すずめの涙
かさのゆゆ
第1話 “しょう”共の沼から
これは“生きてしまっている”三十路間近の男性が
“それでも生きていく”理由を得るまでの物語──。
もうすぐ三十歳になる成人男性、柏崎純大(かしわざきじゅんだい)。
友人もおらず、独身。
大学を中退してからというもの、二十代半ばまではバイトを転々とし、現在は工場の無期雇用社員として働いている。
彼は極度の人見知りというせいもあり、馴染めた職場はひとつもない。
交遊関係も一切なし。(学生時代は無理して群れたりもした。学校でぼっちだとなにかと面倒だったからだ。)
三年ほど前からは実家からそう遠くない、“都会でも田舎でもない町”でひとり暮らし。
本当は顔見知りに遭遇する可能性もより低くなるもっと遠い場所に引っ越したいが、何も分からぬ場所で完全に一人で生きていく勇気も度胸もないため地元付近に留まっている。
(だが派遣で一年ほど地元を離れ社宅暮らしした経験は過去に数回あり。)
自分のすべてが恥だと感じており、
世間の目や顔見知り、知人の目を恐れるあまり、仕事と最低限の買い物以外の外出も、ここ数年一切できずにいる。
三十歳をまえにして、一人で気楽と思える時間も少なくなり、年々増してくのは“気楽な一人”より“恐怖の孤独”。
両親は幸いまだ元気でいてくれているが、自身が惨めなまま三十を迎えようとしている今日、彼らに対しての罪悪感や負い目も増してく一方であった。
迷惑だけ掛けるだけ掛けて、何の恩返しもできぬまま。やがて親もこの世から去り、自分もこのまま一人ぼっちで老い、誰の心にも留められることなく毎日あらゆる意味で死んでいくのかと深く絶望。
“死にたいわけではないがこの世に生きていたくもない。
死ぬのも生きるのも恐怖でしかないんだ。
平穏無事が保証されていない人生にひたすら怯え、無意味に祈ることしかできない日々。予測できぬ苦痛と死に向かいただ弱り枯れてくだけの人生なんて、すがる意味も使命もあったもんじゃない。
失っていくだけの人生なんてとても耐えられそうにない。
存在価値皆無の生きる屍として、ゴミ扱いされても尚 “生にしがみつけるような図太い根性”も持てそうにない。
暗いことばかり起きる人生しか待っていないのならいっそ味わってしまう前に、まだそこまで多くを失っていない今のうちに、己の存在をこの世界から消してほしい。せめて穏やかに、安らかに──。”
柏崎純大は昔から異常なまでに神経質、臆病、且つ小心者であった。老い、肉体的苦痛、そして死に対しての不安にも日々襲われる。
それらも“持てている、恵まれている”からこそ抱ける贅沢な悩みだろう。
しかし持たせてもらえてるこそ、恵んでもらえてるからこそ、それらを失いたくない、永久に保持していたいという気持ちも狂おしいほどに抱いてしまうのだ。
自らの精神への癒し目的で小動物を家族に迎える者もいるが、小動物だっていつか失ってしまう時がくる。
当然ながら“そういった喪失に耐えられるだけの精神的余裕”も、
“命を背負えるだけの金銭的余裕”もない上、“生命の責任を負うことへの確固たる覚悟”と愛情の保証もできない者なんかには、
“その癒し”を選択する資格も毛頭ない。
無論その当事者でもある柏崎は今夜もたった一人、職場から“誰も待っていない賃貸の小さなワンルーム”へ、重い足取りでとぼとぼと帰途するのだった。
実家のうさぎ、かわいかったな……。
ふとかつて飼っていたメスのうさぎのことを思い出す。
祖父にしょっちゅう蹴られたりたたかれたりしていた灰色のネザーランドドワーフ。
祖父は暴力も躾と称し、自分はうさ公をいつも可愛がってるとほざき、うさぎへの体罰に限らずいつ如何なる時も自身の行いを悪びれることは決してない老害野郎だった。
胸くそ悪くなる思い出だ。
自身の部屋に着いても思い出すのはこんなのばかり。趣味もない。友人も恋人もいない。地位も金もない。
ただひたすらぼーっとし、きりなくこみあげてくる猛烈な負の感情に神経ごと呑み込まれていく。
就寝前は子供時代のアルバムを眺めたり昔聴いていた音楽やアニメ、漫画等に触れたりし、心から思いきり笑っていた過去を懐かしんでは辛くなり、気分転換にしたい娯楽ですら自分の首をしめる凶器となる日々。
恵まれてる今でさえ何一つ頑張れず誰の役にも立てていない。とことん情けなく愚かな“自分という世の害”を憎み、蔑み、涙が止まらなくなる時もある。男のくせに泣くなんて格好悪いと、“偏狭な世間のやつら”なら批判するだろう。
真夜中、きしむベッドの上、柏崎は虚ろにすわった目つきで天井を眺めていた。
スマホに目をやると、母からの電話とメールが何件も入っている。
どうやら無駄に図太く長生きしてたあの性悪な祖父が亡くなったらしい。
『そうですか。葬儀に参列する気はさらさらありませんので 』と返信。
だが時も場合も弁えず発言できるのならこう返しただろう。
『 万歳!! 死体はごみ袋につめて川に捨ててやろう。
今まであいつが小動物達にしてきたように!
』
──と。
“祖父”と称したくもないくらい怨めしかったゲロ老人。
やつはどこまでも偽善者で、身勝手で、恩着せがましくて、自分の非も一切認められない幼稚な
超絶不潔も一貫。相手が迷惑していると自覚してる非行も一切改めることはなく、嫌がっていると知った上でわざと毎日繰り返す、性懲りない“嫌がらせ(最早いじめ)常習犯”でもあった。
至極当然とうの昔に離婚しバツイチで、離婚の原因も別れた元妻と自身の母親だけのせいにしていたが、長く同居していた者にはよく分かる。別れた元妻は正しい判断をしたと。あんな
定年後は暇をもて余し、監視員の如く家族にも執着し、自分らへの干渉も度を越えていた。表向きは仏の面を被り装ってはいるが非常に自惚れの強い自信家で、プライドもすこぶる高い厄介な頑固者でもあった。
協調性の欠片もない自己中のくせに自分のことを心から親切で優しい男だと自負し、周囲へもそれを過度にアピールしては自己満足に浸る、この上なくタチの悪いナルシズム害虫。同情されたり賞賛の声を浴びるのが“至福の餌”であるため自慢も多く、“やさしき苦労人”として自分の都合のいいように捏造した逸話や過去話も、繰り返し多くの人々に吹聴しまくっていた。
(柏崎の生まれる前、やつの自慢話のせいで自宅に泥棒が入ったこともあったらしい。犯人はやつの知人。)
このように口以外もすべて災いだったあんな金だけの全身害悪汚物、亡くなったところで別に悲しくもなんともない。むしろ「ようやく逝ってくれたのか。遅すぎなんだよ!」と声を大にし叫んでやりたいくらいだ。
だが“やつ”のそんな醜い生き様は孫の自分にとって、決して他人事ではなかった。
クソゲスな性格のせいですぐ妻とは離婚。
長男である一人息子を妻には譲らず一人で育てるも、晩年同居する息子家族からも影でボロクソ文句を吐かれ、孫の自分からも“早く死んでほしい”と長年心底願われるほどに嫌われ……。
──そうだ。あの老人もある意味孤独に生きて孤独に死んだのだ──。
世の中はつくづく不条理で非情なものである。祖父や自分みたいな嫌われても致し方ないくらいの害ばかりが、図々しく生き残ってしまう。
まさに“憎まれっ子世にはばかる”だ。
再三言うが祖父の死は全くもって辛くない。“不謹慎ながら”といった建前の前置きも断じていらぬほど。
だがそんな祖父を、自分自身を、考えれば考えるほど、振り返れば振り返るほど、ぞっとする。
自分もこんな風に嫌われ、死んでも全く悲しまれず、むしろ喜ばれるような存在になってしまうのか。喜ばれ、そして即座に面影もろとも忘れられてしまうのか。
あるいは何の関心も持たれず、死亡の認識すらされないのかもしれない。
誰の記憶にも留められず、誰にも語られず、良き思い出として懐かしまれることもなく……。
まるではじめからこの世にいなかったかのような存在に、心底いなくなって良かった“やつ”のような存在に、自分もなってしまうのか。
もし今死んだとしても──。
「やめてくれ…!いやだ…!!誰でもいいから悲しんでくれよ!俺を覚えていてくれよ! 俺が生きてたって証を、この世に残してくれよ……!!」
残暑薄暗い早朝4時すぎ、いてもたってもいられなくなった柏崎は外へ飛び出し、無我夢中で走りだした。
眠れず夜通ししてイカれた情緒。寝巻姿のまま、普段なら過剰なまでに気にする人目も恥も忘れ、彼は駆けてゆく。
“──何か残さなければ!歴史上の人物や芸術家のように何かを! 形ある何かを!
自分が生きてたという証を──!!”
リヴァーフェ○ックスやジェイムズ○ィーン、尾○豊のような、若くして亡くなったスター達のようには到底なれずとも、“今”、29歳の自分が消えることで、自分にも多少なりとも存在価値が生まれるかもしれない──。
既にちらほら車が走っている大通り。彼はその真上に架かる歩道橋から、勢いで飛び降りようとした。
死のうとしたわけではない。ただ、複数の人間に自分の姿を強く印象づけたくなってしまったのだ。
どんな形であれ多くの人々に記憶されたい、そう切望してしまったのだ。
自分が死ぬかもしれない危険な行為に及んでいることや、たとえ今からの行為が他人の印象に残ったとしても、彼らにとってそれはちっとも懐かしみたくなるような記憶になどならないという事も考えられぬほど、彼は自分本位に急いでしまっていた。
「俺を……っ! 忘れないでくれ……!! 」
いうならば、衝動的生死望。
自分はなんにもできないがこれならやれるかもしれない、そんな愚直で浅はかな思考が、不安に駆られ冷静な判断を欠いてしまった柏崎をそこに至らしめたのだ。
柵に手足をかけ、今だと跳ねた次の瞬間──。
「純大!!」
突然、彼は苗字ではない下の名前を誰かに呼ばれた。
「──ッ!」
息つぎもままならぬほどの秒間、瞬きよりも早く。何者かに力強く引き寄せられ、柵の内側へと彼は押し倒された。
“怖いよぉ!!怖いよぉっ!!!! ”
ふと脳裏によぎる幼い泣き声。
幻聴か。それともいつかの自分の声の記憶だろうか。
聞き覚えのあるその声の次に脳裏に流れてきたのは、膨らんだ暗い土の墓の光景。
“これ…は──”
遠ざかっていくように次第に小さく、遠くなっていく幻聴と幻覚。対照的に辺り一面に広がっていく暗闇。
抗おうと手を伸ばすこともせず、泳ぐことも走ることもできず、無気力な彼の体と意識は暗闇の中へ沈んでいく。
柏崎さんとしか呼ばれなくなっていた彼を珍しく下の名前で呼び、飛び込みをくい止めた謎の救い主。
その正体が誰なのかも分からぬまま、柏崎は気を失った。
「純大! 純大!!」
意識を取り戻した柏崎は橋から少し離れた草むらに寝かされていた。強い風が雑草の臭いと乾いた土を地上に吹かせ、より彼を目覚めさせる。
「土は美味しい? 純大。全身で食べてるよ」
「……んぅ」
(この声、聞いたことがあっただろうか……。
さっき聞こえた声ではない。
高い声からして女の子か? いや…… )
太陽のまぶしさが邪魔をして直視はできないが、細目ながら彼はなんとか自分を“純大”と呼んだ者の姿を両目で捉えた。
「おはよう! 」
目の前に佇んでいたのは、太すぎず細すぎずの体つきをした人間。淡いキナリ色の肌に、両頬には黒斑。
長い睫毛とまんまるな瞳を持ち、髪は灰茶と黒の混ざった色という、まるですずめのような特徴を持った“小柄な少年”だった。
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