罪を食らう少女
草野猫彦
第1話 罪を見る少女
目覚めた瞬間に、だいたいその日の良し悪しが分かる。
晴れていたら最悪。曇りだったら、大体良し。
冬の曇天が一番いいけれど、油断していたら痛い目に遭う。
この梅雨の時期はだいたい安心だけれど、時々の晴れ間が怖い。
枕元から、度の入っていないメガネを装着。気休め程度だけれど、ないよりはマシ。
鏡で確認すれば、顔色は今日も悪い。
スマホによると、今日はほとんどは曇り。じゃあ日中はだいたい平気だろう。
最後にすっきりと目覚めたのはいつだろう?
少なくとも祖母が亡くなってからは、一度もないと言える。
死にたい。
(でも、ちゃんと生きなきゃ)
小さな仏壇の中には両親と祖母の位牌。
本当なら祖父の位牌も置かなければいけないのだけれど、スペースの関係でその余裕はない。
叔母夫婦が管理してくれている田舎の家には、大きな仏壇があった。
両親が生きていれば、もう少し広い家に移っていたかもしれない。
田舎から出てきて一緒に住んでくれていた祖母が亡くなった今、一人でこのマンションにいる理由は少ない。
けれどもこれは両親が残してくれたものだし、下手に引っ越してしまって、近所に変な人がいたら困る。
通学路が短くて済むというのが、一番大きな理由だろうか。
月に一度様子を見に来てくれる叔母が作ってくれた惣菜を少しと、パンを一枚。
健康的ではないと分かってはいるけれど、朝食はあまりお腹に入らない。
今日が無事に済めば、昼と夜はしっかりと食べられる。
無事に済まないことが多いので、図らずもダイエットには成功してしまっているが。
「行ってきます」
誰もいない家の中へ、澄花は呟いた。
雨宮澄花は、不幸とまでは言わないが、幸福とも言えない人生を送ってきたと言える。
中学生の時に両親を事故で失い、一人だけ生き残った。
田舎から祖母が出てきてくれて一緒に暮らしていたのだが、その祖母も半年前に突然の脳溢血で死亡。
隣県に住む叔母は、一緒に暮らさないかと言ってくれたが、それは澄花には無理だった。
そんな家庭環境とは全く別に、彼女には不幸と言えるだけの理由がある。
祖母が亡くなった今、もう誰にも言おうとは思わないし、言っても意味はないだろう。
「お、スミじゃん」
エレベーターを待っている間に、忍び寄ってきた気配が背後に現れる。
「あ……竹見くん」
竹見誠は同じ高校の生徒で、中学入学時に引っ越してきて知り合った少年だ。
年頃が年頃だけに、そう仲良くもしてはいなかったが、同じ学校なので両親の付き合いはそれなりにあった。
「相変わらず顔色悪いけど、ちゃんと食ってんのか?」
彼自身は、割と明朗快活なスポーツ少年と言えるだろうし、周囲もそう見ている。
「竹見くんは、今日は部活は?」
いつもは顔など合わさないのに。
「テスト前じゃん。やっぱ秀才はそんなの意識してないか」
「そういうわけじゃないけど……」
週に三日しか活動しない美術部の澄花には、確かにあまり関係のない話だ。
「あ、忘れ物」
そして澄花は部屋へと戻る。誠の怪訝な視線を感じながらも。
怪しまれるかもしれない。けれど仕方がない。
今はもう、誠が怖い。
部屋に戻り、息を整える。
たっぷりと時間を経てから、チャイムぎりぎりに間に合うように、澄花は部屋を出た。
教室に入った瞬間には少し視線を向けられるが、すぐにそれは元に戻る。
「アマミー珍しくぎりぎりじゃん」
気軽に声をかけてくるのは、前の席の飯田春菜。いかにも遊んでそうな、派手目の化粧。
ただ澄花には、気軽に接せられる相手だ。
「忘れ物しちゃって」
「ふ~ん」
それだけのやり取りであるが、澄花にとっては他人と話すのが、これだけ楽な人間は珍しい。
飯田春菜は善良だ。
少なくとも澄花の基準では。
「そいやアマミー、今日転校生来るってさ」
まだ話は終わっていなかったのかと思う澄花だが、すぐに春菜はまた前を向いて友人たちと話し出す。
これぐらいの距離感がいい。善良な人間が話しかけてくれる。それだけで、世界にとどまる力をくれる。
こんな時期の転校生に関しては、澄花は全く興味を抱いていなかった。
教師の説明があり、教室に入ってくる転校生。
長い黒髪の、美しい少女。男女問わず声が洩れる、造形美の優れた、明らかに異国の血が混ざっているような。
「九条沙耶子です」
その声さえも玲瓏である。
だが澄花にとってはそんなことはどうでも良かった。
窓際の一番後ろ。そんな席の澄花は、外の天気にばかり視線が向かう。
雲の隙間から、少しだけ光が射す。
嫌だな、と思いつつも光射す教室内を見て、澄花は凍りつく。
光が、影を作る。
そしてその中に、澄花は人の悪意の記録を見る。
心臓の鼓動が大きすぎる。
雲の切れ間は一瞬だったが、その一瞬の間に、澄花は見た。
九条沙耶子と名乗った少女。その影を。
耐えられない痙攣が内臓を揺るがす。
(人殺し――)
あまりの衝撃に意識を手放した澄花は、腰を浮かしかけたまま倒れこんだ。
いつからだろう。
太陽が怖くなったのは、影の中に罪の記録を見るようになってからだ。
あの、事故でただ一人生き残ってから。
傷害、窃盗、詐欺、そして殺人。
幾つもの形で罪が見えるようになり、そして澄花は影を作り出す太陽を憎むようになった。
月光や電気の光でも、影の中には罪が見える。
だが太陽のそれと比べれば、はっきりと見えないので我慢出来る。
メガネをかけるのも、対策の一つだ。気休め程度の効果だが。
恐ろしいのは、罪を犯した者が、必ずしも悪人ではないということ。
かつて田舎に行った時、近所の家の老人は、殺人者であった。
だがその老人は、戦争に行っていたのだ。
澄花の見るそれはだから、罪ではなく業なのかもしれない。
これは太陽の下では、他人のついた嘘が一瞬で分かるという働きも持っていた。
それを指摘してしまって、問題になったこともある。
けれど彼女は違う。
(名前……なんだっけ……)
知らない天井を見て、はっと起き上がる。
ここは――保健室だ。
病院に運ばれたわけではない。良かったと言うべきだろうか。
病院は怖い。
あそこには、人殺しが――正確には人助けに失敗した人間がたくさんいる。
何も悪くないのに、人を殺したと、澄花の目は判断するのだ。失敗してしまったのと引き換えに、どれだけの命を救ってきたのか、澄花の目は判定しない。
「起きたのね。頭は打ってないわよね?」
カーテンを開けた養護教諭の言葉に、頷く澄花である。
「ぐっすり眠っていたけど、寝不足?」
気絶でもしないと、しっかり眠れないのか。
だが確かに、いつもよりも深く眠ったと思う。
あの――人殺しを見たのに。
「えと、今は何時――」
「しっつれいしまーす。アマミー起きてますかー」
無遠慮に扉を開けて、春菜が入ってきた。
メガネの春菜を見て、自分のそれだと気付く。
「起きてるじゃーん。アマミーのメガネ、伊達だったんだね」
「飯田さん……」
言われてやっと、自分がメガネをしていないことに気付く。
今は必要が。もうあんな影を見たくはない。
「ほい。ご飯食べる?」
「いえ、今日は食欲が」
「じゃああたしは遠慮なく食べるね」
持っていた袋から、たくさんの菓子パンを取り出す春菜。
「私はお昼を食べてくるけど、すぐに戻ってくるから」
「はーい」
養護教諭が去っていったのに、春菜は残っている。
席が近いのでそれなりに話すし、ほとんど罪を持っていない春菜は、澄花にとって話しやすい人間ではあるのだが、普段はここまで距離感は近くない。
「飯田さん、何か用なの?」
「うん、まあね」
あっさりと肯定する春菜。
「あのさ、アマミーってさ、タケミーと幼馴染なんっしょ?」
タケミーとは誠のことだ。
「ぶっちゃけ告られたんで、身辺調査してるの」
がつん、と頭を殴られた感じがした。
人生には色々とある。それが自分のことだけでも精一杯なのだ。
他人の心配までしている余裕はない。
「幼馴染って言っても、中学からの知り合いだし、それに親同士が仲が良かっただけで……古くから知ってるってことは、子供時代のひどいことも知ってるし……」
「中学時代は不良だったとか? でもサッカー少年だよね」
スポーツマンだからと言って、健全であるとは限らない。それに目に見えない部分では、人間はいくらでもひどいことが出来るものだ。
「妹さんがいるんだけど、けっこう乱暴な扱いをすることもあったし、お母さんもけっこう手を焼いてたみたいだし……」
「なるほどねえ。でもあたしなら大丈夫かな。これでもキックやってるからね」
キックと言いながらパンチを繰り出す春菜であるが、キックボクシングだということは分からない澄花である。
春菜は体格もいいし、確かに普通の男子よりも強いのかもしれない。
だが澄花が心配するのは、そういうところではないのだ。
「飯田さんは、人の罪って、どれだけ許せる?」
「へ? ああ、万引きとかそういう? あ~、なんつーか、許せる許せないじゃなくて、やっちゃダメでしょ、そういうのは」
やはり、彼女は健全だ。
「嘘をついたことはある?」
「あ、それまで犯罪のうちか。あるなあ、さすがに」
うんうんと頷く春菜だが、澄花はただの嘘ならばそれを罪とは判断しない。
彼女の目には、はっきりと分かるのだ。
人を陥れ、自分の利益のために騙す嘘は、罪となる。
だが誰かが傷つかないためにつく、自分の得にならない嘘は、罪とは数えられないらしい。
春菜の影の中の罪は、ほとんどが幼少時に犯す、ささやかなものばかり。
「じゃあ、人殺しは?」
春菜は間違いなく、人を殺した経験はない。
「人殺しはそりゃ悪いんだけど……」
意外なことに春菜は顔をしかめる。
「あのさ、格闘技なんかやってると、最初に言われるのは、まず逃げろってことなんだよね」
君子危うきに近寄らずで、澄花も理解出来ることだ。
「下手に腕に憶えがあると、喧嘩でやりすぎちゃうこともあるんだよね」
澄花とは縁のないことだ。
「誰かを守るために人を殺すなら、それはありかな。正当防衛」
なるほど、それはまともな基準だろう。
澄花の目には、それは判定されない。
誰かを守るためでも、自分を守るためでも、殺人の履歴は影に残る。
だからこれは罪ではなく、業なのだろう。
「ま、アマミーの話は分かったよ。あたしもちょっとじっくり考えてみる」
そして春菜は去っていった。
長く誰かと話して、精神的に疲れた澄花であった。
もっと気楽な話なら、春菜相手であればたくさん話せただろうに。
けれど、彼に春菜を近づけたくない。
「人殺しは、人殺し、だから」
「へえ、誰のこと?」
それまで全く気付かなかった気配。
さっとカーテンを引いて現れたのは――。
「九条……さん……」
どうしてここに。今の話を聞いていたのか。
「私も調子が悪くて、ずっと寝ていたんだけど」
濡れるような瞳で、こちらを見つめてくる。
「あなた、人殺しを知っているの?」
雲間からまた、陽光が保健室に入る。
わずかな一瞬、弱い光ではあるが、九条沙耶子の影を形作る。
「ひ――」
影の中にある死者は、数え切れるものではない。
人間が、こんなに人を殺せるはずがない。
たとえば飛行機を数万人の人間が働くビルにでも突っ込ませない限り。
「タケミーって誰?」
ふるふると澄花は首を振る。
「私は何も見てない!」
「嘘」
瞳の輝きに吸い込まれそうになる。
「本当に、知らない!」
「……そう」
近づけていた顔を、沙耶子は遠ざける。
「貴方、面白いわね」
調子が悪いと言いながらも、しっかりとした足取りで出口に向かう。
そして退室する前に、また少しだけ言葉を発した。
「私、貴方と友達になりたいわ」
その言葉の余韻を感じながら、澄花はじっと、己の震える体を抱いていた。
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