初恋の残滓

あやむろ詩織

初恋の残滓

 彼女に初めて会ったのは、俺が8歳の時。


 隣り合わせの領地のよしみで、昔から良くしてくれているアガト侯爵家の領地へと、父が挨拶に赴く際に、俺を連れて行ったのだ。


 アガト侯爵家は伯爵家のうちよりも爵位が上で、尚且つ、比較にならないほど財政が豊かだ。

 父としては、見た目だけは良い俺と、アガト侯爵家のご令嬢を娶わせて、自領の発展に繋げたい腹積もりがあったのだろう。


 侯爵家へ向かう馬車の中で、何としてもご令嬢に気に入られるようにと、くどくどと父に繰り返される。


 辟易する。

 今まで、庶子の俺には見向きもしてこなかったくせに。

 踊り子だった母さんを捨てて、利用できるからと俺を引き取った最低の父親。


 思惑が透けて見えて、令嬢に会う前から俺はすっかり冷めていた。


 馬車の窓に映る俺は、いつもよりも上等な装いをさせられて、まるでお人形のようだった。


 侯爵家に着く頃には、絶対に令嬢に気に入られるものかと、決意を固めていた俺だが、父と侯爵家ご当主の手前もあって、外向きは礼儀正しく振舞うことにする。


 侯爵家の令嬢は名をソフィアと言って、とても利発そうな子だった。


 手入れの行き届いた亜麻色の髪に、好奇心に溢れた栗茶色の瞳。

 まるで森の中に住む子リスのようだった。


 俺の腹の中も知らずに、ソフィアは好意をむき出しにして近寄ってきた。

 どうやらソフィアは、俺のことを一目で気に入ったようだった。

 父が満足そうに頷いている。


 無性に腹が立った。


 俺は見目だけは良かったので、今までも異性に一目ぼれされることはよくあった。

 だけどそういう子は、俺の外見にのぼせ上っているだけで、実際の俺の粗暴な性格を知ると、勝手に幻滅して去っていくのだ。


 どんなに高貴で可愛くても、結局、ソフィアもそういう女共と一緒なんだ。

 

 だとしたら、俺もソフィアを利用してもいいはずだ。

 ソフィアは俺の見た目を気に入っているだけなんだから、表面上は精々優しくしてやって、逆に俺はアガト侯爵家からの後ろ盾を得る。ギブアンドテイクの関係だ。


 愚かな子供の俺は、そんなことを考えていた。


 父親に対する当てつけもあった。


 今思えば、本当は、彼女から向けられる真っ直ぐな好意が嬉しかっただけなのに。

 父親の思惑などではなく、俺も、彼女のことが気に入ったから、婚約の申込をしただけだったのに。


 どうして思い違いをしてしまったのだろう。

 

 当時の、色んな所がひねくれまくっていた俺が気付くわけはなかったのだけれど……。


 今でも、鮮やかに思い出す。

 彼女の満開の花のように綻ぶ愛らしい笑顔を大切にし続けていたら、きっと未来は違うものになっただろうに――。


***************


 十二になった年、俺は領地を離れ、王都の王立学園に入学した。

 末子の俺は爵位を継げないので、王宮に仕官する予定だった。

 だが、ソフィアとの結婚が済めば、アガト侯爵がいくつか持っている爵位のうちの一つと土地を譲り受けることになっていた。


 ソフィアとは婚約してから、互いの領地を度々と行き来する仲になっていた。

 もちろん俺は猫をかぶって会っていたが、素直なソフィアに、段々と素の俺でも好意を持ってもらえるのではないかと思い始めていた。


 俺の入学によって、易々とは会えなくなり、ソフィアは寂しそうだった。

 むしろ俺の方が寂しかったのかもしれない。

 たった一年の辛抱だと言い聞かせる。

 

 ソフィアと手紙の交換を約束して、領地を出た俺を待っていたのは、華やかな王都の街並みだった。

 街並みだけではない、人も物も話題も、すべてが洗練されていて、田舎暮らしの俺には眩しいばかりだった。


 そのうち学内に遊び仲間が出来て、ソフィアに会えない間隙を埋めるように、俺は王都を遊び歩くようになった。


 そんな頃、庶民向けの酒場で働く娘に出会った。

 どこかで見たことがある。


 声をかけてやった俺を歯牙にもかけないすました態度。

 あちらこちらからかかる男共の甘言を軽くいなす姿に、男に慣れた強かな娘だ。最初はそう思った。


 一緒に来ていた学友から、特別枠で学園に通う平民の同級生だと聞いた俺は、興味本位で学内の彼女に話しかけることにした。

 

 ピンクブロンドの甘ったるい雰囲気を持つ彼女は、名をキャシーと言った。

 男に慣れていると思いきや、話してみると、意外なことに慎ましい。

 幼い頃に父を亡くし、弟妹を抱えて苦労しているという。


 酒場で見た姿と、その清楚な物腰とのギャップに俺はコロリとやられてしまった。

 気が付けば、恋人と呼ばれる関係になっていた。


 だが、決して本気ではなかった。


 俺には高貴な家柄の婚約者がいる。

 婚約者が王都に出てくるまでの繋ぎだ。


 ソフィアは俺のことが大好きなんだから、学生のうちの火遊びくらいは大目に見てくれるはずだ。

 気付けば、ソフィアのことはすっかり忘れていた。


************


 時は過ぎ、ソフィアの入学式の日。


 気まずい俺は、ソフィアに軽く挨拶だけすると、そそくさと側から離れる。

 美しく成長したソフィアに目を奪われはしたが、その時、俺はすっかり身も心もキャシーに篭絡されていたから。


 俺とキャシーの仲を知って、逆上したソフィアが突っかかってくるようになった。

 時には泣き叫び、時には怪我をしたふりをして……。


 育ちの良いあのおっとりとしたソフィアが⁉


 二人の女に挟まれた形になった俺は、満更でもない気分だった。

 そんなに嫉妬しなくても、いずれ俺はソフィアの元に戻るのに。

 俺への愛ゆえの行動だと思うと、面映ゆい気持ちがした。


 もちろん外向けには、悋気の激しい婚約者に困っている風を装おっていたが。


 しかし、しばらくすると、ソフィアは俺の前に姿を現さなくなってしまった。

 気になって探すと、第二王子の婚約者として有名なモスリーン公爵令嬢といつも一緒にいる姿を見かける。

 気が付けば、ソフィアの周囲には高位貴族が集い、おいそれとは話しかけられない雰囲気になっていた。


 さすがにまずいかもしれない。


 そろそろ遊びは終わりだ。

 キャシーに別れを告げようと、夜の酒場に向かう。

 着いたところで、粗末な造りの店内から、客たちの話し声が聞こえてきた。


「まったく、キャシーもうまくやったもんだなぁ」

「お前の苦労話なんか誰が信じるよ。お前の両親は村で健在じゃないか」

「人聞きの悪いこと言わないで! 私はお貴族様が喜ぶような話をしただけよ。騙される方が悪いんじゃない」


 げらげらと笑うキャシーと客たちの軽口が聞こえる。

 俺は転がるように逃げ出していた。


 なんてことだ!

 騙されていたんだ!


 ソフィアの顔が脳裏に浮かぶ。


 謝ろう!

 謝って、またソフィアと一緒に過ごすんだ!


 キャシーとは簡単に別れられた。

 向こうも俺は金払いのいい相手というだけの遊びだったんだ。


 だけど、俺にはソフィアがいる。


 それから俺は、ソフィアと話すタイミングを見計らった。

 さすがにモスリーン公爵令嬢が側にいるときには話しかけずらいので、ソフィアが一人でいるときを狙って会いに行く。

 しかし、会いに行っても、なぜか誰かしらに邪魔されてソフィアに話しかけることが出来ない。

 逆に、ソフィアが俺に話しかけたそうにしていると見えるときもあったが、そういう時に限って誰かに呼ばれる。

 それならばと思い、手紙を送るも返事がこない。


 時機を伺っているうちに、三年生の卒業式を迎えてしまった。


 俺は焦っていた。


 大丈夫。大丈夫だ。あの優しいソフィアなら絶対に許してくれる。

 そうしたら、まだ王都には慣れてないだろうソフィアを連れ出して、デートでもしよう。

 ソフィアはまだ拗ねてるかもしれないから精一杯謝って、そのうち機嫌が直ってきたソフィアと領地に居た頃の話をしたり、卒業後の話をしたりするんだ。

 ソフィアは俺のことが好きだから大丈夫……。


 ……本当に?


 ここ二年近くはソフィアと全く話していなかった。

 顔すら合わせたのは数えるほどだ。


 ソフィアが今何を考えて過ごしているのかは、今の俺にはまったくわからないんだ。


 俺は、何かとんでもない間違いを犯してしまったのではないだろうか。

 嫌な予感に、胸がざわざわする。


 そんな折、俺は担任を通して、実家から呼び出された。


 帰宅した俺は、訳も分からず父親から罵倒を浴びせられる。


「この馬鹿者が! お前が、お前のせいで!」


 激昂する父は、俺に何かの紙を投げつけた。

 

 咄嗟に掴んだ紙には、見慣れたソフィアの丁寧な文字で『どうぞ、お幸せに』と。


 頭が真っ白になる俺に、父は畳みかけるように言い募る。


「アガト侯爵から婚約を解消する旨の達しが来た! お前の素行調査が同封されてな! お前のせいでとんでもない損失だ! この穀潰しが! どこへなりとも失せろ!」


 俺はいくらかの金銭を渡されて、屋敷から追い出された。


 家から放逐された俺は、学園を退学し、寮からも出ていかなければならない。

 分かってはいるのに、体が動かない。


 ソフィアとの婚約が解消された……。


 そんな馬鹿な。

 きっと何かの間違いだ。

 これは夢なんだ。

 ソフィアが俺を捨てるわけがない!


 だが、ソフィアからの最後の手紙が俺を現実に引き戻す。


『どうぞ、お幸せに』


 俺は、取返しがつかないことをしてしまったんだ――。


 呆然と寮に戻った俺のもとへ、寮監が何かの箱を持って現れた。

 退寮の話は既に通っていたようで、俺に簡単な挨拶をして別れる。


 一人になって開いた箱の中には、ソフィアからのたくさんの手紙が入っていた。


 寮監に金を握らせ、寮に帰らず遊び歩いていた俺は、寮へと届いた手紙を受け取りに行くことがなかったので、全て保管されたままだったのだ。


 震える手で、ソフィアからの手紙を一枚ずつ読む。


 そこには丁寧な文字で、料理が上手くなった話や仔馬が生まれた話、球根から花が咲いた話などが、温かく、優しく綴られていた。

 そして、会えなくなった俺を気遣うソフィアの気持ちも……。


 次から次へとソフィアとの懐かしい幸せな想い出がよみがえる。


 こらえていた涙がぼろぼろと溢れ出した。


 どうして忘れていられたんだろう。

 どうしてソフィアにあんなひどい仕打ちができたんだろう。

 どうして――。

 どうして……。


 深い悔恨と、後悔の念に苛まれて、頭をかきむしる。

 

 もうソフィアと会うことも、話すこともできない――!

 

 未来が暗く、暗く、閉ざされた気がした。


 **********


 そして今、俺は、隣国の町の片隅で、警備兵の仕事をして食いつないでいる。


 ソフィアが隣国の学園に留学したという噂を聞いた。


 もしかしたらソフィアに会えるんじゃないか。

 ソフィアに会って、謝ったら許してもらえるんじゃないか。

 また側にいられるんじゃないか。


 記憶の片隅で、ソフィアが花のように笑っている……。


 胸元に、ソフィアの最後の手紙を忍ばせて、今日も俺は、ソフィアの面影を探して歩く。



 俺は初恋の残滓にすがって生きている。

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