13-4
今日は酷く疲れた一日だった。
泳ぎ疲れの独特な倦怠感に苦しみながらも、俺は何とか家にたどり着く。
俺にはまだやるべきことが残っていた。
眠りたくなる気持ちを抑え込み、一度シャワーを浴びた後に台所へと向かう。もちろん、玲の夕食を準備するために。
シャワーのおかげである程度目が覚めていた俺は、いつも通り手際よく作業を進める。
そうしていると、玄関の方から玲の足音が聞こえてきた。気づけば随分と時間が経っていたらしい。
「おかえり」
「ただいま」
そんないつものやり取りを終えて、玲は一度風呂へ行く。
俺はその間に料理を温め直したり、食器に盛り付けたりなどして、彼女が上がってきてすぐに食べられるように準備した。
ここまではもはやルーティーンと言ってもいい。
テーブルの上に並べた料理を見て満足感に浸っていると、髪を乾かし終えた玲が浴室から出てきた。
「お待たせ。今日のご飯は何?」
「チンジャオロースと麻婆豆腐の中華セットだ。この前食べたいって言ってたからさ」
「覚えていてくれたの?」
「当たり前だろ」
数日前に、新曲のダンスレッスンが激しくなってきた玲からガッツリした物が食べたいと申し出を受けていた。
俺の中でガッツリした物と言えば、やはり中華料理。ニンニクをふんだんに使ったスタミナ丼なども考えたが、それなりに手頃に作れてしまうため、もっと時間がない時のためにとっておくことにした。
「むしろ食いたい物を言ってもらえるだけ助かるよ。献立で迷う時間が減るからな」
「じゃあもっとリクエストしていいの?」
「おう。どんと来い」
誰かのために料理を作り始めて実感したが、要望を聞いて「何でもいい」と返されるのはそれなりにしんどい。
俺の場合は玲が比較的正直に食べたい物を言ってくれるおかげで助かっているが、これが淡白な旦那を持つ嫁の場合だとかなりストレスが溜まることだろう。もちろん好きに作らせてもらえて嬉しく思う人もいるだろうが、それはどちらかと言えば少数派だと思う。
「とりあえずまずは目の前の飯からだ。冷めないうちに食ってくれ」
「うん。いただきます」
オイスターソースの段階からしっかりと味を整えたチンジャオロースと、
味見の段階で上手くできた確信はあったのだが、白米と食べると益々箸が止まらない。
「凛太郎、おかわり」
「お、最速記録更新だな」
掃除機でも体についているのかと思わされる速度で、一杯目の白米が消えた。
言葉だけじゃなく、こういう行動を見せられるだけでも作り手側は嬉しいもの。まあそんな自分のちょろさに笑ってしまいつつ、俺は彼女の分のおかわりを用意した。
俺たちの食事中に、音は少ない。
食べ終わるまで会話なんてほとんどないし、そもそも言葉を発せないレベルで玲はずっと食い続けている。
おかわり自体は四杯目に突入し、大皿に盛り付けてあったチンジャオロースと麻婆豆腐もほとんど完食されていた。
そろそろか――――と思った矢先に、彼女はコトリと箸を置く。
「ごちそうさまでした」
「うい、お粗末様」
最近になってきて、玲の腹のキャパもよくよく理解できるようになっていた。
すっかり綺麗になった皿と茶碗を持ち、流しへ持っていく。
皿洗いを始める前に、デザートとして玲が買っていた少し高めのアイスを投げ渡しておいた。だいぶ食った後でも、曰く甘い物は別腹というやつらしい。
手際よく皿洗いを終えた俺は、手を拭きながらソファーへと戻ってくる。ついでに淹れたコーヒーを彼女の前に置き、深々と腰を掛けた。
つけっぱなしにしていたテレビからは、芸能人たちの笑い声が響いてる。
時刻は二十時を少し回った頃。ちょうどゴールデンタイムのバラエティ番組が始まる時間帯だ。
「……こういう番組には出ないのか?」
「出る時もある。新曲の発売前とか」
「ああ、番宣ってやつか」
「そう言われるといい印象はないけど、そういうこと」
他愛のない会話。そんなやり取りに、安らぎを覚える。
バラエティ番組を前にして落ち着いているのもどうかと思うが、そんなことは気にもせずにコーヒーを啜った。
「……何かあった?」
「……どうしてそう思う?」
「いつもより距離が近いから」
玲にそう言われて、ハッとした。
自覚はなかったが、俺と玲の間にあったはずの距離がいつもより狭くなっている。途端に顔に熱が上がってくるのを感じた。
やばい、究極に恥ずかしい。
そそくさと距離を取ろうとした俺の腕を、何故か玲が掴む。
「は、離せ……! 冷水を浴びてくる!」
「駄目、風邪ひいちゃう」
「今求めているのは正論じゃねぇ!」
必死こいて玲の腕を振り払おうとする。しかし冷静に考えると、暴れた結果怪我でも負わせてしまったら最悪だ。
——うん、思ったよりも頭は冷えていたらしい。
「ふぅ……分かったよ。まずはちゃんと座らせてくれ」
「うん」
俺がソファーに座り直せば、掴まれていた手が離れる。
「柿原君たちと、何かあった?」
「いや、別に何かあったわけじゃないんだが……」
玲はかなり頑固だ。もうここまで来てしまったのなら、分かりにくく誤魔化すのはやめて、すべてそのまま話してしまった方がいいのかもしれない。例えそれが柿原のプライベートだとしても、散々振り回された仕返しということでここはひとつ。
「誰にも話さないって誓えるか?」
「凛太郎がそうしろって言うなら、そうする」
「じゃあ、話すよ」
俺は今日起こった出来事を思い返しながら、玲へ説明していく。
柿原の恋路を応援しようとしていたこと。途中で二人を上手いことウォータースライダーに乗せたこと。そしてついに彼が一歩踏み出したこと。
"今度は……その……二人で、また来ないか?"
勇気を振り絞った柿原の口から放たれた、そんな誘いの言葉。
これに対する二階堂の返事を、あの場で俺は聞いてしまっていた。
"皆で行った方が絶対に楽しいよ。あとで揃った時に声かけてみない?"
「——だってさ。女のお前に聞きたいんだけど、これってさ……」
「うん、多分脈がない」
「……だよなぁ」
遠回しに、二階堂はデートの誘いを断った。
心のどこかで、何だかんだ柿原の恋は上手く行くもんだと思っていた俺がいる。
過ごしてきた時間の厚みを考えれば、彼女だってどこかしらの感情の中に柿原への好意を隠しているのではないかと、というか隠していてほしいと本気で願っていたんだ。
そんな俺の願いは、儚く散ってしまったらしい。
「柿原のやつ、信じられないくらい落ち込んでてさ……もう何て声をかけてやればいいか分からなかったよ」
「それは……ちょっと気の毒。仲良しじゃなくても、柿原君の気持ちは分かりやすかったから」
「お前も気づいてたのかよ……」
「班で何かをする時とか、よく誘ってくれていた。それでも長く一緒にいたわけじゃなかったけど、すごく分かりやすかったよ?」
なるほどな。柿原、バレてないと思ってるの多分お前だけだぞ。
「柿原君の恋を凛太郎が応援しているのは分かった。だけどそれだけじゃ、何で今の凛太郎の様子がおかしかったのか分からない」
「……細かいところは省かせてもらうんだが」
そう告げて、俺は自分のポケットに入っているスマホを撫でる。
この中には、ついさっき届いた
"急に誘ったのに来てくれてありがとう。志藤君さえよければなんだけど、今度は二人で行きませんか……?"
送られてきていたのはそんな文章。
晒し上げのような行為はしたくないが故に画面は見せられない。ただ二階堂から二人きりでの遊びの誘いを受けたことを、かいつまんで玲へと伝えた。
「それって……」
「まあ、そういうことだろうなって」
「……二階堂さん、やっぱり凛太郎のこと好きなんだ」
「やっぱりって何だよ」
「見てれば分かる」
「……さいですか」
女って怖いわ。
「それ、どうするの?」
「ん? ああ、断るつもりだよ。今は予定確認中ってことで保留にしてある」
「どうして?」
「どうしてってお前……ちょうど二階堂の空いている日の予定が、お前に誘ってもらったホテルへ行く日と被ってるからだよ。約束も先だったし、俺の中での優先順位はお前が一番だからな」
例え玲の方が後だったとしても、俺の生活は彼女と共にある。だから本当に申し訳ない話、どういう形であれ二階堂の誘いは断っていた。
そもそも俺は柿原の恋を応援しているわけで。わざわざ自分から彼女との距離を詰めるような、波乱を呼ぶ行動ができるわけがなかった。
「けどまあ二階堂に非があるわけでもないし、どう断ったもんかとずっと悩んでて――――って、何でニヤニヤしてんだよ」
できるだけ傷つけずに断る方法を考え続けていた俺の横で、玲はどことなく嬉しそうに口角を上げていた。
「私が一番……凛太郎の中では私が一番……」
「どうしたんだお前……ちょっと気持ち悪いぞ」
「気にしないで。話続けて?」
「えぇ……?」
困惑しつつも、まあこれが乙咲玲なのだと納得する。
こういった変わり者の部分もまた、彼女の魅力なのだから。
「……結局さ、振り回されるだけ振り回されて、最終的にもっと関係が複雑になって……これが俺の憧れた青春ってやつなのかと思ったら、ちょっと気持ちが沈んじまってさ。辛そうで、苦しそうで。何が楽しいのか全然分からんかった」
アニメやドラマの世界の、汗と涙を流しながら走って駆けての青春群像劇。高校生である以上は一度くらいそういうものを体験してみたいと思っていたが、どうやら俺には究極までに向いていなかったらしい。
すべてのモヤモヤの原因は、一つの理想の崩壊にある。
これが青春というのなら、あまりにもこの世界は趣味が悪い。
「我ながら何言ってるんだって感じだけどな」
「……じゃあ、私と青春しよう」
「は?」
彼女の突然のおかしな提案に、俺は呆けた声を出してしまう。
そんな俺をさらに追いつめるように、玲は身を乗り出してじっと目を見つめてきた。
「今度の海で、忘れられない思い出を作ろう」
力強い玲の言葉に、俺は気圧され、頷くことしかできなかった。
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