ワンドロ乗っけるとこ

ぼんやりとしたななし

人狼現象/1(お題:「空の見えない場所」)(60分オーバー)

 ────追ってくる。


 ────死が、追ってくる。


 熊に倍するその巨躯を猛然と駆動させ、僕の背後からそれは追ってくる。

 長い鉤爪。剥き出しの牙。血走った両の目。口の端からだらだらと溢れる涎。針金を束ねたような分厚い毛皮。



 僕の死は、狼のかたちをしていた。



 数週間前、村に一人の若い男の人がやってきた。季節は秋。今年一年の自然の実りを神様に感謝する、収穫祭を間近に控えた時期のことだ。

 なんでも彼は帝都のさる名高い組合ギルドの冒険者で、もともとはこの村出身らしい。

 刈り入れ時は忙しい。人手はいくらあっても多いということはないし、なにより今年はやけに魔獣の被害が多い。

 魔獣の駆除は、言わずと知れた冒険者の職分の一つである。故郷に錦を飾る英雄の凱旋を、皆は諸手を挙げて迎え入れた。


 彼は、とにかくよく働いた。

 作物の収穫にしろ狩りにしろ採集にしろ、一人で男五人分はこなしてのけた。とりわけ皆を驚かせたのは、彼の魔獣退治の手並みの鮮やかさだった。

 夜中、家畜を襲いに村に忍び込んだ魔獣を一刀のもとに切り伏せた彼の剣捌きを、村の自警団員たちは「魔法のようだ」と口々に褒めそやした。


 冒険者として培った能力、積みあげた経験の数々を技術として編み上げたものを、俗に職能スキルと呼ぶ。

 自分は、『看破』の職能スキルを持っていて、それで敵の動きや狙いを読み取っているのだ──と、彼は後でこっそり、僕にだけ教えてくれた。

 なにを隠そう、彼は僕の師匠だった。剣の手ほどきをしてくれるよう、僕が必死に頼み込んだのだ。

 稽古は日に一度、夕暮れ時から陽が沈むまでの短い時間。本音を言うともう少し長い方が良かったけれど、彼にも仕事があるからわがままは言えなかった。


 彼は魔獣を狩り、収穫を手伝い、少しずつ、確実に村に溶け込んでゆく。

 僕は変わらず彼に剣を教わり続け──冬が来て、春が来て、夏が来て、また次の秋が来る。

 まだ彼が村に来てから一月も経っていないのに、僕はそういう日々がこれから先もずっと続くものだと、すっかり信じ込んでしまっていた。


 そんな楽天的な考えとは裏腹に、それからも魔獣の被害は少しずつ増していった。

 怪我人や人死には出なかったけれど、鶏や牛、馬なんかの家畜が何匹か食い殺されたらしい。

 不幸は続くもので、ある日、彼は腕に傷を負って帰ってきた。大型の獣が爪で引っ掻いたような、深く大きな切り傷を。

 村の人々が口々に心配する中、彼は苦しげな呻き声混じりに、恐ろしいはぐれの魔獣が村近くの森をうろついているから、しばらくは遠出を控えるようにと念を押した。


 彼は準備を済ませ次第、魔獣を狩りに出向くのだという。

 たった一人で。鬱蒼と生い茂った枝葉に遮られて、星も、月も、夜空も見えない、深い深い森の中へ。

 僕は、なぜだか不意に強い不安に駆られた。もしかしたらもう二度と、彼と会うことはできないのではないか──そう思ってしまったのだ。

 だから言いつけを破って、そっと家を抜け出した。僕は無謀にも暗い夜更けの森の中へと、彼の後を追って踏み込み……



 ────そして、現状に至る。



 木の根に足を取られそうになりながら、一寸先も見えない闇の中を走る。

 持ってきたランプは逃げる途中にどこかへと落としてしまった。息はとっくの昔に上がっていて、呼吸するたびに胸がひどく痛む。

 元来た方角に向けて走っていたつもりなのに、いつまで経っても森の出口は見えてこない。

 すぐ後ろに獣の息遣いを感じて、僕が咄嗟に横っ飛びに跳ねると、耳元であの大狼の死の顎が、身の毛もよだつような音を立てて噛み合わされた。

 間髪入れずに、鉤爪が振るわれる。大狼から逃げる最中に幾度となく聞いた、内反りの鉈めいた野太い爪が立てる風切り音。

 次の瞬間には持ってきた背嚢が真っ二つに裂けて、中身が辺りに散らばっていた。

 ほんの少し掠っただけで、これだ。体を捻って地面を転がり、少しでも爪から逃れようとしていなかったら、きっと僕がこの背嚢のようになっていただろう。


 いや、違う──もう遅い。きっと僕も遠からず、そうなるのだ。


 この俊敏な魔獣は、僕が立ち上がるより早くこの体を爪で引き裂き、はらわたを食いちぎる。

 そう理解した瞬間、体から力が抜けるのを感じた。頭が真っ白になって、足はぴくりとも動かない。

 まるで胸の真ん中に穴が空いて、そこを風が吹き抜けてゆくみたいに、すっと心が冷えてゆく。

 ああ。……僕は、死ぬのか。誰もいない、真っ暗な森の奥で、たった一人で死んでゆくのか。

 獣の生臭い息が、鼻面に吐きかけられる。今や吐息の匂いを感じられるほどに、死は僕の間近に迫っている。

 獣はゆっくりと前肢を振り上げ、そしてその爪を──



 ぐさり。



「……あ、」

 


 見上げれば、金色の光。まるで夜空の月のように、瞳を爛々と輝かせ。


「生ける死人。人狼刑。かつて帝国は、追放刑をそう呼称した。罪人は生きながらにして亡き者とされ、如何なる共同体もこれを受け入れることはない」


 振り上げられた狼の前肢に、手にした鉄杭を深々と突き立てながら。


「野の獣と同等にまで堕した彼らは、あらゆる法に守られず、あらゆるものに見捨てられ──やがてその心身は、獣と成り果てたという」


 ────巌のごとき大男が、鬼の形相で、魔獣を睨み据えていた。


「逸れ者たちの。爪弾き者たちの。誰からも必要とされなくなった者たちの呪い。これ即ち、『人狼現象』」

「世界の悪意が彼らを呪い、彼らもまた己を呪う。呪いはやがて己という器から溢れ、肉身を獣と染め上げる」

「この爪を見よ、牙を見よ。耳まで裂けた口を見よ──そう吼え猛り、世界を呪う、真性の魔獣へと」


「故に。人狼、討つべし」


「……下がっていろ、少年。人狼狩りの時間だ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る