第7話 おねだり

 それでは、娘の話を致しましょうかな。わたくしの命とでも言うべき、愛する娘の話を。よろしいか! 愛すると言いましても、娘でございますぞ。ええええ、娘でございますからな。

 わたくしはですな、もちろん作業場でございますよ、はい。上菓子の製作に汗を流しております。お通夜のお宅がございまして、そのご用意をさせて頂いております。箱詰めの作業に勤しんでおりますところでした。ひと休みしたいのでございますがな、正直のところは。妻と娘がですな、仲睦まじくしている所など、見たくもありませんですからな。なあにもう暫くしましたらば、妻が店の方に出てまいりますですよ、はい。

 そうしましたらば、わたくしめが娘と談笑するのでございます。どんな話かと申されましても、ハハ、他愛もない会話でございます。

「毎日暑いけれども、体は大丈夫かい?」

「うん」

「今日は出かけないのかい?」

「うん」

「そうかい、家にいてくれる、、、」

「ごめん、約束があるんだったわ」

 とまあ、こんな調子でございますよ。ええええ、以心伝心でございますとも。長々と会話をする必要など、まったくございませんから。

 ある夜のことでございました。娘の妙子に、感謝の意味も込めまして「洋服の一枚も買ってきなさい」と、少しまとまったお小遣いを渡すことにいたしました。いえいえ、お駄賃はあげておりますですよ、毎回。なに、ほんの少しですから。

 は? 以前の洋服がミニスカートですと? 誰がです! そのような不埒なもの、小夜子が買い求める筈がありますまいて。え? 小夜子と言いましたか? 妙子です、妙子ですぞ。そう申したではありませんか!

 妙子や、と声をかけようとしますと、部屋から声が聞こえてまいりました。妻が、妙子と話しこんでいるようでございます。昼間にも話をしているのに、こんな遅くまでなにもを話すことがあるのでしょうかな。案外のこと、わたくしの悪口を吹聴しているのでございましょう。

「で、どうなの? お父さんのお世話、キチンとしてくれてる?」

「勿論よ! いっつも、『ありがとうな』って、手を合わせてくれてるわよ」

「そうなの、そんなに喜んでくれてるの。それは良かったわ、この先もお願いね」

「うん、良いわよ。お駄賃だって、お小遣いもくれるしさ。でも、どうしてお母さんたち、仲が悪くなったの? 以前は仲が良かったじゃない。お母さんが寝込んだ時、お父さんが寝ずの看病をしてくれたんだって?」

「そうね、そんなこともあったわね。女学校に入ってすぐだったわね。あの頃のお父さんときたら、お母さんのこと、観音さまのように崇めるところがあってね。嬉しくなんかないわよ、重荷よ。お友達の前なんかでそんな素振りを見せられて、カッときたわよ」

「ふーん、そうなんだ。ほんとにお母さんが好きだったのね。なのに、今は」

「そうなのよね。お母さんには思い当たることがないのよね。昔から本心を言わない人だったから」

「それとさ、お母さんって恐妻家なの? お父さん、いっつも遠慮気味に話すじゃない? 敬語を使ったりするじゃない?」 

「恐妻家だなんて、とんでもない。お父さんが遠慮してるだけよ。ほら、お父さんって、奉公人だったでしょ。その頃のクセが抜けないのよ」

「ふーん。コンプレックスがあるんだ。でもそれって、ある意味怖いよね」

「あら、どうして?」

「コンプレックスが高じると、支配欲が生まれるんだって。ゴムボールをさ、抑え続けていくとね、限界点に達したらボン! って弾かれるでしょ? それと同じなんだって。人間の心も同じなのよ。だからね、人を責める時は気をつけなくちゃいけないんだって」

「へえ、そうなの。誰に聞いたの、先生?」

「ううん。同級生のお兄さん。すっごく頭の良い人。良いんだけど、時々訳の分かんないことを言ったりやったりするんだって」

「とに角ね、お父さんのこと、頼むわよ。お母さん、ちょっと体調が悪いみたいでね。お父さんは、妙子には大甘だからね。大抵のことは許してくれるから」

「うん、任せといて! お母さんは、しっかりと養生して」

 な、なにが、頼むわよ、ですか! 頼まれなくても、妙子はわたくしの世話をしてくれますですよ。貞節な妻を演じるのは、いい加減にやめて貰いたいものです。

 そうでしょう、皆さん。

 罪滅ぼしのつもりなのでしょうかな、まったく。それに反して、娘のなんと優しいことか。「養生してね」とは、本当に心根の優しい娘でございます。

「だめです、そんなこと。許しません。だめなものは、だめです!」

 日曜日のことでございます、突然に妻の怒鳴り声が聞こえてまいりました。珍しくも、妻と娘で言い争いを始めましたことがございます。

「だめ、だめ、だめですって! もうお店に出ますよ。お父さんに言っても、許してくれませんよ、そんなことは。第一、どうして今まで言わなかったの! 今日の明日ということはないでしょ!」

 捨てゼリフというのでございましょうか、眉間にしわを寄せたまま出て来たのでございます。鉢合わせしないようにと、わたくし、慌てて作業場に戻りましたです。

「お父さん、お父さん。ちょっと聞いてよ。お母さんたら、ひどいのよ」

 娘が頬を膨らませて、バタバタと作業場に駆け込んでまいりました。

「これこれ。ほこりを立てちゃだめだよ、ここでは。どうしたいんだい、それにしても。何を血相を変えているんだい?」

「お母さんったらさ、『だめだ、だめだ』の一点張りでね。ちっとも話を聞いてくれないのよ。お父さんは良いよね。ねっ、ねっ、ねっ。行っても良いよね」

 わたくしの背中に抱きついての、おねだりポーズでございます。固さの残る乳房を押し付けてくるのでございますよ、はい。ぐふ、ぐふ、ぐふふ…

「どこに行くんだい。映画かい? 何をお母さんはだめだと言ってるんだい。あ、そうか。一人はだめだよ。お友だちと一緒に行きなさい」

 わたくしの早合点でございました。てっきり、映画を一人で観に行きたいと、駄々をこねているのだと思ったのでございます。

「もちろんよ! お友だちも一緒よ。うぅん、先生も一緒なの」

 と、口を尖らせます。

「先生もかい? だったら良いじゃないか。何をお母さんは、怒ってるんだい。で、どんな映画なんだい?」

「違うわよ、お父さん。合唱部の合宿なの。一週間の予定でね、みっちり練習してくるのよ。今度の大会では、みんなで力を合わせて優勝を目指すの」

 目を輝かせて言いますです、はい。それはそれは、美しい顔でございます。

「ほお、ほお。でも、一週間もかい。長いねえ、それは」

「何言ってるの! 初めは、十日間の計画だったのよ。でもね、学校側の許可が下りなくてね。仕方なく、一週間に縮めたの」

「学校でやるわけじゃないのかい? 確か去年は、学校だったと思うんだがね」

「だからね、それではだめなの! 集中できないのよ。父兄がね、差し入れだなんだって、毎日誰かの所から来るのよ。お母さんも来たでしょ? それで結果は、入賞はできたけれどもさ。でも今年は、最後だしね。絶対に、優勝したいのよ。それでね、全国大会に出るのよ。良いでしょ、参加しても。もう参加するって、届けは出してあるの。ねっ、ねっ、お父さんってば」

 あ、あ、ああ……。甘美な囁きでございます。

 わたくしの耳元で、妙子が囁くのでございます。甘い吐息が、わたくしの頬にかかるのでございます。妙子の甘い香が、わたくしを包むのでございます。だめです、だめでございます。これ以上は、わたくしの理性も持ちませんです。

「妙子!」

 きつい声が、飛んでまいりました。またしても、妻の邪魔が入りました。あ、いえいえ、とんでもございません。良かったのでございます。でなければ。

「お父さん、良いって言ってくれたわよ!」と、娘が言いますです。いえいえ、とんでもございません。わたくしは、そのようなことなど申しておりませんです。とんでもないことでございます。 しかし娘は、「ねえ、お父さん。許してくれたわよね。うん、って頷いてくれたわよね」と、わたくしの背中から離れませんです。自分の体を左右に揺らせております。妙子、妙子や。止めておくれよ、いや止めないでおくれ。

「ほんとなんですか!」

 それはもう阿修羅の如き恐ろしい形相で、わたくしめを睨みつけますです。

「いや、あの、その」。しどろもどろの返事しかできないわたくしでございましたが、

「とに角、わたし、参加するから。費用は出してくれなくてもいい。お友だちにでも借りてでも、何とかするから」と、娘の妙子は強情を張りましたです。わたくしめが、妙子に責められている錯覚に陥ってしまいますです、はい。

「分かったよ、分かったから。銭箱の中から持って行きなさい。友だちに借りるだなんて、そんなことはさせられないよ」

「ありがとう、お父さん。大好きよ!」

 ああ、妻がその場に居なければどうなっていたことか。 妙子の頬がわたくしの頬にぴったりとくっついて。妙子が声を出すたびに、わたくしの頬に妙子の唇が。

 失礼しました、申し訳ございません。お話を続けましょうかな。

 正直のところは、わたくしも内心では反対でございました。いえ、妻の申すような心配事からではございません。わたくしの反対の理由は、妻と二人だけの日々が苦痛なのでございます。また、娘と離れての日々を過ごすことが、苦痛であり淋しくもあるのでございます。己の都合だけからの反対心でございました。自己中心的だとのご指摘、その通りでございます。返す言葉もございません。しかし、その頃のわたくしには、娘の居ない日々は考えられなくなっておりました。

 正直のところ、毎日の学校ですら苦痛でございました。片時も離したくない、そんな気持ちでございました。


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