2-3

 トップアイドル、乙咲玲との謎の共同生活が始まってから早一週間と数日が経過した。


 その間で少し安心したのは、決して玲が毎日泊まるわけではなかったということ。

 仕事の都合でマネージャーが家に迎えに来ることもあるらしく、そういう日は朝食用の弁当を持たせて前日に帰宅させる。

 そのたびに不満げな顔をされるのだが、本人も仕事とプライベートは弁えているつもりのようで文句は言ってこない。


「凛太郎。私いいこと思いついた」


 夕食後から水につけておいた皿を洗っている俺に、突然玲が声をかけてくる。

 まだ短い付き合いの中で分かったことの一つとして、彼女の言う『いいこと』は俺にとっての困りごとだ。

 嫌な予感をビンビンに感じつつも、洗い終わった皿を置いて彼女の隣へと腰掛ける。

 

「馬鹿なこと言いだしたら明日の飯にお前の嫌いな物を混ぜてやる」

「残念ながら私に嫌いな食べ物はない。一つの自慢」

「チッ、そうかよ。――それで、何を思いついたんだ?」

「この家に食べに来ないといけないから、面倒なことが増える。だから新しく家を借りて二人でルームシェアすれば解決。とても名案」

「案の定とんでもないことを言い出したな、お前」

「どうして? とても効率がいい」


 ……確かに効率はいい。しかし効率だけではこの件は語れない。

 そもそもただでさえプライベートな時間がなくなりつつあったのに、本格的に同じ家で暮らし始めればそれこそゼロになる。


「お前は実家暮らしだろ? 俺と暮らすって言えない以上、表向きには一人暮らしを始めるように見えるわけだし……周りが許してくれるのかよ」

「それは――ちょっと不安」

「じゃあこの話は保留だ。また不都合ができたら考えようぜ」

「……分かった。そうする」

「よし、偉いぞ」


 雇い主に偉いだなんて舐めているとしか言いようがないが、これも玲から友人として接しろという命令があったからこその対応だ。


「そんなことより、もういい時間なんだから俺は寝るぞ。明日は一限目から体育だし」

「ん、分かった」


 ダラダラと立ち上がった玲は、そのまま寝室の方に消えていく。

 俺はリビングにあるソファーの背もたれを倒し、ベッドに変形させた。

 元々寝室にあったベッドは、現在彼女に無理やり使わせている。と言うのも、最初玲は俺にそのままベッドを使わせようとして聞かなかった。逆に俺は彼女にソファーを使わせるという選択肢はなく、話は平行線。最終的に俺たちが妥協できた形は、玲はベッドを使い、俺は彼女が買ったソファーベッドを使うというものであった。

 つまりこのソファーは初めから俺の家にあったものではない。

 というか、やはり売れっ子アイドルの財力には驚かされる。

 このソファーもかなり高級で質のいい物であり、一般的な高校生が「買います」と言って気軽に買える物ではない。


(でもまったく羨ましいとは思えねぇなぁ)


 彼女が眠っているであろう寝室に視線を向け、そんなことを想う。

 過密なスケジュール、失敗は許されない環境、SNSなどで繰り広げられる心ない誹謗中傷。

 特に問題も起こしていないミルスタだからまだ控えめだが、それでも何度か彼女らのことを気に入らないと思っている人間が暴言を吐いているところを見たことがある。

 俺が飯を作ることで、少しでも玲のストレスが和らげばいいが――。


 夜が明けて、時刻は六時。

 質のいいソファーベッドのおかげですっきり目覚められた俺は、いつも通り朝飯作りに取り掛かる。作ると言ったものの、そこまで手の込んだ料理を作っているわけではない。昨日の白飯が残っていることを確認し、それと一緒に食べられるように少し濃い味付けでベーコンと目玉焼きを焼いておく。食費に糸目をつけずに済むようになったおかげで買ったレタスをメインにしたサラダを隣に置き、コーヒーを淹れる。もちろん彼女の分は砂糖とミルクをふんだんに使った。


「おい、玲。朝飯できたぞ。……玲?」


 はぁ、またか。

 彼女はだいぶ朝に弱い。自分で起きられることは稀で、大体は俺が声をかけて起こしている。

 そして声掛けで起きなかった時は、仕方なく部屋に入って直接起こすのだ。


「仕方ない、入るぞ」


 一応断りを入れて、寝室の扉を開ける。

 案の定というか、玲は俺のベッドの上で心地よさそうに寝息を立てていた。

 しかしその見た目が問題だ。

 最近六月に入って少し気温が上がってきたからか、布団が豪快に除けられている。それだけならまだしも、彼女が寝間着にしていた「働きたくない」と書かれたクソださいTシャツが大胆にめくられていた。まあ、このTシャツは俺のなんだけど――。

 Tシャツがめくれているせいで胸の下の部分が見え隠れしており、かなりの目やり場に困る。


(でっか……じゃなかった。下着つけずに寝てんのかよ、こいつ)


 危うく邪な考えが浮かびそうになるが、それを理性で押さえつける。

 いくら仕事だ何だと言い張っても、やはり男の本能を押さえつけるのは至難の業だ。

 心を落ち着け、再び玲に向き直る。


「おい、起きろ。起きて飯を食え」

「ん……」


 玲が身じろぐ。

 その際に元々めくり上がっていたTシャツがさらにめくれそうになり、慌てて布団をかけ直した。


「ん、凛太郎……?」

「起きたか。ほら、さっさと顔洗って来い」

「……分かった」


 のそりと起き上がった玲は、そのまま寝室を出て洗面所へと向かっていく。この姿だけ見たら、果たして本当にトップアイドルなのか疑いたくなる程にはだらしない。


 ――まあ、常にシャキッとしてろって言う方が酷か。


 少しは目も覚めたのか、洗面所から戻って来た彼女はいつも通りの顔になっていた。そのまま俺と共にソファーに座れば、「いただきます」の挨拶を挟んで朝飯に手を付け始める。


「ん、黄身が半熟……」

「そのくらいが好みって言ってたからな。コーヒーも砂糖とミルクが多めに入ってる。サラダに関しては好きなドレッシングを使え」

「自分に合わせて作ってもらえるって、やっぱり嬉しい」

「俺もお前の好みが分かりやすくて助かったよ。すぐに合わせてやれるからな」


 こうして素直に意見を言ってくれるおかげで、飯を作る時のストレスはほとんどない。むしろ面白いように喜んでくれるからか、作り甲斐に関しては今までの比ではなかった。


「弁当は持ったか?」

「うん。大丈夫」

「そんじゃ戸締りするから、先に出ろよ」

「分かった。じゃあまた学校で」


 その後制服に着替えた玲が、玄関から出ていく。

 当然の話だが、俺と彼女は一緒に登校などしない。

 基本的に玲が家を出た五分後に俺が出発し、駅に向かう。駅に到着してからは不自然さがないように合流したり、しなかったり。さすがに隣に立って話しもしていなかったら、クラスメイトとして不自然だからな。


(この生活にもすっかり慣れちまったな……)


 扉の鍵を閉め、いつも通りの道を歩いて駅へ向かう。

 駅の改札を抜けてホームまで行き、何気なく玲を探してみた。

 するとちょうど中学生と思わしき男女の集団にサインを求められている彼女が視界に入る。

 眼鏡とマスクで顔の大部分は隠れているとは言え、さすがに連日目撃されれば声をかけてくる人間も増えてしまうようだ。

 彼らが去れば、入れ違いでクラスメイトの女子が玲の隣に立つ。

 あの女子は確か陸上部に所属しているため、朝練がある時はもっと早い電車に乗っている。

 今日はそれがなかったようで、玲と一緒に登校できるようだ。

 こういう時は俺が彼女と合流せずに済むので、少し助かっている。

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