回復薬農家はじめました。

春夜如夢

第1話 だれかおしえて

 周囲を覆うのは深すぎる緑の森。

 鬱蒼とした樹木が落とす影が折り重なってやや暗い。突風に木の葉が揺れると手元には木洩れ日が差していた。


 辺りに漂うのは森林浴におあつらえ向きな濃い酸素の存在をかき消すほどの、なにかが腐敗したような異臭。


 射し込む光が照らした見慣れない形の草と苔に顔を擦り付けるように眺めている。


 観察のためじゃない。

 顔を上げると痛くて臭いから。


 この体に今降りかかっている困難から僅かにでも逃避するためにしたことだ。

 ただ、そんな行動には意味がないと秒で悟ったわけだが。


 次々鈍い音を立てて木の枝が振り下ろされる。滅多打ちとはこのことだと思った。

 木の枝を持つのは得体の知れないくすんだ緑色の猿のような生き物たちだ。


 鼻の奥からツンとした痛みと口の中に広がり染み出る鉄の味。

 腕、顔、肩、背中に増えていく激痛。

 腐った臭いが吐き気を誘う。


 のどの奥から込み上げる胃液を吐き出す暇もなく、ただ叫ぶ。


「っあ゛あ゛あ゛あぁあ────っだずげで────!!」


 自分の顔の輪郭が、外部から受けた打撃の強さでどんどん曖昧になっていくのがわかる。


 叫んでも止まるどころか攻撃はどんどん強くなる。


 腐敗臭がする毒々しい色の猿モドキが、腫れて狭くなっていく視界に見える限りで 10匹。


 そいつらに取り囲まれて太めの木の棒で打たれているのが今の俺の状況。


 ─────何で?

 俺がなにをしたっていうんだ───。


 庇う腕の上からも容赦なく打たれる。

 頭のどこかが切れたのかボタボタと血が滴ってきた。


 這うようにしているが、走って逃げる様子を見せると一斉に背中から攻められるのが容易に想像できた。



 せめて意識を手放せたらいっそ楽になれるのに


 吐き気が胃を押し上げてくるせいで、失いそうな意識を引き留め痛みを鮮烈に感じてしまう。


 血でかすむ視界の端に光るものがちらつき一気に血の気が引く。


 視界の緑猿の中でもやや大きめの個体が手にしていたのは刃渡り30センチは超える刃物だった。ボスらしきその個体が刃物を振り上げながら近づいてきた。



「──っ!!」



 駄目だ あれで斬られたらもう


 ──────死ぬ───────





 嫌だ   死にたくない




 届くだろう刃の衝撃に目をきつく閉じて身を屈めるくらいしかできなかった。



 震えながら身構えていたがなかなかその衝撃はこなかった。


 わずかに頭を上げると、

 上から血生ぐさい液体がびしゃりとかかる。

 四方からの攻撃が止んだ。


 金属がガチャリと地面に落ちる音

 ドサリと重いものが落ちる音


 血なまぐさい液体で濡れた感覚がさらりと消え、まわりを満たしていた圧迫感もなくなった。


「 ────おい。」



 ─────!!


 呼びかけられた。


 間違いなく紡がれた理解できる言語におそるおそる目を開けた。


 斬られていない、生きている。


 長い黒髪が揺れるのが目に映る。

 金色の瞳にのぞかれてやっと息をまともに息を吸うことができた。


 人だ よかった。

 予測のできない生物よりはずっと安心できる。


 ザバァッ


 大量の水がまわりを包み一瞬身体を浮かせた。


 は?


 川にでも投げ込まれたか、やはり俺は死ぬのか。

 あれ、投げられた感覚あったか?


 現状がわからない。

 ただ引いた血の気が戻るくらいに身体の回りにある水は温かく感じられた。


 沁みないし、痛くない、あったかい──

 落ち着く匂いがする。


 うっとりと目を閉じた。



「ああ────……。」




 やっぱり俺は死んだのかな。


 緑茶の香りのする水に浸かっている。ふわふわと浮いてきもちがいい。


 三途の川がお茶でできてるなんて

 ────しらなかったなぁ。




「───……っおい! 息をしろ!!」



 途端に浮遊感は消えしたたかに背中の辺りを地面に打ち付けた。


「……ッガッ──おェッ」


 のどにつかえていた液体を吐き出した。

 肺に空気が入ってきて急に目蓋の裏が明るくなる。


「───っはァッ、はぁ!」



 目を開けると木洩れ日が眩しくて目を細めた。

 入って来る空気に身体が慣れるまで気づかなかったが、優しく背中をさすってくれる手があった。


「──……俺、生きてる──……?」


「ああ、もう大丈夫だ。」


 低い落ち着いた男の声。さっき呼びかけてくれていたのと同じ人か?


 視線をゆっくりと向けると大きな影が眼に眩しい木漏れ日を隠した。


 ようやく動かす余裕を与えられたまぶたをしばたいて声の主を確かめる。


 きめ細かい肌に、金色の瞳を縁取る長い睫、通った鼻筋に形のよい唇。気遣わしげに俺を見下ろしている。目が合うと柔らかく微笑んだ。


 この上なく整った顔立ちだ。いっそ神々しくすら感じる。



「───神様……?」


「──……ッぶ!」


 荘厳と言っても大袈裟じゃない雰囲気のその人は俺の問いかけに噴き出したようだった。顔を背けているけど肩が揺れている。



「っ残念だが、そんな大層なものじゃない。」


 口元を押さえながら答えた眩しい人は神様ではないらしい。

 でも俺を助けてくれた、命の恩人だ。



「あり……がとう……ございます。

 ───………ここは、どこですか……?」



 月色の瞳をみはって美丈夫はヒュッと息を吸い込んだ。


 こちらからの問いかけにどう答えるか戸惑っているのだろう、一瞬視線を泳がせてから口を開いた。


「────ここはハノレア皇国の郊外だ。

 馬車で数時間行けばガルボの街がある。」


 ????


 今まで一度も聞いたことのない地名が出てきた。しかも、馬車って?



 よくみれば目の前の美形も見慣れないものを着ている。


 足回りに緩みのある黒いズボン、黒く袖の無い服の上からワインレッドの革らしき鎧で上半身を覆っていた。


 肩から見える筋肉が鍛え上げられた身体を証明している。


 状況的に俺は危ないところをこの人に助けてもらったのは間違いないようだ。


 しかもどうやったのか分からないが身体や顔の傷や痛みが残らずなくなっていた。


 途中感じた水の感触が何らかの薬だったんだろうか。


 自分の身体を再確認するといつもはいている黒いズボンに袖の長い白いTシャツ。


 もっともあちこち破れて赤黒い血の染みがついているからまともな格好でないのは確かだ。


 あちらの美形とは比べるまでもないが貧弱な身体だ。筋肉なんて呼べる腕ではない。



 緑色の生き物に殴り倒されていたのは現実だったらしい。


 俺の知ってる世界にはあんな生物はいない。居てたまるか。


 田舎にだって、鹿や猪はいる。けど、あんなくさいどぶ色の猿は断じていない!


 回想しつつまた込み上げてくる吐き気に血の気が引きかけたところで、良く通る声が現実に引き戻してくれた。


「おまえは何者だ? この辺りは奴らの巣だ。近寄るのは余所者か自分の命を捨てたがっている愚か者だけだ。」


 黒髪をかきあげながらさっきより幾分砕けた様子で話しかけられた。


「よ、余所者で間違いないです。ハレノア皇 国もガルボの街もまったくわからないので。ただ、死にたいわけじゃなくて……なんで、俺……ここにいるのか……わからなくて───。」


「なに……?」




 体感では数時間前のことだ。


 田舎に住んでる俺は、じいちゃんちの農家を手伝いながら暮らしてる。


 朝日が登り始めたころ、大きめの地震がきたのに驚いてベッドから飛び起きた。


 階段を踏み外した時のような落ちる感覚があった。

 思わず目を瞑ると家の中にいたはずが風を感じて目を開けた。


 なぜか俺は外にいて、まわりはみたことのない森。


 訳もわからず、辺りは吐き気を催すほど血なまぐさい!


 騒いでいたらガサガサと葉擦れの音がして

 あの緑色の猿に囲まれていた。


「家にいたはずなんです。……っだから……ほら、靴も履いてないし、なんでっこんな────っ……」


 こんな恐い目にあったことがなかった。


 俺の指先はずっと震えが止まらなくて、話している間もそうだ。

 この人はそれに気づいて俺の答えをまってくれている。


 生きている実感がようやく湧いてきて涙をこらえられなくなってしまった。




「あの……っ本当にありがとう……っごさいます、たすけてくれてっ……!

 俺もうダメだと───おっおもって………ありがとうございますっ!」



 止まらない涙と鼻水で酷い顔に違いないが、袖で涙を拭ってちゃんと顔を見てお礼を言った。


 すると思いは伝わったのか少し照れたように微笑んでくれた。


「……────いや、まぁ、気にしなくてい い。無事でなによりだ。」



「俺、りくっていいます。あなたの名前、聞いてもいいですか?」


「リク、か。私はライルだ。────……ゆっくり話したいところだが、じきに奴らがまた湧いてくる。場所を移させてもらうぞ、立てるな?」


「──は、はいっ!」


 またあいつらがくる?!

 あわてて立ち上がった俺はよろめいて結局美形、ライルさんに肩を貸してもらう形になってしまった。


 背ェ高いなぁ。180くらいはありそうだ。



「────っ……めまいがするかもしれんが手早く移動する。少し、我慢してくれ。」


 なんのことかと思ったら、周りに風が巻き上がり俺もライルさんも浮かび上がった。


 足が完全に地面から離れている。


「え、……っはあぁ?!」


『転移』


 胃袋がふわっと持ち上げられたと思ったらそれを全力でぶん投げられる。


 そんな感覚だった。










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