第440話 最後の覚悟
元不良彼氏が自分たちの横を通り過ぎる瞬間、彼の視線が一瞬だけこちらを見たような気がした。
あの頃に感じた恐ろしさは跡形もなく消え去っていて、そんな姿を見てしまえば文句を言う気さえ湧いて来ない。
心の中で深いため息をついた
しかし、少しも力の入っていない彼女を支え切るのは難しく、仕方なく膝を折ってそっと床に腰を下ろさせる。
「ハルちゃん、大丈夫?」
そう声を掛けながら背中を擦るが、何かを思い出しそうな時に起こるいつもの発作とは明らかに違っていた。
それもそのはずだ。もし、いい思い出を引き出すスイッチが唯斗だったなら、彼女はその正反対の存在の顔を見てしまったのだから。
「っ……はぁ……はぁ……」
「誰か、お医者さんを呼んで下さい!」
場所が病院だったことが不幸中の幸いだったかもしれない。彼が大声を上げるとすぐに看護師さんたちが駆け寄ってきて、過呼吸になっている彼女に処置を始めてくれた。
しかし、それでも晴香は唯斗の服を掴んで離そうとしない。目は虚ろで体はぐったりとしているのに、必死で何かを伝えようとしているのだ。
「…………た……」
「き、聞き取れないよ」
「お…………した……」
「え?」
耳元に寄せられた口から発されるのは、ほとんど息が肺から流れ出る音だけ。
それでも、その中へ僅かに込められた決死の叫びは、3度目でようやく彼の鼓膜をはっきりと震わせた。
「思い出した、全部」
「……ハルちゃん」
その事実だけは何が何でも伝えるという覚悟があったのだろう。晴香は開いた口を閉じると、唯斗の胸の中へと倒れて動かなくなってしまう。
いつものように、記憶が戻ろうとすることを阻止しようとした脳が自己防衛として睡眠のスイッチをオンにしたのだ。
次に起きた時は思い出したことも全て忘れてしまっているかもしれない。以前も同じようなことがあったから否定は出来ないだろう。
それでも、駆けつけてくる医者や担架に乗せられる彼女の姿を見て、彼が自分も最後の覚悟を決めなくてはならないと拳を握りしめたことは言うまでもない。
「……もう、過去から逃げちゃダメだ」
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「
「それってどういう……」
「いつもよりも疲弊しているため、目覚めるのに時間がかかる可能性があるということです」
「そんな……」
「時間がかかると言っても、長くて数日程度で、点滴などを行えば命に関わることはないでしょう」
「それなら良かったですけど……」
数十分後、迅速な処置のおかげで晴香の容態は落ち着いていた。しかし、少なくとも今晩は目覚めることはないらしい。
彼女は今、緊急入院という形で精神科の病棟の個室で眠っている。お医者さんは一通り状況を説明すると、ベッドの傍を少しも離れようとしない唯斗に背を向けて退室した。
「……ハルちゃん、大丈夫だよ」
聞こえているのかは分からないが、手を握りながら安心して欲しいという気持ちを込めて話し掛ける。
点滴のチューブが繋がれた状態の姿は、それが栄養投与のためのものだと分かっていても病人というイメージを植え付けてきた。
この光景を眺めていると、晴香が意識不明だった頃もこんな感じだったのだろうかという考えが過り、ついつい視線が下を向いてしまう。
それでもあの時とは違って、自分は彼女の傍に居る。こうして手を握ってあげられているのだから、状況はきっといい方に進んでいるはずである。
「今度こそ覚悟を決めたから。大丈夫、一緒に思い出と向き合えば乗り越えられるよ」
そんなふたりゴトを呟いた唯斗は、まだ効き始めない暖房のせいで冷えた指先を温めてあげながら、過ぎていく面会時間も気にせずにせっせと今出来ることを探し続けたのだった。
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