雑記

サヘリ

海の町

彼女は空に向かって両手を伸ばし、そうして指を組んで胸の前に引き寄せ、深く祈っていた。

彼女の脚にはひたひたさらさらと透明な波が寄せては返し、青ばんだ水は水底を染めてきらきらと砂浜を濡らしている。


私は開け放った窓から、白いカーテンと共に海風にたなびきながら彼女を眺めていた。

彼女はもう会えなくなってしまった兄に逢えますようにと、毎年ああやって居もしない神に祈っている。

-誰か彼女に教えてやれ。死者と生者が交わることはないのだと。

海は嫋やかな女神の顔をして、この町を抱いている。母なる海とはよく言ったものだ。海が母なのであれば、人間は海の子供ということになるが、毎年のように子供を殺す母親がいるものか。


彼女を眺めるのをやめ、私は4畳半の自室を出て廊下に出た。つっかけを履いて玄関の引戸を開けると、外にいた野良猫が驚いて走り去って行った。

崩れかかったような石段を降りると、道路を挟んでもう海だ。この町の人間は、死んだら海へ還ると云う。ひとたび海が牙を剥けば、この町は地図から消えるだろう。海へ還るとはそういう意味も含まれていた。事実、私が生きている間にも海は幾人も呑み込み、陸へ帰さなかった。この町に居る限り、私もいつか海へ還るのだろう。

遠くの山からやっと顔を出した太陽を、海はどこまでも反射してきらきらと輝いている。気がつけば彼女はもう居なかった。


蝉の声が喧しく季節を告げていた。私の白いシャツが、だんだん汗を吸って冷たくなる。

町は夜に行われる催しの準備で俄に沸き立っていた。川にほど近い公園では櫓が組まれ、いくらか露店も出るようだった。

ふらふらと町を歩いて牛乳屋の前を通りすがった時、店から勢いよく出てきた少年とぶつかりかけた。走り去る少年の背中をなんとも言えない気持ちで見送り、溜息をついてまた歩き始めた。


町でいちばん高い山−といっても小高い丘程度だが−にある長い石段を登り切ると小さな山門があり、境内に入ると古びた寺が見える。もう空のいちばん遠くまで昇った太陽の日差しも生茂った木々で和らぎ、境内は涼しげな風がいくつも通り抜けていた。

私は伽藍の脇に伸びている小道に入り、ひらけた所にある水道で手桶に水を汲んだ。そしてひとつの墓石の前に立つと、柄杓で水を掛け、丁寧に掃除した。

私が九つの時に死んでしまったの、お骨も入っていない空っぽの墓だ。

当時七つだった妹は海に攫われたきり、戻らなかった。母は心身を患うほど泣き崩れ、祖母が毎日のように慰めていた。

−七つになったばかりじゃ、神さまがやっぱり手離すのが惜しいっちゅうて攫っちまったんじゃろうて……。


海に還った魂は、二度と陸へは戻らない。妹もきっと、あの海からすぐの、たった数歩の距離の私の部屋へも辿り着けないのだろう。だから毎年7月15日に、あゝやって祈るしかないのだろう。自分を殺した神や海に、どうか、どうか兄と逢わせてくださいと。


帰路に着く頃には影が間延びし始め、暫くすれば空も赤らんでくるだろうという時間だった。公園では子供らが川に流す灯籠に思い思いの文字や絵を書き、烏瓜をくり抜いてランプを作っていた。

私は玄関先につっかけを脱ぎ捨てると、波打ち際に立った。ひたひたさらさらと波が足を濡らす。そうしたところで誰とも会えないことは知っていたが、指を組んで胸の前に寄せ、何かに祈った。私は神を信じているわけではないが、妹が祈る神が居ればいいと、そう思った。

足に何かが当たった気がして目を開けると、薄桃色の小さな貝殻が足元で波に踊っていた。今にも沖まで引き摺られていきそうなそれを手に取ってしげしげと眺めると、シャツの胸ポケットに入れ、家に戻ると仏壇に置いた。

「あら、何処行ってたの」

夕食の支度をしていた母が暖簾を分けて顔を出し、私を見る。

「新盆だから墓参りに」

「先月末に行ったし、旧盆にもみんなで行くじゃないの。今日のお祭りはあなたも行くでしょう?お父さんもそろそろ帰ってくるから、支度なさい」

母がそう言うか言わないかのうちに、年期の入ったエンジン音が近づいてきた。父のもう随分長く乗っているトルネオだ。

憮然として眉を寄せていると母さんにカラカラと笑われた。ふと仏壇を見やると、妹の遺影もいつもより笑っているような気がして、憮然としたまま溜息をついた。

元気よく引戸が開けられる。親父に懐いている飼い犬が台所から勢い良く飛び出して玄関に向かう。うんざりした顔で僕も玄関に出て、親父にお帰りを言いに行った。

仏間ではまだ妹が笑っていた。

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雑記 サヘリ @saeri_act

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