猫又の巻

城間盛平

猫又の巻

たまは幸せな猫だ。たまは質店、さかき屋の大旦那の愛猫だ。さかき屋の大旦那はいつもたまを膝の上に乗せて艶やかな毛並みを撫でていた。たまはさかき屋の招き猫だ。と、口癖のように言っていた。その話を息子である若旦那と、嫁いだ娘がたまたま里帰りしていると決まって話すのだ。若旦那と娘は大旦那の膝の上で我が物顔でくつろぐたまを見やる。たまは一体幾つなのだろう?たまは不思議な猫だった。大旦那が若い時分さかき屋を開いてまもなくの頃、ふらりと店にやって来たのだ。三毛猫の立派な雄だった。当時の大旦那はその猫をすぐに気に入り、飼う事にした。たまを飼い始めてから商売が軌道にのり出したのだ。たまは人間の言葉も解るらしい。若旦那がまだヨチヨチ歩きの赤ん坊の頃、ちょっと目を離した隙に、縁側の方まで行ってしまっていた。大旦那の細君が危ない、と大声を出すと、すんでの所で、たまが赤ん坊の帯を咥えて助けたのだ。そんな事が度々あった。若旦那はすでに二十歳を越えている。その若旦那よりたまは年上なのだ、いずれ尻尾が割れて言葉を話し出すだろうと家族で笑うのだ。


当時の江戸では町人の間で、金子きんすの当てが無いと、気軽に質店に質草を入れて金を借りていた。しかし質店では店によって利息も異なっている。さかき屋の大旦那は誠実な仕事ぶりと、期日までに返済できない者には、返済期限を延ばしてやるなど親切な接客で繁盛していた。だが同業者からは妬まれてもいた。ある時事件が起きた、さかき屋に賊が入ったのだ。賊は全部で五人、刀で奉公人を脅し、金品を奪い、そして大旦那の部屋を聞き出した。大旦那は物音に飛び起きると襖を開けた。そこには刀を構えた賊がいた、大旦那は逃げようと慌てて背を向けた。背中に熱い痛みを感じる、斬られたのだ。大旦那は這いずるようにして自室に戻り、大旦那の布団の上に寝ていたたまに話しかけた。


「たまや、あたしはもう死ぬ。だがあたしの仇を必ずとっておくれ」


それだけ言うと大旦那はこと切れた。たまは大旦那の骸をジッと見つめた。たまの体の内側からふつふつと熱いものがこみ上げて来た。主人を殺された溢れ出さんばかりの怨みだ。たまの尻尾はブルブル震えると、ゆっくりと二つに裂けていった。たまの身体はムクムクと大きくなり虎ほどの大きさになった。たまは大旦那の骸を飛び越えると、外に飛び出した。軽やかに屋敷の屋根に登ると、鼻をヒクヒクさせた、大旦那の血の臭いがする。たまは大旦那の血の臭いを頼りに走り出した。




夜更けにも関わらず屋敷のひと部屋に灯りが灯っていた。質店、関口屋のあるじの部屋だ。


「この度はありがとうございます。お約束の金子きんすでございます」


関口屋のあるじはニヤニヤといやらしい笑みを浮かべながら、金子きんすの束を目の前の男に差し出す。男は金子きんすをむんずと掴んで懐に入れた。男は盗賊の頭領だった。


「俺がさかき屋に盗みに入って、金子きんすと、ついでにあるじを殺してくる。関口屋は目下のたんこぶが消える。双方得を得たな」

「へえ、左様で」


関口屋のあるじは大分以前から、さかき屋を目の敵にしていた。自身の悪どい商いの仕方を棚に上げ、さかき屋の繁盛を妬んでいた。そして遂に悪漢を雇ってさかき屋のあるじを亡き者にしたのだ。これからはさかき屋の客も関口屋のものだ。関口屋のあるじが想像を巡らせていると、部屋の外が騒がしかった。盗賊の頭領が訝しんで障子を開けると、そこには虎ほどもある巨大な猫が頭領と関口屋のあるじを威嚇していた。化け物め。頭領は腰の刀を抜いて構えた。



さかき屋の若旦那は呆然として父親の骸の側でしゃがみこんでいた。奉公人の話では賊は五人、早急に金子きんすを差し出した奉公人は無事だったのに何故父だけが殺されたのだろうか?まだ商いのいろはを父に指南してもらわなければいけなかったのに。一体これからどうしたらよいのだろうか。どれくらいの時が過ぎたのだろうか、若旦那はそこで初めて父の愛猫のたまの姿がない事に気づいた。たまや、たまや、出ておいて。若旦那はたまに声をかける。しかし、一向に姿が見えない。もしかしたらこの事態に驚いて何処かに隠れてしまっているのかもしれない。するとチリリン、と鈴の音が聞こえた。たまの首輪についている鈴のものだ。若旦那は障子戸を開けた。中庭には目当てのたまではなく、何か固まりのようなものが二つ、そして賊に盗まれたはずの千両箱が置いてあった。若旦那が庭に下りてその固まりに近づくと、ヒィッと声を上げた。月明かりに照らされた固まりは人間の頭部だった。若旦那が恐る恐る確認すると一つは、関口屋のあるじのものだった。もう一つの頭部は誰のものかわからない。だが、面構えの凶悪な男だった。二つの頭部は、まるで大型の獣に食い千切られたような傷口だった。ふと首の側を見ると、小さな鈴が落ちていた、たまの鈴だった。若旦那は小さな鈴を拾い上げると一人呟いた。


「たまや、お前なのかい?」


若旦那の問いかけに答えるものはなく、ただ月だけが事の顛末を目撃していた。




呉服屋、末広屋の旦那、嘉平かへいは帰りの道を急いでいた。思ったより寄り合いの話が長引いてしまい、もうとっぷり夜になってしまった。真っ暗な道を提灯で照らしているのは十歳になる小僧の六太。可哀想に眠そうに歩いている。六太は四年前に末広屋に奉公に来た。嘉平は奉公人は大人しか入れていなかった。小さな子を親から引き離す事をよしとしなかったからだ。しかし六太は、たっての願いで渋々引き取った、言わば口減らしだ。気乗りせず引き取った六太は健気に仕事をこなしていた。嘉平と細君は六太を一目で気に入ってしまった。嘉平は子宝に恵まれなかった、六太を養子にして、いずれ末広屋を継いでほしいと考えているのだが、はたして六太が大きくなるまで自分は生きていられるのだろうか、嘉平は既に五十を過ぎていた。嘉平が物思いに耽っていると、六太がキャッと声を上げた。提灯の灯りに照らされて、道の前に何かがいる。嘉平は六太を後ろに下がらせて、その何かに近づいた。それは猫だった。全身に傷を負っていて虫の息だ。可哀想に、嘉平は自身の羽織を脱ぐと、羽織で猫を包み、抱き上げた。


たまは夢をみていた。先ほどまで感じていた全身の痛みは今は感じない。誰かがたまを優しく撫でてくれている。きっとご主人だ、ご主人はいい人間だったから、死んで極楽浄土に行ったんだ。自分はご主人の仇を討った忠猫だから、仏様がたまも極楽浄土にあげてくれたのだろう。たまは安心して眠りについた。


たまは全身の激痛で目を覚ました。悪漢に斬りつけられた刀傷の痛みだ。どうやらたまは生き残ってしまったようだ。死んでご主人の元に行きたいのに、死なせてくれ、ご主人のいないこの世に未練は無い。そんな寂しい事言っちゃいけないよ。見知らぬ声にたまが重い瞼を開けると、そこには中年の男がいた。男はたまの頭をやさしく撫でてから、たまの口に匙を差し出した。たまが舌で舐めると甘かった。どうやら飴湯のようだ。たまは飴湯を数匙舐めるとまた目を閉じた。そんな事が何度も続き、気がつくとたまはみけになっていた。


「みけや、さぁおいでいい子だねぇ」


末広屋の旦那、嘉平は愛猫みけを呼ぶ。みけはニヤァと返事をして、嘉平の膝の上に陣取った。首には鈴のついた紐が結ばれ、みけが動く度にチリリンと鳴った。嘉平はみけの綺麗な毛並みを優しく撫でた。みけは幸せな猫だ。嘉平も、嘉平の細君も、小僧の六太も皆みけに優しかった。こんな幸せがずっと続けばいいとみけは思っていた。ある時嘉平の細君が流行病にかかり死んでしまった。嘉平の落ち込みようは激しく、周りの奉公人も声をかけられないほどだった。みけは嘉平の側を片時も離れなかった。仕事の時は勿論、眠る時も側にいた。嘉平が悪夢にうなされた時は、嘉平の手をペロペロと舐めて、嘉平を起こした。


ある時みけは嘉平のある変化に気がついた。嘉平が仕事の最中よく書き間違えるようになったのだ。算盤をする時、帳面に書き付ける時、度々番頭から指摘を受けていた。嘉平の目が悪くなってきたのだ。ある夜みけは手水鉢を熱心に覗き込んでいた。手水の水は江戸の町を映し出していて、みけが意識を集中すると屋根が透けて見え、家人が何をしているのか視えるのだ。みけは熱心にある人物を探していた。眼鏡を作る職人。当時の江戸では眼鏡は高価で庶民がおいそれと持てる代物では無かった。嘉平に眼鏡を持たせてやりたい、それも質のいいものでなければならない。苦心の末、やっと文字通りみけのお眼鏡にかなう職人を見つけた。長屋に住んでいる腕のいい宝飾の職人だ。眼鏡のレンズはガラスか水晶を研磨して作る、この研磨の技術が眼鏡の良し悪しを決める。この職人は腕はいいが愛想が悪く中々商売が上手くいかないようだった。


嘉平が帳面を書いていると、番頭が嘉平を呼びに来た。どうやら眼鏡の行商が来ているらしい。眼鏡という代物は、以前嘉平も試してみたが、目がクラクラしてどうもうまくなかった。番頭がやんわりと断ったが、嘉平に会わないと帰らないというのだ。嘉平は仕方なく重い腰をあげた。


嘉平が店の入り口に行くと、大きな箱を担いだ行商の男がいた。男は歌舞伎役者もかくやというような二枚目で、髪は髷を結っておらず、長い髪を後ろで束ねていた。一見どうにも胡散臭かったが、目は真剣だった。大きな瞳は必死に嘉平に訴えかけていた。この瞳は誰かに似ている。そうだ、みけだ。みけはいつも必死に何かを訴えようと嘉平を大きな瞳で見つめるのだ。そういえば今日は朝からみけを見ていない。みけは一体何処に行ったのだろう。嘉平が明後日の事を考えていると行商の男が口を開いた。


「突然押しかけて申し訳ありません。末広屋の旦那さまがお目を悪くされたと聞きましたので、是非この眼鏡を試していただきたく存じます」


有無を言わさぬ男に気圧されて、嘉平が眼鏡をかけた。嘉平は驚きの声をあげた、今まではっきり視えなかった手元がよく視えるのだ。行商の男にも嘉平の喜びが伝わったのか、ほっとしたような満足な笑顔を浮かべた。行商の男は、この眼鏡を作った職人は腕が良いが中々客に恵まれないと話し、客を紹介して欲しいと頼まれた。嘉平はこのような素晴らしい眼鏡を作るならと客を紹介する事を約束した。


眼鏡を手に入れた嘉平は以前にも増して仕事に励んだ。その横でみけは満足そうに寛いでいた。時が経つにつれ、次第に嘉平は床にいつくようになった。嘉平は自身の命があとわずかな事を知っていた。みけや。嘉平は優しい声で愛猫を呼ぶ。みけはニャアと返事をして嘉平の枕元にかけよった。


「みけや、お前が嫌でなければなんだが、あたしと人の言葉で話してはくれないかい?」


みけは一瞬ギョッとしたが、少し躊躇した後、ゆっくり話し出した。人間の声で。


「ご主人。俺が、言葉を話したら気色悪くないか?」

「ちっとも気色悪くなくなんかないよ。知ってたよ、みけを拾った時からね。みけは言っていたね。ご主人がいない世の中で生きていたくないって。あたしはね、そんな悲しい気持ちで死なせてはいけないって思ったんだよ」


みけは静かに嘉平の話しを聞いていた。


「眼鏡の行商もお前なんだろ?ありがとうな眼鏡のおかげで仕事ができたよ。なぁみけや、あたしの最後の願いを聞いてくれないかい?」

「ああ、俺にできる事なら」

「六太は今十六になる。あたしの仕事を手伝ってくれる、中々筋もいい。だがあたしは六太が末広屋の跡を継ぐまで生きられそうにない。なぁみけや、あたしの代わりに六太を立派な跡継になるまで見守ってくれないかい?みけはあたしの側にずっといたから末広屋の仕事も分かるだろう?」

「それがご主人の願いなら」

「ああ、ありがとうみけや。お前がいてくれて本当に幸せだった。妻が亡くなった時片時も離れず側にいてくれたね、それがどんなに慰められた事か」

「俺だって、ご主人に拾われて幸せだった。俺はご主人も六太も大好きだ、もっと一緒にいたいんだ」


嘉平は微笑んでみけの頭を撫でた。それからしばらくして、嘉平は息を引き取った。みけは嘉平との約束通りにした。みけはまだ温かみのある嘉平の死体の上に乗った、するとみけの身体がズブズブと沈んでいった。そして、嘉平の身体がむくりと起き上がる。みけは嘉平の身体を動かして、六太が成長して末広屋を継ぐまで彼を育てなければいけない。それが大恩ある嘉平の望みだからだ。嘉平が元気に仕事をしだすと、六太も奉公人たちも喜んだ。六太は嘉平の指示のもと立派に成長していった。しかし一つ困った事があった。みけは嘉平の中に入って、嘉平を動かしているので、嘉平と共に姿を現わす事が出来なくなった。六太がみけを呼ぶと、みけは嘉平の身体を安全な場所に隠してから姿を現し、奉公人が嘉平を呼ぶと、慌てて嘉平の中に入り、奉公人の前に行くのだ、実に慌ただしい。六太が二十歳になったのを機に、嘉平は六太を養子とし、末広屋の跡継にすると宣言した。奉公人たちに異論は無かった。六太は妻を娶り、子が生まれた。末広屋はおおい繁盛した。もうこれで充分だろう、ご主人。みけは嘉平の身体に入りながら、嘉平に語りかける。嘉平は体調を悪くしたと周りに言って、床につくようになった。そしてしばらくすると、みけは嘉平の身体から抜け出した。


嘉平を起こしに来た六太は、嘉平が死んでいる事に気がついた。思えば嘉平は実の父親以上に六太を大切にしてくれた。六太はこれからも嘉平の末広屋を繁盛させて行く事を心に誓った。ふと嘉平の足元を見ると、みけが丸まって冷たくなっていた。六太はみけが主人を追って死んだのだと思い、嘉平とみけを共に埋葬した。周りの者には畜生と一緒に埋葬するなんてと反対もあったが、六太はこれが嘉平の望みだと思い実行した。


嘉平とみけの入った座棺ざかんは墓の下に埋められた。夜空に月がのぼった頃、嘉平の墓の土がモゾモゾ動き出した。すると、死んだはずのみけが這い出てきた。みけはブルブルと身体をふるわして土を落とした。そしてみけは嘉平の墓の下で丸くなった。もうみけは死ぬまでこの場所を動く気は無かった。

何も飲まないで、何も食べないで、寿命が尽きるまでここにいるのだ。猫又の寿命がいつまで続くかわからないがみけの決意は硬かった。


『みけや』


懐かしい声にみけは顔をあげた。そこには会いたくて会いたくて仕方なかった嘉平がいた。


『みけや、ありがとうな。あたしの願いをよく叶えてくれたねぇ』

「ご主人、会いたかった。俺頑張ったよ、凄く。だからもうご主人の側に行っていいだろ?」


嘉平は笑顔を浮かべてみけの頭を撫でようとしたが、嘉平の手はみけをすり抜けてしまった。無理もない、嘉平は霊魂なのだから。


『みけや、よく聞いておくれ、まだあたしの側に来ちゃあいけない。みけの寿命が自然に尽きるまでじゃなきゃあね』

「俺もう嫌だ、ご主人に会えない寂しさに耐えられない」

『みけや、人間はねお前ほど長生き出来ないんだ。だからね、みけと同じもののけの仲間を探すんだ。みけが一緒にいて幸せになれる仲間を。その仲間と幸せに暮らして、みけの寿命が尽きたら、あたしの所においで、あたしは、みけの前のご主人と一緒にお前の事を待っているから、安心して行っておいで』


みけは嘉平の顔をジッと見た。まるで目にしっかり焼き付けるように。


「ご主人、約束だぞ。俺が死んだらきっと迎えに来てくれよ」

『ああ、約束するよ』


みけは後ろ髪を引かれるように、何度も嘉平を振り返りながら歩いて行った。嘉平はみけの姿が見えなくなるまで見送ると、フッと姿を消した。


江戸の関所へ続く道を一人の旅装束の男が歩いている。男は歌舞伎役者もかくやという二枚目で、髪は無造作に結んでいる。首には鈴のついた紐を下げていて、彼が歩く度にチリリンと音が鳴った。男はふと空を見上げ、微笑むと歩き出した。後ろは振り返らなかった。
















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