第6話 疑念

 わたくしがこれ程に妻を疑いますのは、このような事があってからのことでございます。お中元の品を百貨店に買い求めに行った折のことでございます。

「お昼には、遅くともお昼どきには戻りますから」と、朝早くに出かけていきました。何時頃でございましたでしょうか。八時には、おりませなんだでしょう。

「十時の開店には、早すぎはしませんか?」と、わたくし申したのですが。「早く帰りたいので、並んでいますよ」と申します。まあそう言われれば、それ以上は申せません。わたくしとしましても、早く帰って店番をして欲しいものですから。

 ところがです、待てど暮らせど戻りませんです。一時が二時となり、柱時計が三時を打ちましても戻りませんのです。何かの事故にあったのでは? と思いましたが、それならば病院より連絡が入りますでしょうし。百貨店で何かあったのか、と心配になりました。で、電話をしてみたのでございます。

「そのような事故は聞いておりません。店内放送でお呼びしてみますので、しばらくお待ちください」

 ですが、しばらく経ちましてから、「申し訳ありせん。一旦、お電話を切らせていただけませんでしょうか。ご本人さまには必ずお伝えいたしまして、ご連絡を取っていただきますので」と言われました。

 わたくしにしても気はせきますですが、ただじっと待つのもどうかと思いまして。お客さまもお見えになられるでしょうし、何度も念を押しまして受話器を置きましてございます。しかしまた、待てど暮らせど、でございます。しびれを切らしたわたくし、百貨店に再度電話をかけました。

「大変申し訳ございません。どうやらお客さまは、お帰りになられているご様子でございます。あれから二度ほど店内放送を致しましたが、ご本人さまからのお申し出がございませんでした」

「いやしかし、昼に戻ると、遅くとも一時には戻ると申した妻が…」

 とまあ、押し問答を繰り返しましても詮無いことでございます。で、妻の帰りましたのが、夜の七時過ぎでございました。

「遅かったですね、心配しましたよ」

「ごめんなさいね。女学校時代のお友達と、百貨店でバッタリ出会いましてね。で、数人のお友達に電話をして、即席の同窓会を開くことに」

 明るく笑いながら申します。嘘だとは思いませなんだが、なにか釈然と致しません。

「百貨店に電話をしたけれども、放送は流れなかったのですか? 何時頃だったか…三時近くだったか」

「あらごめんなさい。百貨店には、お昼を食べるまででしたの。お友達のお宅に集まることにしたものですからね。で、ついつい長話しになってしまいましてね。お夕飯を一緒にしまして。えゝえゝ、あなたにはお寿司を買ってまいりましたから」

「電話の一本でも入れてくれれば、わたしだって」。愚痴をこぼしましたが、妻が両手をついてあやまりますので、まあそのままに。といいますのも、初めてなのでございますよ。あの折は、もう慌てふためいてしまいました。

「そ、そんな。手を上げてください。わ、分かりましたから。お嬢さまにそんなことをして頂くわけには。あ、いえ、お嬢さまじゃなくて」

 その折は、その話を信じておりました。気が動転してしまいました。何と申し上げたら良いのでしょうか、天地がひっくり返ったような。しかし、しかしです。今思いますれば、腹が立って腹が立ってならぬのでございます。きっとわざとなのでございますから。ああすれば、このわたくしめが、それ以上の詰問をしないであろうと、そう考えたに相違ないのでございますから。

 で後日に、大木さまからとんでもないお話をお聞きしたのでございます。にわかには信じがたいお話でございました。大木さまがおっしゃるには、あの国賊である足立三郎めが、刑務所から出所していたとのこと。使い走りの雑魚だったゆえに、さほどの刑に服することもなかったようでして。ただ、こともあろうにその出所日が、妻が百貨店に出かけた日でございました。

「まさかとは思うけれども、二人の逢引き?……まさかねえ」と、おっしゃられて。まさしく青天のへきれきとは、このことでございましょう。

「しかしもう…」

「えゝえゝ、あなたの気持ちは分かりますよ。小夜子さんは、正夫さんの奥さまですものね。でもねえ、こんなことを言ってはなんですけれど、正夫さんに嫁いだ折には、もう刑務所でしたものね。いえいえ決め付けることはできません。えゝえゝ、できませんとも。ねえ、あたしの勘ぐりかも知れませんしね。いえ、きっとそうですよ。妙子ちゃんというお子さんもいらっしゃることだし。ただ、その妙子ちゃんがねえ、どうにもねえ」

 奥歯に物のはさまったような言い方でございます。どうにも気になりますです。

「大木さま、どうぞおっしゃってください。何が気になられているのですか」

「正夫さん。あなた、ご存じないでしょ? あのアカのことは」

「はい。名前程度でございます。もちろんお会いしたことなど、一度も」

「でしょうね、そうでしょうとも。実はねえ、こんなことを言っていいものかどうか。でもあなたは知らなくちゃね。万が一にもあたしの想像が当たっていれば、ほんとに正夫さんがお可哀相ですからね。あのね、妙子ちゃんですけれどね。正夫さんに似てらっしゃる所はあるかしら? 大変失礼な言い方ですけど、まるで似てないのよね」 

 上目遣いで、それは申し訳なさそうに仰います。

「はい、それはわたしも思います。小夜子にそっくりで、わたしも良かったと思っております、はい」

「そうね、そう思うのも無理はないわね。でもね、あのアカを見知っていたならば、そうは思われないでしょうね」

「えっ? と、ということは」

「いえね、あたしがね、そんな風に感じるだけのことですからね。ほんとのところは、神さまとね、それこそ小夜子さんだけがご存知なのですから」

 いっそ何も知らぬ方が良かったと、思わないでもありません。しかしご親切心からの大木さまでございます。お別れする際には、「どうです? 梅村さん、離縁なさっては。こう言っては何だけれども、小夜子さんの仕打ちはあまりのものと思うけれども。なあに、後のことは心配ないから。お店がね、あんた一人では成り立たないことなど、百も承知です。内の娘がね、後添えに入っても良いと言っているんだけれども」などと、大木さまご自身からおっしゃっていただいて。

 ありがたいお話ではございました。しかしわたくし、離縁などとは思いも寄らぬことでございます。お気持ちだけを、と頭を下げてございます。そうでございましょう? 妙子のことを考えますと、可哀相で。あの国賊が父親だなどと知りました折には、どれほどの打撃を受けることかと。考えるだけでも、ぞっと致しますです。

 ここで少し大木さまのことをお話しておきましょうか。なぜにこれ程までにわたくしのことを気づかっていただけるのか、皆さんご不審のことでしょうから。先にもお話したと思いますですが、お世話になりました御主人さまのお店のお隣にお住まいでございました。御主人さまとも家族同然のお付き合いをされていたお宅でございます。

 ご職業ですか? はい、官吏さまでございます。なんでも、お父上も官吏さまでしたとか。ですので、大木家といえば、あのご町内では知らぬ者がいないお宅でございます。ご家族さまは、四人家族でいらっしゃいます。ご長男さまはもう独立なさっておられます。いえいえ、官吏さまではございません。大工さんでございます。代々続いた官吏さまではなく。えゝそりゃもう、ひと悶着ありましたそうで。

「勘当だ!」「ああ、結構! 逆勘当してやるよ」

 売り言葉に買い言葉でございましようけれども、逆勘当などという言葉があるのでしょうかな。しかしまあ、あの戦争で家を失ってしまわれた大木さまに「俺が建て直してやるよ」と、声をかけられたのです。奥さまは大層のお喜びでしたが、どうにも大木さまのご機嫌が悪く「お前のような半人前に建て直してもらうくらいなら、このバラック小屋で十分だ」と追い返されてしまったとか。中々に頑固なお方でして、奥さまも嘆いていらっしゃいます。

「清子に婿を取って、この家を継がせればいい」というのが、大木さまのお考えのようでございます。しかしいくら大木家と言いましても、正直あの清子さんでは。器量は、はっきり申しまして妻の足元にも及びませんです。まあそれより何より、足がお悪いのですよ。足をひきずって歩かれるお姿は、世間さまからは好奇の目にさらされておられます。

 で必然、外出なさることもなく、日がな一日を二階のお部屋の窓辺にお座りでございます。実はわたくしめの部屋が、清子さんの窓から丸見えでございまして。夏の暑い夜には窓を開け放しておりますので、寝姿を見られてしまいます。申又一枚で寝ておりますわたくしでございます。初めの内こそカーテンの陰からこっそりとのぞかれていた清子さんでしたが、ある日のことでございます。

 庭先でひと休みしておりましたわたくしめに「お腹を冷やさないの?」と、声をかけてくださいました。そしてまた「肌が白いのね、女の人みたい」と、いたずらっぽく笑いかけてもくださいました。それがきっかけで、毎日のようにお話をさせて頂くようになりました。

「マーちゃん、マーちゃん」と呼んでくださるようになったのは程なくでございました。

 あれ程に人見知りなされる清子さんが、わたくしだけとは話がはずみますです。多分、わたくしを男と意識されていないのでございましょう。いえいえそれ以上に、下男のように思われているのでしょう。小夜子お嬢さまのわたくしに対する振舞いを見ておられる清子さんですから。

「小夜子さんも、ちょっとよね」と、よく慰めのお言葉をかけてくださいましたです。自慢話をするわけではございませんが、こんな無学で不細工なわたくしめですが、「娘を嫁に貰ってくれないかね」と、大木さまより有難いお申し出を頂きましてございます。はい。お店の繁盛ぶりをごらんになり、「奥を任せられる者がいるのじゃありませんか? お足を扱うご商売ですしね」と、奥さまからお声ををいただきました。有難いお話ではございますが、畏れ多いこととご辞退致しました。

「清子もねえ、納得してくれたんだけどね。残念だね、それは。ま、すぐにと言う話でもないから、じっくり考えておくれでないかね」と、お言葉を頂きましたですが「とんでもないことです、それは。清子さんは、天女さまでございます。お忘れください、そのようなことは」と、固辞させて頂きました。

 残念がられておられましたですが、分かって頂けましたです、はい。えっ? 本心でございますか? そ、それは。まあ、よろしいではないですか。悪い気は致しませなんだですよ、それは。致しませんが。実は右足がお悪くてですなあ。は? あ、そうですか。お話しておりましたですか、そうでしたか。いえいえ、日常生活にでお困りになるほどではございませんよ。普通にお暮らしですから。

 はい? そこのあなた、やはり女性は鋭いですな。正直に申しますれば、小夜子お嬢さまに淡い恋心のようなものを抱いておりましたわたくしです。とんでもない! 結ばれようなどとは、とんでもない。そのようなことは、露ほども考えたことはございません。

 あれほどの仕打ちを受けていたわたくしですのに、なぜお嬢さまに懸想するようになったか、でございます。有り体に申し上げますと。実は、お嬢さまがまだ五歳の折のことでございました。いえ、分かっておりますです、はい。子どものたわいない戯れ言だということは。

「おとうとができなかったら、おみせはどうするの? いいわ、あたしがおみせをやる。そうだわ、まさおをおむこさんにして、おかしをつくらせればいいわ。ね、ね、まさお。いいでしょ、おとうさま。それがいいわ」。もうそれはそれは、目を輝かせておっしゃるのでございます。そして旦那様も目を細められて、「そうだな、そうだな。そうしてくれるかい」と、おっしゃられたのでございます。

 もう驚天動地とは、このようなことを申すのでございましょうか。まだ知っておりますですよ。青天のへきれきとかいう言葉もございますでしょ。無学なわたくしでも、世間一般の常識程度のことは知っておりますですよ。

 えっ? も、もちろんですとも。旦那さまのお言葉を信じたわけではございません。その程度の常識はわきまえております。ただ、その日以来、お嬢さまは、わたくしにとってかけがえのないものとなられましたです。女神さま、観音さまでございます。それはそれは、大切にお仕えいたしましたです。お風邪をひかれた折には、寝ずの看病をさせて頂きましたです、はい。いやあ、そこのお方。女、明智小五郎でございますな。参りました、参りました。

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