第82話 取引成立……?
「また負けたー!」
「えへへ、12連勝♪」
いつかのマシュブラでまたも場外へと吹き飛ばされた
「師匠、休憩にしよっか」
「私はまだやれるぞ!」
「おトイレ、さっきから我慢してたの」
「にゃるほど」
夕奈は腕を組んでウンウンと頷くと、行っておいでと手を振るふりをして
突然の奇行に驚いた彼女は尻もちをつき、直後に「あっ」と短く声を漏らした。
「し、師匠……」
「どうした弟子よ」
「ほんとに危ないから……」
ソファーでくつろいでいる唯斗にすら、天音の声が震えているのがはっきりと分かる。
まさかと思ってチラッと視線をやるが、どうやらまだ大惨事になったわけではないらしかった。
「離して……」
「漏れるの?」
「……」コクコク
もう言葉も出せないほどの極限状態。普通ならすぐに離れてあげるところを、何故か夕奈はニヤリと笑って天音の脇腹に指を這わせた。
「っ……だめぇ……」
「ケケケ、やめて欲しくば次の勝負で私に勝たせるのじゃ」
「わかった、負けてあげるからぁ……」
なんとも姑息な取り引きである。いくら勝てないからと言って、生理現象が引き起こす危機をその材料にするなんて。
「あと、ドーナツも奢っ――――――」
「いい加減にしなよ」
「ギブギブ! 腕外れちゃう!」
あまりの大人気の無さを見兼ねた唯斗が右腕を掴んでグイッとやると、夕奈はそこそこ痛かったのか床をバンバンと叩いて降参のアピール。
それを確認してから「早く行っておいで」と声をかけると、天音は下腹部を押さえながら大慌てでリビングから飛び出して行った。
「……ねえ、夕奈」
「な、なんでございましょうか」
「天音に酷いことしたら怒るよ」
「唯斗君が怒ってるところ見た……くないですはい! 調子に乗りすぎました!」
ヘコヘコと土下座をする彼女に、「次やったらもう口聞かないから」と告げてソファーに戻る唯斗。
彼が読書を再開すると、おそるおそる隣に座りに来た夕奈は不思議そうに本を覗き込んできた。
「唯斗君って本読むんだ?」
「眠くない時はね」
「何の本?」
「これ」
唯斗がブックカバーを外して見せた表紙には、『隙間、空いてますよ』と言うタイトルが書かれてある。
夕奈はそれを見て少し苦い顔をすると、「もしかしてホラー?」と聞いてきた。
「もしかして怖いの?」
「ち、違うよ?! ただの確認だから!」
「ふーん。でも、全然怖くないよ」
この物語は、どんなに細い隙間にでも入り込んで通行人を驚かせる妖怪スキマ女が、ビックリしたことの無い少年を驚かせようと奮闘するお話。
妖怪目線で描かれているので怖さは全くなく、むしろ失敗を繰り返すスキマ女が気の毒に見えてくるほど。
不安そうな夕奈にそう教えてあげると、彼女は興味を持ったのか「私も読んでみたい!」と肩をくっつけてきた。
「読み終わったら貸してあげるよ」
「よしっ! じゃあ、また受け取りに来るね」
「……やっぱり貸すのやめる」
「なんで?!」
こちらから夕奈が家に来る理由を作るなど、遠ざけたい唯斗からすれば愚行である。危険の芽は早めに摘んでおくに限るのだ。
「いいし、自分で買いに行くから!」
「わざわざ? 面倒じゃない?」
「誰のせいじゃおら」
「……わかったよ。本渡したらすぐ帰ってよ?」
「ほんとは夕奈ちゃんと一緒にいたいくせにー♪」
「もう絶対貸さない」
「じょ、冗談だって!」
「爆速で帰るからお願い!」と頼んでくる彼女。唯斗も鬼では無いので、そこまで言うならと仕方なく貸してあげることにした。
自分が面白いと思っているものが広まるのは悪い気はしないし、何より夕奈が活字を読んで今より少しでも賢くなってくれればどんなに嬉しいだろうか。
そんな切なる願いを込めての約束なのだ。
「それにしても、キス魔女なんてのが好きなの?」
「ん?」
「唯斗君も男の子なんだねー」
「なんなら、私が唯斗君専用のキス魔になったげよっか? なんちって♪」と言ってからかうような笑みを浮かべる夕奈に、唯斗は「何言ってるの?」と首を傾げる。
「とぼけちゃってー。キス魔のお話なんて読んでるんだから、興味が無いなんて――――――――」
「いや、違うよ?」
「……ほぇ?」
夕奈がニタニタしながら眺める本を受け取った唯斗は、その表紙のタイトルを指差しながらはっきりと教えてあげた。
「スキマ女だから」
「あれ、キス魔は?」
「そんなの最初からいないよ」
「…………」
その後、顔を真っ赤にした夕奈が「何も聞かなかったことにして!」とリビングを飛び出して行ったことは言うまでもない。
そんな彼女は、雑巾で必死にトイレの前の廊下を拭いている天音を目にするのだが、それはまた別のお話である。
「ごめんね、天音ちゃん」
「うぅ、師匠のバカぁ……」
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