3. Der Körper ist das Grab der Seele.



 たとえ答えがわかっていたとしても、それをすぐ口にするのは、この国では賢明な行為とは言えない。小学生でも知っていることだ。出る杭は打たれる。郷に入っては郷に従え。長い物には、黙って巻かれておく方がいい。

 缶コーヒーを片手に、屋上のフェンスに寄りかかっていた私の目に、ドアを開けて近づいてくる小泉の姿が映る。吐く息が白い。冬はもうすぐそこまで来ている。かつてないほど長く、過酷な冬が。21世紀初頭に始まった異常気象はひたすら加速を続け、今や東京でモスクワ並みの気温が観測されるのも珍しいことではなくなった。ビル風は台風並みに強く吹き付け、ウイルス感染症の死者数は年々記録を更新する。

「こんなところにいたんですか。探したんですよ、柚子崎さん」

「すまないな」

「寒いでしょう、屋上なんて。この時期に……」

 小泉は心配そうに言いながら、私の隣に立った。寒そうに上着のポケットに手を突っ込み、首をすくめている。

 と、私は呟く。



「え?」

「ラファエロの有名な絵画だ。古代ギリシャの哲学者たちが描かれていて、彼の最高傑作とも言われている」

「へえ、なるほど……。でも、それが事件と何か関係が?」

「ジンメルの名前が最初に現れた事件では、壁にスプレーアートが描かれていた。その内容は、天を指差した自画像だった。自画像を描くだけなら、手元まで書く必要はなかったはずだ。上げた指が示すものはなんだ?」

 小泉がフェンスに寄りかかりながら、首をひねる。

「難しいですね。天国を差しているとか?」

 私は首を横に振った。

「『アテナイの学堂』に描かれた哲学者の中に、プラトンという男がいる。そしてプラトンも、指を天に向けた姿で描かれている。指の上げ方や首の角度まで同じだ。おそらくこれを模倣したんだろう」

「はあ。でもどうして……?」

「プラトンはイデア論で知られる哲学者だ。そして、『人間の魂は肉体という牢獄に閉じ込められている』という思想を唱えていた。死んだ青年も同じ考えだったのかもしれない。薬漬けになった肉体から解放されることを望んでいたのかもしれない」

 小泉は無言だった。コーヒーを一口飲み、話を続ける。

「他の自殺者たちも、同じような思想を持っていた可能性が高い。それにさっきの須東アカネちゃんも、音楽療法をやっていた。あれが古代ギリシャの時代から行われていたというのは有名な話だ。プラトンと親交のあった哲学者にピタゴラスがいるが、彼は音楽療法の祖とも言われている」

「でも、そんなに思い詰めるなんておかしいですよ。自殺願望が膨みすぎたとき、心を正常に戻すことこそがメディカルの役目なのに。メディカル反対派でもない、ちゃんと日々メンタルケアをしていた普通の人たちが、そこまでしますかね?」

「いや。思い詰めた末の苦難の自殺ではないのは明らかだ。彼らは選んだんだ。朝食にはパンかご飯か、を決めるのと同じくらいの気持ちで、生きることと死ぬことを天秤にかけて、死の方を選んだ」

 小泉は腑に落ちない顔だった。

「もしそうだとしたら、結局、ジンメルというダイイングメッセージはなんだったんです? 犯人の名前? それとも、犯人グループの組織名でしょうか?」

 缶コーヒーの底に残った中身を揺らしながら、ゆっくりとフェンスの向こう側に目を向ける。言うべきか、言わないべきか。しばらく考えた後で、私は重い口を開いた。

「——

「え?」

「お前はあの現場に行って、遺体を見たとき、そう言った」

 遠くの方で、カラスがしゃがれ声で鳴いている。パトカーのサイレンと、デモ隊の掛け声。一際高く聞こえる女性の叫び。発砲音。

「一昔前の薬物ならいざ知らず。メディカルで急性中毒というのはありえない。なのにお前は、迷うことなく言った。『急性中毒でしょう』と。メディカルはすでに日常生活に溶け込んでいて、皆どんなものか知っている。まして刑事のお前が、そんな言い間違いをするわけがない」

 フェンスの向こうを見るのをやめ、隣の部下に視線を戻す。彼は淡い微笑みを浮かべたまま、じっと黙っていた。私は言う。

「ジンメルというのは、新しい薬物の名前だろう? そしてお前は、それに関わっている。どんな形でかはわからないが、おそらく、かなり深いところで」




 小泉はしばらく黙っていたが、やがて今まで聞いたことがないような朗らかな大声で笑い出した。堂々と笑う彼は、小声でしか話さなかった時に比べて、恐ろしく存在感が増したように思える。

「だったらどうだと言うんです? 僕を逮捕しますか?」

「これだけの証拠では、無理かもしれないな」

「じゃあ証拠が見つかったら捕まえます?」

「それが仕事だからな」

 小泉は横目で私を見て、おかしくてたまらないと言った風に鼻で笑った。

「どうかな。だって僕を捕まえたら、メディカル依存社会は崩壊する。あなたにそんなことをする勇気があるんですか?」

「社会がどうなろうと、仕事には変わりない。しかしわからないな。なぜお前は、自分からヒントを与えるようなことを言った?」

「あなたに気づいてもらうためです」

 小泉は軽い足取りで移動して、私の前に立つ。


「これがジンメルです。僕のとっておきの新作ですよ」


 彼は上着のポケットに手を入れ、タバコの箱を取り出した。蓋を開け、中から透明の薬袋に入った白い錠剤を手に持って、こちらに見せる。

「僕もね。柚子崎さんと同じように、メディカルを必要としない人間なんです。そんなものがなくても、特に耐えがたい精神の苦しみを感じたことはない。ねえ、これって特権だと思いませんか? だから僕は、支配する側に回ることにしたんです」

「支配?」

「わかるでしょう? この世の中、薬一錠ですべてを支配することができる。物心ついたばかりの頃、僕はそれを悟りました。だから薬学の道に進み、メディカルの研究に邁進した。なのにそこも、頭の悪いヤク中たちの巣窟で。みんなと違う僕は常に疎まれ、排斥されていた。そんな毎日にうんざりしていた時、ある製薬会社の幹部から、裏の研究チームにスカウトされたんです。そこでは僕と同じくメディカルを必要としない研究者やその他大勢の社員たちが、極秘裏に新薬研究をし、臨床実験で効果の程を確かめる仕事をしてます。他社を圧倒的に叩きのめし、蹴落とす商品を作るためにね」

「ジンメルにはどんな効果があるんだ?」

 単刀直入に聞くと、小泉はさらにニッコリと笑みを深めた。

「そうですねぇ。一言で言えば、自己肯定感の飛躍的な向上かな? 特に希死念慮の強い人の場合は、死を肯定する気持ちまで高まっちゃうのかも。臨床段階なのでまだよくわかりません。でもかなり中毒性があって、最高に気持ち良くなれるのは確かですよ。死ぬ前にジンメルの名を書き残すのは、今際の際、この薬の素晴らしさで頭がいっぱいになるからだ……ということがこれまでの実験でわかっていますから」

 箱に薬袋をしまい、ポケットに戻したあと、小泉はまた言葉を付け加える。私の批判的な視線を感じとったせいかもしれない。

「今のメディカルに慣れた民衆が次に求めるのは、多少危険であっても、レアで、付加価値のついたメディカルなんですよ。これだけ強烈な効果があり、そして服用者が猟奇的な死を遂げたという逸話付きの薬となれば、危険だと……倫理にもとるとわかっていても、皆浅ましく欲することでしょう。人なんて、そんなもんです。最初は危険だ何だとビビってても、慣れたら平気で自動車に乗り続けるのと同じことで」

「警察に潜入したのは、秘密が漏れないよう隠蔽工作するためか」

「その通り」

「お前がメディカルを飲んでいるというのも嘘だったんだな」

「そうですよ。この薬の名前だって、ヒントを与えていたつもりなんですけどね。記録を改竄したので、警察のデータベース上には存在するけれど、実際には世界のどこにも売られていない架空の糖衣錠、ラディゲアR。さて、わかりますか?」

 私は考える。ラディゲアR。Rレーモン・ラディゲ。Le Diable au corps。フランス人作家の長編小説。

「……『肉体の悪魔』か」

「素晴らしい! 柚子崎さんの記憶力は本当にすごいです。メディカルに汚染されていない、健やかなる人間本来の純粋な頭脳。僕たちは心底それを欲しているんです」

 全くもって悪魔然とした語り口で、小泉はこちらに手を差し伸べる。

「僕たちの研究チームに入りませんか。薬学の知識がなくても問題ありません。組織には色々な仕事がありますから、柚子崎さんの才能を遺憾なく発揮できるはずです」

 かあ、かあ、とまたカラスが鳴いた。耳元で風の音がする。

「——お前たちのことだから、調べ上げているんだろうが。私は祖母に育てられた。両親が通り魔に殺されたからだ。メディカルが普及し始めたばかりの頃だった。犯人は私の親を含む14人を殺したにもかかわらず、心神喪失で無罪となった。私はセラピーでメディカルの服用を勧められた。だが私はそれを断り、たくさん本を読み、自分で自分を治療した。薬を飲むべきなのは私じゃない。そう思ったからだ」

「ええ。もちろん知ってます。化学物質で作るまやかしのものとは違う、本物の誇りと自尊心があなたにはある。だからこそ……」

 私は小泉の言葉を遮って、質問した。

「最後に一つ聞かせてくれ。なぜ薬の名前をジンメルにした?」

 小泉は少し面食らっていたが、やがて悟った目になり、儚い微笑を浮かべた。

「ドイツの社会学者ゲオルク・ジンメルは言いました。『全ての自由は、やがて支配を意味する』と。支配されているものが自由を得た時、それは自由になったのではなく、支配する側に昇ったに過ぎないのだと。僕も常々同じことを考えているので、彼の名前を拝借しました」

「支配論か。それならマックス・ウェーバーでも良かったろうに」

「嫌ですよ。それだとなんだか、ウイスキーの名前みたいでしょ」

 私は笑い、小泉に背を向けて歩き始めた。私の自由はいくら残されているだろう。何分、何時間、何日……どれだけでもいい。私を支配する運命の女神がいるとしたら、聞きたいことは一つだけだった。

「小泉」

 背を向けたまま、私は彼に呼びかける。

「なんですか」

「今までありがとうな」

 返事は返ってこなかった。それで構わない。私は屋上のドアを開け、警察署内へと戻る。寒い、暗い階段を降りながら、少しだけ考える。

 運命の女神がいるとしたら、私はあの世で聞いてみたい。なぜ人間はこんな性分に創られたのか。草花を煮詰め、虫を殺し、枯れた腕に針を刺す。どんな手を使ってでも命に執着するこの有り様が、一体世界に何をもたらしたというのだろう。


 ただ首を落とす椿のように。花弁を散らす桜のように。


 自分の最期もそうあってほしいと、そう願ったこともある。けれど結局のところ、牢獄に花が咲くことはない。願いは叶わない。光もなく、色もなく——事切れたあとの静寂に、わずかばかりの赤を添えながら。


 きっと私の亡骸は、哀しいほどに醜いだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ジンメルと糖衣錠 名取 @sweepblack3

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ