野花
高麗楼*鶏林書笈
第1話
意識を取り戻した彼女は身体を動かそうと試みた。手足が動く。願いは叶ったのである。
彼女は天界の道端に咲く花だった。花壇の花のように手入れをされることはなく放っておかれたが、一人の少年だけは毎日のようにやって来ては水を注いでくれた。
その彼がこのところ全く姿を見せない。通行人たちの会話から少年が罪を犯し下界に流されたことを知った。馴れない場所で苦労しているに違いない、そう思った花は、自分も人の姿になって下界に行き、彼を援けたいと思った。これまでの恩に報いるために。
以後、花は毎日、自分を人間にして下界に降ろしてくれるよう祈った。それが遂に叶ったのである。
「気が付いたか?」
彼女の側の机で書物を読んでいた青年が振り向いた。
昨日、出入口の前で倒れていた彼女を家に入れ、布団に寝かせたのである。
彼女は、この方が自分の恩人に違いないと思い、身を起こすとこう言った。
「私は天涯孤独の者です。奉公先を追われて行くところがありません。どうか、ここに置いて下さい。何でもいたします」
予想外の言葉に一瞬驚いた表情を浮かべた青年は
「いいだろう」
とあっさり承諾した。
「で、お前の名前は何というのだ」
雑草の花に過ぎない彼女には名などなかった。
「……。野花と申します」
青年は小ぶりの家に本当に一人で暮らしていた。士大夫のようであるが、身辺を世話する下男下女の類もいないようである。野花は、本来彼らがすべき家内の雑用を全て行なった。道端の花でしかなかった彼女だが、何故かこうした仕事はよく出来たのである。
主人は出仕はしていないようである。だが、毎日のように来客がある。人望と学識を備えているようなので、教えを請うたり、様々な相談事に応え、そのことで生計を維持しているようだ。
学問を習いに来ている中に放蕩公子と呼ばれる若者がいた。親に言われてきているのだろうか、自身は全く学問には関心が無く科挙の準備すらしていない。
主人もそのあたりの事情は知ってか、彼が来ると酒と肴を出してそのままにしていた。
ある日、放蕩公子が野花をじっと見つめた後
「おれはお前のことを知っているぞ」
と言った。そう言われても彼女には覚えが全く無かった。
その時、外で騒ぎがした。
「ここにいるのは分かっている。奴を早く出せ!」
という怒声と共に体格のいい柄の悪い男が部屋に入ってきた。
「よくも俺の女に手を出しあがったな」
男はそういうと刃物を手にしたまま公子に向かってきた。とっさに野花は公子に抱き付いた。刃物は野花の背に突き刺さった。
その時、彼女は初めて間近に公子の顔を見た。
「あなたが……。」
野花は公子に抱えられたまま気を失った。
床に寝かされた野花の口に公子は懐から取り出した丸薬を含ませた。
「万能薬だ。怪我もすぐによくなるだろう」
薬が野花の喉を通るとその姿は消え、枕上には一輪の花が残された。
「今回も駄目でしたね」
公子の背後で声がした。この家の主人だった。
「下界で真面目に暮らしていれば、今度こそ一緒になれたものを……」
「ああ、やっとここで会えたのに。もっと早く身辺をきれいにして彼女を迎えに来るべきだった」
公子は花を手にすると懐に入れた。
主人は彼に向かって何かを呟くと、公子の姿は消えてしまった。
鉢植えの花に彼は今日も水を注ぐ。そして窓辺の日当たりのよい場所に鉢を移す。彼は鉢植えを大切に扱っていた。
野花 高麗楼*鶏林書笈 @keirin_syokyu
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