第1話 引っ越ししてきた少女とウサギ
「――え、ねえ、“イザホ”ってば」
耳元がくすぐられるような声で、ワタシは眠りから覚めた。
「ああ、やっと起きた。イザホが寝ちゃっている間に、もう
ドライバーのいない自動運転の車の中、運転席にワタシは腰掛けていた。今はそれぐらいしか実感がない。
さっき、変な光景を見たからかな? 意識が霧にかかったようにぼんやりしている。
あれは……“あの事件”? でもあの事件はとっくの昔……10年前に起きた事件なのに。それに、ワタシはお母さまから話を聞いただけ……
ワタシの求めていた事件が、あんなに簡単に現れるなんて思えない。
バックミラーに映る鏡には、少女の目元が映っている。
口を隠すお気に入りのデニムマスクに、肩まで伸びたストレートロング。その前髪は、右目を隠す。見えている左目の眼球の中には、目の形をかたどった紋章が青色に光っていた。
……あ、これワタシだ。マスクで隠れているけど、思わず口を開けちゃった。声なんて出ないのに。
目の前のダッシュボードには、ハンドルの模様をした紋章が青色に光っている。普通の車ならばあるべきハンドルの代わりを勤めているように。
横の助手席にいたのは、背もたれにもたれた白ウサギ。ぬいぐるみのように見えるけど、本物のウサギ。小さなタキシードを着て、頭にシルクハットを乗せている。
ワタシの顔を見つめるその目の奥には、目をかたどった形の青色の紋章がゆっくりとしたリズムで点灯している。そして首元の一部が、緑色に発光していた。
「起こしちゃあいけないかなって思ったけどね。イザホ、鳥羽差市に入ったことを知らせる看板、見たいって言っていたでしょ?」
首元の緑色が青色に変わり、その場所から声が聞こえてきた。
感覚的には、スピーカーから声が出ているみたい。それでも、ノイズはまったく聞こえない。かわいらしい子供の声帯が、そのまま移植されたかのようだ。
「……その顔、まだ寝ぼけているね。だってボクと初めてあった時と同じ、不思議そうな顔をしているんだもん」
……なんだか、意識が少しだけ鮮明になってきた。
そうだ、この子の名前は“マウ”。ワタシの大切なお友達。
歳はまだ2歳なのに、箱入り娘だったワタシとは違ってすごい物知り。
ウサギなのに二足歩行で歩いたり、しゃべったりする理由も、初めて会った時に教えてくれた。
マウの体には、刻印を刻まれたような跡……“紋章”がいくつか埋め込まれている。知能を高める紋章、声を出す紋章、視力を上げる紋章……
その紋章には、魔力が込められているらしい。
中世の魔女が使っていたといわれている魔術を紋章として体に埋め込み、その紋章に触れることで紋章ごとの効果を発動させる。
紋章を体に埋め込んでいるのは、ほとんどの人に当てはまるってマウは言っていた。ワタシも紋章を埋め込んでいるし、ワタシたちを育ててくれたお母さまも埋め込んでいたっけ。
……意識がより鮮明になった。そういえば、もう鳥羽差市には入ったのかな?
鳥羽差市は、ワタシたちが初めてふたり暮らしをする引っ越し先。マウとふたりで、鳥羽差市に入ったことを示す看板を見て喜びを分かち合わないと……
「ねえ、わくわくしているような顔をしているところ、ごめんだけど……さっきから鳥羽差市に入ったって言ってるよ」
……本当?
看板を探して後部座席の方向を見ても、暗闇が広がっていただけだった。
その時、体が大きく揺れた。
すぐに体が左右に揺れ出したかと思うと、車は徐々にスピードを落とし、止まった。
「まさかここでパンクするなんて……」
ふたりで車を降りると、車の前輪を見てマウがつぶやいていた。
どうやらタイヤがパンクしたから、車の自動運転の紋章が走行を続けることは危険だと判断したみたい。運転席では自動運転の
「イザホのお母さんがめったに使っていなかった車だから、整備を怠っていたかもね……愛するふたりの新生活の、最初の思い出としては悪くないけど」
マウはブッブッと荒く鼻息を出していたけど、小さなおなかの音が聞こえると顔を桃色にしておなかを押さえた。
「……なんだか、おなか、すいちゃったね」
かわいらしく首をかしげるマウの言うとおり、ワタシもそろそろ栄養を補給したいと思っていたところ。ワタシはマウと違って声が出ないから、うなずくしかないけどね。
本当なら今の時間は鳥羽差市についていて、夕ご飯はどこかのレストランで取るつもりだった。渋滞に続いて車のパンクだから、それがかなわなくなったのが残念だけど。
「こんなとき、都合よく山奥にお店とかないかなあ……」
真っ暗な森の中で、マウは紋章の入った目玉をキョロキョロと動かした。
さすがにそれはないと思いつつ、ワタシも一緒に辺りを見渡してみよう。
ふと、掲示板のようなものが車の横にあることに気がついた。
掲示板はぼろぼろで、張り紙はひとつも貼られていなかった。ただ、破けてしまったのか、四隅に切れ端のようなものが残っている。
街頭が照らす足元を見てみると、破けて落ちたと思われる用紙が落ちていた。
見えるのは下半分だけで、セーラー服の写真に、
“探しています” “
このような文字とともに、詳しい説明書きが書かれていた。
この用紙……ポスターは、掲示板と比べて結構新しいように見えるけど……上半分は破けて無くなってる。もしかして、車のタイヤで引き裂かれちゃった?
説明書きに目を通す前になくなった上半分を探そうと、車の下をのぞこうとした時だった。
「ねえイザホ! あれ……」
マウが指さした方向には、分かれ道と大きな看板があった。
「まさか本当にあるなんて」
そこには、右斜め上の矢印と森の中のフクロウが描かれた看板に、“喫茶店セイラム 500m先”と書かれていた。
ポスターのことなんかすっかり忘れて、ワタシはマウとともに看板の方向に向かった。
分かれ道に入り、森の中を道なりに進むと、明かりのある一軒の建物が見えてきた。
それはまるで、小さなコテージ。
側に立っている喫茶店セイラムの看板とその上に立っている木彫りのフクロウが、あの建物の正体を親切に教えてくれていた。
「なんか物語のご都合主義みたいだけど、こんな時間にも営業しているんだね……お客さんも来ているみたいだし」
マウの言うとおり、ワタシたちの前には街頭に照らされるように人影が立っていた。
でも、あれは本当にお客さんかな?
ずっとその場に立っていて、歩きだそうともしない。どんな姿をしているかも、黒い影しか見えない。
「……ねえイザホ、とりあえず、入らない?」
あの人をじっと観察していると、ワタシのワンピースの裾をマウが引っ張った。
ここで立っていても仕方ないと思う。早く食べないと、動けなくなっちゃうから。
ワタシはマウと一緒に喫茶店に向かって歩き始めた……
!! 「!!」
目の前の人影がこっちに振り向いた!
その人影は黒いローブで全身を包んでおり、顔も見えない。姿を見せたくないみたい。
じっとこちらをにらむと、人影は横の茂みの中に消えていった。
「……ああ、びっくりした」
さっきまで白目が見えるほど目を見開いていたマウは、ホッと胸をなで下ろした。
「なんだか、本能的に肉食獣ににらまれたような気がしたよ」
それにしても、さっきの人はどうして立ち去って行ったのだろう?
まるで、ワタシたちが来たら不都合みたいな感じだったけど……それじゃあ、何をするつもりだったんだろう……
「ねえイザホ、とりあえず中に入ろうよ」
左胸に手を当ててさっきの人のことを考えていると、再びワタシのワンピースの裾をマウに引っ張られる。
確かに、ここで立っていても仕方ない。
マウに笑顔を見せてうなずいて、一緒に喫茶店の前まで歩いて行こう。
喫茶店の扉に、パーカーの裾から小さな右手を出して手をかけると、
どこからかカラスの鳴き声が聞こえてきた。
思わず周りの木を見渡すと、初めて訪れたような気がしない。
車の中で見た、変な光景に出てきた木が、そこら中に生えているからかな?
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