短篇
明乃ゆえ
書架の間を漂う煙
「<おはよう、早起きね>」
「おはよう。ウィステリア」
「<お話していかない?退屈なのよ>」
「いいよ、貴女の話を聞きたい気分」
私が誘いに了承すると書架から一冊、浅葱色の表紙が目をひく本が目の前に飛び出してくる。これがウィステリアだ。
この図書館で同じような日々を暮らし始めて随分と経った。最初は何も分からなかったが、もう一日の流れというのは決まっている。とりわけ朝は、起床して身支度を済ませた後に、まだ静かな館内を一周するのが日課だ。
大抵は、最初にウィステリアと話す。彼女は或る古い小説の登場人物で、毎日話を聞いても話題が尽きないくらい博識だった。
今日はおかしな名前をした動物の話を聞いていたが、ふと彼女が私に質問をした。
「<そういえば貴方、彼の名前を知ってる?>」
「ううん、聞いても違う名前を言われるよ」
「<どうして違うと分かるの?>」
「彼は、私に彼自身のことをその口で教えてくれたことがないから」
「<へぇ、そんな彼を信頼しているのね>」
ウィステリアは何か意味ありげに私の言葉に相槌を打つ。私は少しむっとして語気を強めてしまう。
「何がおかしい?」
「<貴方は素直な子よ>」
「……揶揄っているのなら話はここまで。次は美味しい食べ物の話をして」
質問をはぐらかされたので悲しくなり、私はおかしな名前をした動物の話も続きは断った。また明日も、彼女とは話すのだから急ぐ必要はない。
「<あら、行っちゃった。ちょっと意地悪しちゃったかしら。それにしても、可哀想な子。此処のことも、彼のことも、……何も知らないまま暮らすのね>」
*
「〈共鳴は、一縷の白煙を描いて降下している。〉」
また、「どれか」が喋っている。どうやら詩の一節のようだ。
本は読まれなければ石のように固く無機質な物だと思っていたが、案外そうでもないらしい。それも、この図書館に限ったことかもしれないが。
しかし、私は此処以外の図書館のことを文献と、当館の司書である主人の愚痴でしか聞いたことがないため全ての資料が黙って整然としているというのも想像がつかない。
「呼びかけに無闇に応じるな」と呆れつつも私に釘を刺す主人を思い出したが、己の好奇心には負けてしまう。声がする方に近付くと、書架でひしめき合う本たちの間に小さな詩集が窮屈そうにしている。背に金で箔押しされた文字が目の形を模して此方を見ていた。
すると、お前の目は何を見ている?と、名も分からない詩人が書架から問い掛けてきた。今度は金の文字が口の形になろうと背を泳ぎ回っている。
手に取ろうとすると、パチリ…と指先に痺れが走ったので、慌てて背表紙を押し戻した。呪術の類だ。あやうく抱えていた資料を床へ落とすところだった。意趣返しのような気持で軽い封印魔法を施しておく。
本に込められた術というのは作者が面白がっているのが大概で、呪いと言ってもせいぜい、半日後に腹を下すぐらいのものだ。
私はこの閉鎖的な図書館の下働きである。私は名も持たぬ孤児だったが、幼いながら魔法がそれなりに使えて文字が読めるというだけで運良く主人に拾われ、
主人が変わり者であるので仕方がないのかもしれないが、この場所そのものも非常に変わっている。
図書館というのは本来、人に利用されて然るべき場所だ。しかし、ここは如何だろう。私と主人だけがここにある本を読み、管理し、さらに寝食を共にする家でもある。
本が詰め込まれたばかりの棚がただひしめき合い、来館者など見たことがない。重厚な出入扉は、いつも固く閉ざされている。
ウィステリアのように友好的なものは少ない。先程のように遊び半分で呪いが込められた書や、饒舌な画集は見飽きたと言っても良いだろう。最近は大量の文字を床に撒き散らす辞典も新しく見た。あれは此方が一文字ずつ拾い上げなければいけなかったので、もう金輪際やめて欲しい。
それから、此処は年中、本以外にはむせ返るほどの青空に囲まれている。広大なものではない、生命を萎びさせるように凝縮した恐ろしいものだと感じる。
その代わり映えのしない景色さえ除けば、寒くも暖かくもない静かな風が本棚の間を通り、紙とインクの匂いを運んでくるのも手伝って、私は図書館が好きだった。
「アエス。何か面白い本でもあった?」
寝起きの酷く乱れた髪型の主人が、珈琲が波波注がれたカップを手に此方へやってくる。
彼の周りの空間には常に極彩色をした魔力の塵が漂っていて、異質な雰囲気を助長している。この塵は、彼の魔力が有り余りすぎているために出現する、かなり特殊なものだという。前に話した博識な書が、自慢げにそう言っていた。
「相変わらず、変なものばかりです。詩集に呪われるところでした」
君はよく好かれているね、と苦笑し彼は窓に向かいながら煙草に指先で火をつける。紫の煙が、外の毒付くような青に重なって、朝の靄が弾けた。
彼は、成人したてのように若く見えて実際は何百年と生きていて、本人が言うにはいわゆる遺伝らしい。
それ程までに長く生きる人は、伝承で聞くような世を掌握し人を恐怖に陥れる非道な魔術師ばかりだと思っていた。魔法を使い生活する私たちは、短命が相場であるため長命は必然的に異質なのだ。
彼は居るだけで本たちに籠ったあらゆる術を活性化させるくらいに魔力が強い。その上長命だが、この平和主義でぼんやりとした主人は図書館司書以外の何者でもないのだ。
「君はこの日常が好き?」
「えぇ、退屈しませんし、貴方がいますから」
「それは随分と嬉しいことを言ってくれる。これは長生きしないと」
彼が皮肉っぽく笑った。彼が嬉しいのなら、良かった。
「……だけど…、…その」
私は言葉を続けようとした。しかし上手く思考がまとまらない。確か、前にもこんな事があった気がする。「アレ」を言おうとすると、今まで饒舌だった頭と口が動かなくなる。
「どうしたの、アエス」
彼が、私の顔を覗き込む。紫色の煙たさを連れて、黒くて底の見えない彼の不思議な色の目が、私の少し苦しそうな表情を映した。
「何か、悩みごとでもある?」
私はとても恵まれている。彼に拾われる前、川に架った橋の下で凍えながら死ぬことを待っていた私は今、こんなにも豊かな生活をしている。
だけれど、何かが足りない。
彼の手が、スッと私の頬を撫でる。その細くしなやかな手は、まるで温かくない。いつもは心地が良い温度なのに、私の感覚が狂ってしまったのか痛みを伴うほどに冷たい。
「……、その……私……」
「うん」
また言い淀むと、私と彼の間をいつもと同じ静かな風が通る。いつもと同じであるのに、彼が何故か顔を顰めた。
しかし風が通り終わった後、私には不思議なことが起こった。頭の中でチリ…と光るものが現れ、私の思考の歯車をゆっくりと、確実に動かしていく。
そして見えたものは、木々が擦れ合う音や川のせせらぎ、人々が行き交う街の雑多な音、夕や夜の空の色、星、雨、雪……。何とも虚ろで抽象的な記憶だったが、私が確かに見たことがある風景ばかりなのには間違いなかった。
これは、私には必要なものだと、たった今、思い出した。
「あの、私」
「……うん」
「……外に、出たくて」
ようやく言えた。私が欲しい、この日常に、足りないもの。
「アエス」
「はい」
私は、彼が名前を呼んで優しく笑ったのを見て、今から外に行こうと言ってくれると思った。だから嬉々として返事をした。
「それは駄目だ」
「……どうしてですか」
彼の手が今度は私の額に伸びる。朝の靄のような不透明さが私の頭の中を満たす。おかしい、何かがおかしい!でも何がおかしいのかが分からない!
「いいかい、アエス」
「……私は」
「アエス」
「<──世界は破壊と再生を繰り返している!もう外の世界は滅茶苦茶!>」
「えっ……?」
主人の声以外は静まり返っていた館内に突然、強く何かを訴える女性の声が響いた。無論、人が居るはずもなく声が聞こえた方には、先日届いた製本されていない紙の束があるのみだ。あれは、主人曰く『この世界の記録』の書だと……。
「<伝承通りに、千年生きた13人目の魔術師が世界を胎児の姿に戻した!あの真っ暗闇の世界を見た?魔法使いとしての矜持を胸に生きていた罪無き人々が、強いだけの卑劣な魔術師に石ころのように扱われた!>」
紙の束はその場を動かずに声を張り上げた。世界が、滅びたという旨を此方などお構いなしに叫んでいた。
主人の手は私から離れ朝の靄は晴れていたが、それでも私にはあの紙が訴えていることの意味が分からなかった。詩的でもなく、哲学のように筋の通った主張でもない。文学と呼ぶにはその声は悲痛だ。
「これは……」
「これはまぁ、君は名俳優だね全く。悲劇の台詞が良く似合っているよ」
彼女の叫びに取り合ったのは主人だった。私のようには本に構わない彼が、丁寧に感想を述べる。しかしそれは、少し宙に浮いたような言葉に思えてならなかった。
悲しい叫びは主人の言葉を境に少しだけ止まる。しかし直ぐに、今度は拙い罵倒が始まった。
「<嘘吐き!魔術師なぞ人の心も分からない木偶人形だ!私たちを服従させて殺した!その罪はいずれ>」
主人は紙の束を手に持った。そしていつもの様な笑顔で、それを見ていた。
「声が大きいよ。図書館では静かにね、お嬢さん」
「<ト…レ──、イズ、──!─────!!>」
彼女は何かを訴えたが、私には良く聞こえなかった。
「アエス、悪いけど僕はこの本を今から製本するよ。さっきの話はまた今度にしよう」
「っ……は、はい」
主人は彼の部屋に入っていく。再び静寂が訪れて、左側だけの耳鳴りが私の半身を支配していた。
彼の魔法で製本された本はどれも美しい。装飾が細かくて瀟洒な色使いをしている。今回も、楽しみ…だ。
私は、もう『さっきの話』が何だったか思い出せなかった。とても大事なことを忘れていたのに、また何も分からなくなっている。まるで白昼夢を見ていたかの様にその場に取り残され、窓の外の変わらない青さを見上げるしかできなかった。
書架の間を通ってきた風が私の身体を撫ぜると、訳もなく身体が熱を持ち、涙が止まらなくなった。私はその場に蹲って、声を上げないよう泣いた。どうして泣いているのか、分からなかった。
青空は憎らしくも窓枠から私を見下ろしていて、彼の笑顔と同じくらいに、いつも変わり映えしない。
この空は、この世界のどこにある空なのだろう?波波注がれた幸福を享受し続ける私は今、どこで生かされている?
何も分からない。
私の目は一体、世界の何を見ているのだろうか…。
*
「<彼の名前はトレイズというのよ、アエス。……貴方の行先に、幸あらんことを……>」
浅葱色の表紙が、書架に埋もれて誰にも届かない声でそう呟いた。
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