リューデスハイムの亡霊

大地 慧

序章

第1話 異国の地にて

 午後三時すぎ、ホテルを出た。目的地は特にない。ただ、このあたりのブドウ畑を散歩しようと思ったのだ。

 本当は午前中にここに到着するつもりだったが、はじめて母国から出てきた人間が大きなターミナル駅でうまく目的の電車を見つけられるはずもなく、結局何本か電車を逃してしまった。だからかなりの遅れをもって、さっきついたばかりだ。フランクフルト中央駅から一時間半もかかった。

 ここ、リューデスハイムは通称、「ラインの真珠」と呼ばれている。コンパクトな街並みの美しさと、ドイツ屈指のワイン産地であるということで、世界中から多くの観光客が来ている。といっても、それは夏場の話だ。寒さ盛りの二月では、それでもちらほらと旅行者はいるものの、大分閑散としているように感じる。夏季だけ開ける店も多いようで、本格的にワインを楽しみたいなら冬に来るのは間違っている。

 でも、私はここに観光しに来たわけじゃない。いや、広義では観光の部類に入るかもしれないが、少なくとも浮かれた気分で来ているわけじゃない。ここに来なければならないと感じたから、それがまだ生きている私の義務だと思ったから。そんなたいそうなものではないか。ただ、ここの景色を自分の目で見ておかないと、申し訳が立たないというか、まあそんな感じだ。

 私が泊まるホテルのすぐ裏側に、ブドウ畑へとつながる小道があった。とても小さいし、民家のすぐ横にあるから私有道かもしれない。一応近くに立ち入り禁止とか、私有であるとかの文言が無いか確かめてみる。海外でのいざこざほど面倒なことはない、とガイドブックに書いてあった。ここは入念に調べておかなければ。

 ドイツ語は大学の初修言語で選択していたから、読むくらいなら少しはできる。まあドイツ語は読み方だけなら一時間あればすぐ覚えられるほど易しい。一方、会話となるとやはりそれなりの鍛錬が必要だ。といっても私は留学の経験もないし、ドイツ人の友人などもいない。文法は頭の中でできていても、それをとっさに出せるほど頭の回転は速くない。文法だのなんだのと一丁前に語ったが、実は語彙力すらそれほどない。

 注意を促す看板はなさそうだし、私の前を、犬を連れたおじさんが横切って小道に入っていったので、私も入って大丈夫だろう。おじさんと気まずくなるのが嫌だからすこし待って狭い小道に入っていった。

 よく晴れているが風が強かった。河のすぐ横だからだろうか。しかし不思議とそこまで寒くはない。眼下には巨大なライン川が流れていて、その上を滑る船がいくつかある。色とりどりの自動車を大量に載せて、ゆっくりと上流へすすんでいる。フランクフルトの方向だろう。

 昔、社会科の授業で習った国際河川がどうとか。あれはこういうことだろう。車における高速道路のように、河が船による物流の大事な通行を担っているのだ。ヨーロッパでは普通の事なのだろうが、日本ではなかなか見られない光景だ。

 教科書の中で見たものを実際に目の当たりにするのはいつだって興奮する。いつかの修学旅行で東京に行ったときに見た皇居や東京タワー、日光の東照宮などがそうだ。

 教科書じゃなくて、聞いたことがある場所に実際に行ってみたときも同じような感覚だ。それまではどこかの”名前”だけ知ってる名もない街が、自分が訪れたとたんに、目の前に現実のものとして顕現してくる。つまり、ある意味物語の中に存在する架空都市みたいだったものが現実に表れてくる。そしてそこを歩く人は”現実の””生きている”人として歩いている。その人はたぶんこの名もない街で小さいころから過ごしていて、死ぬまでここで生きる。この街の一番安いスーパーも、不良のたまり場も、一番眺めのいいところも知ってる。そう思ったとき、はじめてその名もない街は確かに存在する一つの”街”として私の記憶に刻まれる。忘れることはない。

 そんなことを考えていたら、前を歩いていたはずのおじさんはいつの間にかいなくなっていた。おそらく途中の分岐を右に曲がって、丘の上のほうへ行ったのだろう。後ろを振り返ってみても誰もいない。わたしひとりだけだ。人目を気にしなくてよくなったので、気分は楽になった。

 そこからしばらく歩くと、ロープウェーの索条がみえてきた。丘の上の、ニーダ―ヴァルト記念碑というものへとつながっているようだ。さっきのおじさんはその記念碑のほうへ行ったのだと思う。このロープウェーに乗って緑の葉が茂るブドウ畑を眺められたらどんなにいいだろうと思うが、これもやはり冬は営業していない。

 そうして行先も決めずに歩いていると、レンガ造りの廃れた塔が見えてきた。気になってスマホで地図を見ると、だいぶ遠くまできたようだ。もう一時間くらいずっと歩いていることにここで気付いた。久しぶりにこんなに足を使った。それを意識した瞬間どっと疲れが込み上げてきた。

 休憩できそうなところはないか、と思いながらもう少し進むと、都合がいいことに、簡単な屋根があって、その下に椅子と机が置いてある休憩所のようなものが見えた。その傍らには紺色のごついドイツ車が止まっている。そしてその持ち主と思われる白髪のおじいさんが先客だった。

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