1-2

 学校が終われば、俺はそのままの足でバイト先へと向かう。

 バイト先は駅から徒歩十五分程度の位置にあるマンションの一室。玄関を開ければいくつかの靴が乱雑に置かれており、複数の人の気配があった。

 真っ直ぐ伸びた廊下の奥の扉を開ければ、そこにはひたすらにペンを動かす大人たちがいる。

 その一番奥に座る女性が俺の雇い主、漫画家の優月一三子ゆづきひみこ先生だ。


「お疲れ様です、差し入れにエナジードリンク買ってきましたけど」


 そう言いながら手に下げたコンビニの袋を掲げれば、彼らは一斉に俺に視線を向ける。寝ていないのか、充血した目がちょっと怖い。


「りんたろぉぉぉぉぉ! ありがとぉぉぉぉ!」

「先生、怖いっス。どのくらい寝てないんですか?」

「大丈夫大丈夫、まだ二徹だから」

「それは大丈夫じゃないです」


 ため息を吐きながら、先生とアシスタントの方々にエナジードリンクを配る。

 ここは売れっ子漫画家の優月一三子先生の職場だ。

 俺は彼女のアシスタントとして雇ってもらっており、背景を描いたりトーンを貼ったりする作業を担当している。

 普段は学校が休日の時に来るのだが、修羅場になればこうして放課後も手伝いに来ていた。


「はぁ……持つべきものは気の利く従弟だねぇ」

「エナジードリンクなんてその場しのぎでしかないんですから、終わったらすぐに寝てくださいね」

「言われなくても気絶すると思うから大丈夫だよぉ」

「早死にするぞあんた……」


 優月先生が言った通り、俺と彼女は親戚関係にある。だからこそ雇ってもらえた訳だが、今では仕事も覚えてこの職場の戦力になれた――と思う。


「じゃあ俺も作業に入りますね」


 俺のために用意された席に座り、優月先生から線画の入った原稿を受け取る。指定された通りの構図で背景を描き、指定された位置にトーンを貼った。簡単な仕事ではないが、慣れた以上は苦とは感じない。

 今日話題になっていたミルスタの新曲をイヤホンから流しつつ、俺は黙々と作業を進めた。


「――――凛太郎、そろそろ上がっていいよ」

「え、まだ終わってないっすけど」

「もう二十一時だからね。さすがに未成年をこれ以上働かせられないよ。それにもう残り一ページだし、間に合うことは確定したからさ」

「……そっか。じゃあ申し訳ないですけど、お先に失礼します」

「うん! じゃあまたよろしくぅ!」


 原稿の目処が立ち突然元気になった優月先生が親指を立てる。

いつもは安定したペースで執筆する彼女が締め切りギリギリになるまで作業していたということは、それだけ気合を入れた回を描いていたということ。

現に作業しながら見ていた絵はいつも以上のクオリティで、何度か息を呑んでしまった。

 元々優月先生は芸術肌で、自分の作品には並々ならぬ拘りを持っている。だからこそ妥協もせず作品を仕上げている訳だが、仕事とは言えそれに付き合わされるアシスタントたちは気の毒でしかない。

 だってもう死人の顔だもん。逆に生きているのが不思議だ。


「お、お疲れさまでした……」


 最後にそう言い残せば、真っ青な顔をしたゾンビ――――じゃなかった、アシさんたちが手を振って見送ってくれた。正直ちょっと怖い。

 マンションを出て、まず駅へ向かう。

 俺の家は優月先生の仕事場から三駅離れた場所にあり、学校からは合計五駅離れていた。

 残業終わりの会社員たちと共に電車に揺られ、最寄の駅で降りる。

 だいぶ遅い時間だからか、いつもと同じ駅前の様子に少し安心感を覚えた。

 しかしそんな様子の中に、突然異物とも呼べる高級車が飛び込んでくる。


(あんな車に乗れる奴……この辺に住んでたんだな)


 金に困ってねぇんだろうなぁ。羨ましい。

 そんな風に皮肉を浮かべつつ、俺はいつもの帰路につこうとした。

 しかし、高級車から出てきた人影を見て思わず立ち止まる。

 綺麗な金髪に、高校生離れしたスタイル――――頭には帽子と、顔にはマスクとサングラスで変装をしているようだが、あれは間違いなく大人気アイドル、乙咲玲だ。

 おそらくは送迎用の車だったのだろう。降りた乙咲と運転手は一言二言話した様子を見せた後、そのまま駅を後にする。

 駅前の人影もまばらだからか、今のところ乙咲の存在に気づいている者はいないようだ。

 となると俺も特に関わらず帰るのが得策だろう。俺と彼女は今年の春からクラスメイトであるというだけで、別に友達でも何でもないのだから。

 それに俺のせいでスキャンダルにでもなろうものなら責任が取れない。

 あくまで気づかない振りをしながら、彼女の背後を通り過ぎる。


 ――――トラブルが起きたのは、その時だった。


「……っ」


 突然、乙咲の体がぐらりと揺れる。俺は反射的に彼女の体に手を伸ばし、地面に触れる前に支えてしまった。

 サングラス越しに、彼女の青みのかかった目と視線がかち合う。


「志藤……くん?」

「や、やぁ。偶然だね。声をかけようと思ったら急に倒れてびっくりしたよ」


 よそ行きの笑顔を浮かべ、柔い声色で話す。彼女はクラスカースト的に見ればダントツ一位の女。

 いつもの声色で悪い印象を与えてしまえば、今後クラス内でどういう扱いを受けるか分からない。

 乙咲の立場があれば、気に入らないクラスメイトの高校生活など一言で崩壊させられるのだから。……さすがに大袈裟か?


「うっ……」

「体調が悪そうだけど、救急車を呼ぼうか? 俺じゃ不安ならとりあえず大人を呼んで――――」

「お腹……空いた」

「……は?」


 盛大に乙咲の腹が鳴る。どうやらこの具合の悪そうな顔も、すべては空腹から来ている物らしい。


「……心配して損した」

「あう」


 俺は彼女から支えを外し、適当に地面に転がす。そんな仕打ちをしてしまってから、俺は思わずしまったという表情を浮かべた。


「あ、ああ! 悪い――――じゃなかった。ごめんね! 体調が悪いのかと思っていたから、思わず気が抜けちゃってさ! ははは!」

「……酷い」

「うっ」


 ああ、誤魔化せないか。

 丁度いい、作り笑いも疲れてきた所だ。この際いつも通りに接してやろう。どうせ悪評を広められるなら、これ以上取り繕うだけ損だ。


「チッ……で、腹が減ってると。今のご時世それだけで動けなくなるか? 普通」

「志藤君って、そういう話し方する人だったんだ……」

「別に今は関係ねぇだろ。お前のことを話せ」

「う……いつもはここまでじゃない。でも今日はレッスンが特別だった。体は疲れてるし、お腹は空いてるし、もう動けない」

「レッスンねぇ……」


 さすがはトップアイドル。人前で最高のパフォーマンスをするためにも、日々努力を欠かさないというわけか。


「飯さえ食えれば動けるようになるか?」

「多分……」

「多分じゃ不安だなぁ。まあ仕方ない。何か食えるもんを買って――――」


 買ってきてやると言いかけて、口を塞いだ。

 最寄りのコンビニに入るとしても、五分程度は彼女をここに置き去りにしてしまうことになる。加えて人の通りは少ない場所とは言え、さすがにそろそろ周りからの注目も浴び始めた。

 これでは彼女が乙咲玲であることがバレるのも時間の問題だし、俺がいない間に悪意ある奴が彼女をどこかへ連れて行ってしまう可能性もある。

 親しくないとは言え、どうでもいいと切り捨てられる問題ではない。


「心配しすぎかもしれねぇが、念には念をだ。不快に感じても我慢してくれよ」

「え?」


 俺は彼女に背中を向け、その場にしゃがみ込む。


「背負って移動する。早く乗ってくれ」

「どこに行くの?」

「俺の家。飯を作ってやる」

「いいの?」

「お前がよければな。男の家に行くのが嫌なら、近くのファミレスに置いてく。俺は今日が消費期限の肉を使い切らなきゃいけないからそのまま帰るけど」

「想像以上に家庭的……」

「悪かったな、キャラじゃないことは分かってるよ。で、どうすんだ?」

「……じゃあ、志藤君の家で。志藤君の料理、興味がある」

「そうかい。別に大したもんじゃないから、がっかりしても知らねぇからな」


 かろうじて体を動かした乙咲が俺の背中に体重を預ける。

 大きな二つの膨らみが制服越しに当たり思わず硬直したが、邪念を払うようにして立ち上がった。

 確かな体重は感じるものの、比較的乙咲の体は軽い。

 これも女体の神秘という奴だろうか――――。


「じゃあ、出発」

「お前が仕切んな」


 おそらくはまだ彼女が乙咲だとはバレていない。下手に噂になってしまう前に、俺はそそくさと自分の家へと足を進めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る