゃろう」
「そんなものですか」
胡散臭い上に話の内容も修介の理解を超えていたので、返事がかなり適当になってしまった。
「そういうわけじゃから、おぬしの魂は記憶や意識を残したまま、別の世界へ転生させることになったのじゃ」
何が「そういうわけ」なのかは修介にはさっぱり理解できなかったが、このままだと勝手に異世界送りにされることだけは理解できた。
死んで異世界転生はラノベの王道だが、それに喜んで飛びつくほど残念ながら修介は若くなかった。
「ちょっと待ってください。まだ事情がよく飲み込めてないんですが、その稀有な魂とやらを俺が持っていたとして、なんで別の世界に行かなければならないんですか? 正直に言って、わけのわからない世界に行くの嫌なんですけど」
修介も長年サラリーマンをやってきた身である。多少の理不尽には耐性があるが、さすがに異世界に行くのは次元が違う。
「そうは言うても、そういうルールだから、としか言えん」
「ルールだから、ってそんな勝手な」
「生きていたらままならないことなぞいくらでもあろう。人生あきらめが肝心じゃ」
「いや、俺死んだんですけど」
「そういえばそうじゃったの」
老人の受け答えに修介への気遣いは皆無であった。
「……で、その死んだ俺をわざわざ生き返らせて異世界送りにして、俺はそこでいったい何をやらされるんです? 世界を救えとか無茶を言われるんですか?」
死んだ後にまで理不尽を押し付けられるとか笑えないな、と修介は思った。
「別に何もせんでええ。特にこちらからあれこれ指示することもせん。むしろ向こうに行ったら以後こちらから一切関与することはない」
「あ、そうなんですか」
てっきり無理難題を押し付けられるとばかり思っていた修介は拍子抜けした。だがそれで気持ちが前向きになるわけでもなかった。むしろ疑問は何も解消されていない。
「でもそうすると、なんでわざわざ神様の姿をしたりこんな空間を作ったりとか面倒なことするんです? 勝手に転生させちゃえばいいじゃないですか」
修介の言葉に老人はあからさまに心外そうな顔をする。
「そりゃこちらとしてもそのほうが楽じゃが、それで困るのはおぬしじゃろう?」
「というと?」
「何も知らない世界にいきなり放り込まれて、おぬしは立派に生きていける自信があるかの?」
「……ないですね」
現代日本で様々な技術やサービスに守られぬくぬくと生きてきた修介に、知らない世界で生きていく自信なんてあるわけがなかった。
「じゃからこうしてわざわざ説明の場を設けておるのじゃ。感謝されてもよいくらいだと思うがの」
「わかりました感謝します。だから俺が異世界に行かねばならない理由を説明してください」
「そういうルールだからじゃ」
「説明する気ないじゃん!」
修介は老人との無益なやり取りに若干の疲労感を覚えていた。
人に異世界に行けと言っておきながら理由は教えないとか、まるで命令に疑問を持つなという軍隊のような横暴ぶりである。
「すまんが、理由を説明することはできんし、仮に説明したとしても人間には到底理解できんじゃろう」
「つまり説明するだけ無駄だと」
「そういうことじゃな」
そっけない老人の言葉に修介は苛立ちを覚えるが、表情にはこちらを揶揄する意図はなさそうだった。努めて冷静になろうと一呼吸おいてから口を開く。
「……ちなみに、転生を拒否することはできるんですか?」
老人の眉がわずかに動く。
「拒否することはできん。それもルールなのじゃ」
「それは理不尽極まりない話ですね。こちらの意志は無視ですか」
修介の声にわずかながら怒気が含まれる。
「そうは言うてもルールじゃからの。わしにはどうすることもできん」
老人は悪びれもせずに言う。
しばし会話が途切れる。
老人以外には動くものが何もないこの異質な世界を静寂が支配する。
あまりの静けさに、老人の衣擦れの音がやたらと大きく聞こえる。
重苦しく感じるほどの静寂の中、先に口を開いたのは老人だった。
「……そんなに転生するのが嫌かの?」
「嫌ですね。正直意味がわからない」
修介は即答する。
「四三年と決して短くない人生を元の世界で送ってきたんですよ。楽しいこともそれなりにあったけど、辛いことや悲しいこともたくさん経験してきたわけですよ。そこそこ心が疲弊してるわけですよ。若さも気力もないわけですよ。そんなしょぼくれた心を抱えたまま異世界転生とかしたくないです」
長年住み慣れた世界からいきなり異世界に行けと言われて、「はいわかりました」と受け入れられる人間がいると考える方がおかしいだろう。社会経験のない一七歳の高校生だったらその気力もあるかもしれないが、四三歳の修介にそんな大きな変化を受け入れられるだけの気力は残されていなかった。
そもそもルール、ルールと繰り返し、こちらの質問に答えない老人の態度も気に入らなかった。老人の態度からは異世界への転生はすでに決定事項で、修介の事情や感情を一切考慮していないのがはっきりとわかる。
だが、修介の言い分に対する老人の回答は予想の上をいっていた。
「……ふむ、どうしても嫌だというなら、もう一度死んでもらうことになるがそれでもいいかの」
「死ぬほど怖い目にあって死んだのにもう一度死ねとか鬼か!」
突然の死刑宣告に、修介の抑えていた苛立ちが怒りとなって爆発した。
「転生しないのなら通常の輪廻の輪に戻ってもらうしかなろう」
「なんだそれ! 勝手に人を生き返らせておいて、都合が悪くなったらもっかい死ねとか勝手すぎるだろ!」
まるでペットショップで動物を買って、都合が悪くなったら捨てる飼い主のような身勝手さである。
「おぬしの怒りはもっともじゃが、すまんがこればっかりはどうすることもできん。何度も言うがそういうルールなんじゃ」
老人は修介の怒りを気にした様子もなく、顔色一つ変えずにいる。
修介は老人のその態度にうすら寒いものを感じていた。
すまんが、と口では言っているがまったく悪いと思ってないのはその態度からも明白だった。この老人は自分のことをシステムオペレーターと言っていたが、見た目は人間でも中身はまったく別物なのかもしれない。
修介と老人は、一見対等に会話しているように見えるが、実際はそうではない。
よくよく考えてみれば、この老人がその気になったらこちらの命などどうとでもできるのだ。この老人にはこちらの意志など最初から関係ないのだ。老人が「ルール」という以上、最終的には修介を強制的に転生させるに違いない。
修介は自分の怒りが急速に萎んでいくのを自覚した。
そんな修介の内心を知ってか知らでか、次の老人の言葉は修介にとって意外なものであった。
「とはいえ、転生者のメンタルはわしらにとっても重要じゃ。おぬしが生きる気力を失ったまま転生して、向こうであっさり死なれてはこちらとしても都合が悪い。なので可能な限りおぬしの意向も取り入れ、できれば納得して転生してもらいたいと思っておる」
老人のその言葉で修介は一旦落ち着くことができた。
「ほう、こちらの意向をね……」
修介としてももう一度死ぬのは勘弁願いたいところである。仮に苦痛なく死ねるとしても「次眠ったら二度と目覚めませんよ」と言われて心安らかに眠れるほどの鋼の精神を持ち合わせてはいなかった。
どちらにしても修介にこの状況をどうにかできる手段はない。結局のところいくら騒いだところで老人のいうルールに従う以外に道はないのだ。こちらの意向を聞いてくれるというのであれば、最大限有利な条件を引き出すべきであろう。ここで反抗しすぎて条件が悪くなるのは避けるべきだ。
「わかった。話を聞こうじゃないか」
「……自分で言っておいてなんじゃが、変わり身が早いのう」
老人はそう言いながらも、突然の修介の変心にも特に関心はなさそうであった。
「そうさな。まずはおぬしが転生する世界の説明をするとしよう」
言われて修介は自分が転生する世界のことについて、まったく聞いていなかったことに気づいた。なんだかんだで混乱していたのだ。
老人は手に持った杖の先で軽く地面を叩いた。
すると老人の足元から直径一メートルくらいの大きな水晶玉が現れ、ゆっくりと浮上し修介の目線の高さで停止した。
水晶玉は淡く光っており、中は細かい粒子が流動的に動いており、それ以外には中に何もないようだった。
「なんですか、これ?」
修介はおもむろに目の前に現れた水晶玉を凝視しながら老人に質問した。
「これはありとあらゆる場所を見ることができるモニターみたいなものじゃな」
「……モニターっていうか水晶玉ですよね。なんか古風ですね」
「そうは言うが、これもおぬしの記憶にある『遠くの場所を見ることができる道具』のイメージをそのまま採用したんじゃがの」
「え……」
確かに修介の遠くを見る道具のイメージは水晶玉だった。魔法使いや占い師が使っているイメージが強かったのだろう。言われてみれば納得するが、今後もこの老人が何かを取り出すたびにいちいち自分のイメージを具現化され見せつけられるのかと思うとちょっとげんなりした。
「では始めるぞ」
老人は水晶に手を伸ばした。
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