八、

 槍の穂先を研ぎながら、俺は最近この相棒が軽く思えるようになった。

 別に前から重たかったわけではないが、前よりも手に吸い付いてくる感覚がある。

 最初は本当に重たかった。でも、鍛錬を積みながら次第にそれは腕に馴染んでいった。

 ヨアンナに若干、煩わしさを感じつつ、魔女ベラのいる湖には早朝に発つことにした。

「朝というのは縁起がいいものですし、流石に今日は疲れたので」

 リザイラとは昨晩、そう言かってヤアンの部屋で別れた。

 縁起がいいと言うのは、魔術師らしくないなと思うが、ヤアンなら言いそうだとも思う。

 幸い、危険な旅の前に色々準備したい、というほどの距離ではないそうだ。

 それ以前にあの酔っ払いのような状態のヨアンナの身の回りを整えてやりたいだろうし、その傍に少しでも長くいたかったのかもしれない。

 あの後も、ヨアンナは少々不安定だった。ヤアンがそのままに、女になった振る舞いをするかと思えば、ただの臆病な少女になってしまったかのようにリザイラからも、距離を置いたりもした。

 聞いた感じでは酷い二日酔いから、酔っ払いになったという感覚だろうか。

 本人が言うには、感覚が急に伸びたり縮んだりする――そんな感じらしい。

 因みに俺は酔うとそういう感覚になる。

「初めて酷い筋肉痛を経験したって、それはすごいことだよな」

 ある意味羨ましいぞ。と毒吐きながら、神もひどいことをするものだ。と思う。

 普段からそういう痛みも与えていれば、力を失った時の反動も少なかっただろう。

 湖にいるベラに会う覚悟とリザイラを守る覚悟を大きな呼吸で自分自身に確かめた。

「よし!」

 俺は屋根裏部屋から出て、二人の部屋の前を通り過ぎ、そのまま酒場に下りる。

 眠そうなギルドの主人から支給の携行食糧を受け取り、幾つか言葉を交わした。

 リザイラは酒場の支柱に何かを刻んでいる。ちょうど彼女の背丈だ。

「何をしてるんだい?」

「いえ、何でもありませんよ。さあ、出発しましょうか」

 リザイラは気まずそうに微笑み、俺は首を傾げる。

「よっし! ベラに口づけしに行こうか」

「それやめてください。気が滅入る」

 リザイラが肩をガクッと落とすので、俺は思い切り背中を叩いた。

「いいじゃん、口直しにヨアンナに口づけすれば――」

 弱い力で俺は腹部にひじ鉄を受けた。自分で言っておいてなんだが、妙に切なくなる。

 ギルドの観音扉を開けると、そこにはシドが立っていた。

「おっす。何か起きたかおやっさんには、はぐらかされたんだけど、戦いに行くのか?」

 爽やかな好青年は心配そうに俺を真っ直ぐに見た。

「えっと、奪われたものがあって、それを取り戻さないとならないんだ」

 具体的なことは言えないが、ここの仕事自体そんなものばかりなのでそれで済む。

「これだけ伝えたかったんだ。コツは辛抱すること。大事なのは一撃だけ。但し、確実に相手の急所を突くんだ。それまでは、穂先で翻弄し、目潰しに砂を投げたっていいんだぞ」

「目潰しに砂って、卑怯じゃないか?」

「俺たちは傭兵だ。最後に勝つのは卑怯者なのさ。いいか、急所に一撃だ。忘れるなよ」

「ありがとう。帰ってきたら、また鍛錬に付き合ってくれ。シド」

「次はちゃんと稽古を付けてやるさ」

 よく考えてみれば、この時間は夜間警備の連中が酒場にやってくる時間だったろうか。

「お嬢ちゃんも気を付けてな」

 そう言ってリザイラの手の甲に口づけするシドの仕草に、俺は少々むっとする。

「どうも」

 リザイラはシドに妖艶に微笑んだ。これはもしかして、元気が戻った証拠なのか。

 シドにひらひらと手を振りながら、俺たちは傭兵ギルドから遠ざかっていった。

 傭兵ギルドのあるワイズから北東に向かう道を徒歩で行くと、その先に湖があるらしい。

 そこが、ベラのいる場所であるらしい。

「街外れと言っても、やはり遠いですね」

「馬にすればよかったのに、俺にだって騎馬の心得はあるんだぞ」

「えっと、馬は当面、遠慮したいですから」

「馬が苦手とか?」

「いえ、馬そのものは平気です。ただ、ついこの前にひどい目に遭いました」

「ヤアンか。大体想像つく」

 ヤアンが馬に乗ってるところは見たことがないが、あの蒼く輝く銀の髪を靡かせながら、馬で疾走する姿が目に浮かぶ。しかも、全速力で。

「飛ばし屋なんだろうな」

「ええ、かなり」

 リザイラがその時を思い出したように口許を袖で覆うのを見て、俺は苦笑した。

「そういえば、二人が知り合ったのって――」

 いつからで、どのくらいの、付き合いなのかを聞こうとしたが、景色に見惚れながら、歩いているリザイラの邪魔をしたくなくり、口を閉ざした。

「わあ、農地が見えてきましたよ!」

 リザイラが急に小走りになって俺の先を行き、辺りを見回した。

 街からは出ていないが、しばらく歩いて行くとその風景はがらりと印象を変える。

「へえ、こんなところもあったんだな……」

「昔はこの街一帯が荘園だったそうですからね」

 荘園時代の面影が残る農耕地帯が目の前に広がっていた。

 賑やかな中心地を出ると田舎道というものが、この街にもあるのだと実感する。

 道は田畑を見下ろすように舗装されていて、その様子がありありと目に入った。

 とっくに農民たちは田畑に出て作業をしている。

 こんな風景は、故郷では馴染み深いもので、俺もよく彼らの手伝いをしていた。

 秋になると、金髪の草原と呼ばれる麦の収穫期に入る。故郷は黄金の収穫と呼んでいた。

 しかし、ここ一帯の農地は荒涼というほどでもないが、夏だというのに風は冷たくて、作物の育ちが悪いように思えた。

 俺はなんとなく立ち止まり、元気出せよ。と農地に向かって囁いた。

「何やってるんですか」

「なんとなく、懐かしくって、故郷を思い出したから……」

 空は晴れ渡り、タカかワシかトンビが飛んでいる。あの飛び方はトンビだ。

「故郷ってどんな感じですか?」

「すごい田舎だよ。この田園風景だけを切り取ってぽんと屋敷がある感じだ。何で?」

「私は故郷をもう、覚えていないので……。記憶にすらないのかもしれません」

 少し寂しそうに笑うのを見て、俺は首を傾げた。

「なら、自分で決めてもいいんだよ。ふいに思い出す思い入れのある風景ぐらいあるだろ」

「情景ですか。うーん、本に囲まれた壁の中でも故郷と呼べるなら……」

 リザイラはきっと魔術図書館のことを言っているんだろう。

「自分自身の根底にある場所。多分、それが故郷だよ。たとえ人攫いに遭ったとしてもね」

 俺はリザイラの口から飛んできそうな皮肉を先回りして、笑った。

「たとえ、親に売られた場所でも故郷ですか?」

 リザイラの自嘲する言葉が、衝撃的で俺は一瞬、言葉を失う。

 だが、一方で自分を必要のない人間であるかのように、言っていたことに納得できた。

 俺と彼女は対照的な過去を持っている。そんな印象を持った。

「えーと……魔術図書館に買われたのか?」

「ええ。私を買ったのは魔術図書館ではなく、師匠ですけど」

 悲しげに伏せられたその瞼には郷愁の色はない。

「それは随分といい買い物をしたんだね。君の師匠は人を見る目があったんだなあ!」

 俺はわざと、お道化た口調で感動するフリすらしてみせる。できてるか心配だが。

「え?」

 リザイラは唖然として、瞠目し、珍しいもののように、俺を見た。

「師匠は君を手に入れるのに金を払ったんだぞ。それは君に価値がある証明になるんだ」

「そんなこと……初めて言われました」

「俺はその金を払って、貰えなかったんだから間違いない。君は将来を買われたんだよ。少なくとも買ってくれる人がいたんだ。そして、現在、ここに魔術師リザイラがいるんだ」

 俺は大きく手を広げてから、その手の先でリザイラを指示した。

「貴方は馬鹿ですね」

「ただの馬鹿じゃないぞ。『超』馬鹿の称号をヤアンに貰ったからな」

「ぷふっ」

 リザイラは久しぶりにころころと心底から笑っている。

「よかった。君が笑ってくれて……」

 それからも俺は、リザイラが自嘲するのを、激励する代わりに道化を演じながら歩いた。

 後は、その強張った肩ひじを和らげられたらいいのだが。

 俺はリザイラの持っていた街の観光地図で、湖までの道のりを確認しつつ、懐中時計を取り出した。すると、時刻は昼に差し掛かっていた。

 時計を確認すると、急に空腹を訴える腹の虫がわめき出すのが不思議だと思う。

 湖に向かって歩みを早めるリザイラの顔にも疲労が見え始める。

「そろそろ休憩にしようか」

「私は急ぎたいです」

 目の前に森というか、林が見えてきた。

 湖まではもう少しの距離なので、気が急いてしまうのも無理はない。

 でも――。

「靴擦れがめちゃくっちゃ、痛そうに見えるけど?」

 少し前から繰り返し、靴を脱いだり履いたりするその仕草が気になっていた。

「このぐらい平気です。ここ数日歩いてなかったので皮膚が弱くなっただけです」

 よく見れば、血豆ができて割れた上に、擦り切れて血が滲んでいる。

「なら、なおさら痛いだろ? うーん、実は俺が腹減ったからだって言えばいいかい?」

「そうですね。実は私もお腹は空きました。足は薬石でどうにかしますので」

「そっか、いざという時は背負って行こうかと目論んでたのにな」

「いっそ餓死すればいいものを」

「よし、それ、魔術で研究しなよ。戦う前に敵を空腹にする技とかどうかな?」

 俺のその言葉はリザイラの意表を突いたようだった。

「腹が空いては戦は出来ぬってやつですか? 因みにそれヤアンの座右の銘ですよ」

 夏木立という言葉が相応しい情景の中に木陰を見つけ、そこにリザイラは敷物を広げる。

「座右の銘も食い意地張ってるんだな。あいつ」

 俺は、持たされていた荷物からギルドの主人が用意してくれた食事を出した。

「随分と、量が多いですね」

「ちゃんと君の分もあるけど『うっかり、ヤアンの分も作っちまった』そうだよ」

 包みを俺に渡す時にギルドの主人がばつの悪そうな顔をしたのを思い出した。

「あの方らしいですね」

 リザイラはくすりと笑って、すかっりしとれた小さなパンの包みを手に取る。

「普通のパンですね。食事を保存する魔術の心得が、彼にもあればいいのに……」

「ハムとか保存食は普通にあるだろ。そういえば、ギルドの主人は魔術師なのか?」

 そう言えば、前に誰かがリザイラに訊けと言っていた。

「よく知りませんが、魔術師ではないと思います。でも適性はあるんでしょうね」

 そうでなければ、結界の維持や内部の仕組みに対する権限を他者に与えられないらしい。

 まだまだ、世の中は複雑そうだと思いながら、俺もパン包みに手を付けた。

「そういや、ヤアンとはいつから? こないだ、付き合いは長くないって聞いたけど」

「ああ、貴方は立ち聞きしてましたもんね。でもなんですか、いきなり」

「初めて会った日に君がえらくあいつを信頼しているように見えたんだ。それ以上の関係なのかなって思ってたけど、そうだよ! 立ち聞きして気になってたから訊いてるんだ!」

 俺が開き直っていると、小さな舌打ちが聞こえた。

「私たちはそんなに長い付き合いじゃありませんよ。彼女に出会ったのは、新緑の頃から晩春の間で、まだ雨季に入る前でしたか……」

「去年の? まさか、ついこの前の?」

 今は夏、涼しいとはいえ、本来は大暑の季ではあるが、雨季は本当についこの前だ。

「そうですね。ずばりついこの前のことです」

 そんなに短い付き合いなのか。それは俺の予想を遥かに凌ぐ。というのも――。

「その割には、すごく親密そうに見えるね」

「親密という言葉が私たちに当てはまるかどうか……」

「俺の眼にはそう見える。すごく思い合ってるように見えるよ」

「私は……そうですよ。あの魅力に逆らえなくって。でも、ヤアンはどうなんでしょう。普通に、護衛として私に良くしてくれているだけかもしれない。私たちには、どうしても利害関係がありますし、ヤアンも厄介な性格で、一歩近づいたと思うと、次の瞬間には、もう一歩離れていってしまうんですよ」

 リザイラは自分が厄介な性格をしている、という自覚はあるようだ。そう思うと同時に俺も自分の中の厄介な感情あいつが意地悪く笑うのを見た。

「深く考えすぎてると思うよ。それで素直になれないのなら、昨日、自分で言った通りにいっそ契約を破棄してみたらどうだ?」

「昨日は望めと促した癖に、今度は手放せと言うのですか?」

「そういう駆け引きも有りってことさ。よく兄貴やお相手の令嬢が使ってた」

「怖いな。それで完全に離れて行ってしまったら……と思うと怖いですよ」

「それなら、それまでの関係だったのさ。君はそのまま次に進むという手もある。でも、今回の件だけは、君は自分の気持ちに素直にならなきゃ、成功しないと思う」

「今更、素直になれと言われても、それが一番難しいんですよ。でも、確かに、これからやらなければならないことを、考えるとそうです、よね?」

「違うね。答えはもう出てるだろ。どうして、こうなったのか、それをよーく考えなよ」

 リザイラがぽかんと口を開けて、俺を見上げ、恨めしそうに睨みながら俯く。

「――むう。レオって意外と意地が悪いんですね」

 パンの包みを持ったまま、リザイラは赤面して俺の肩を殴る。肩よりも胸が痛かった。

「君の意地悪がうつったのさ。風邪みたいに」

 俺は悔し紛れに、微笑んでみせる。リザイラも肩の力が抜けたようだ。

「そのまま、臥し負けてください」

「何かにつけて俺を殺さないでくれよ! そんじゃ、覚悟ができたら行こうか」

「待ってください。まだ、私は食事が終わっていません」

 普段は黒猫のようなリザイラも、膨れ上がった頬を見るとげっ歯類にも見えてくる。

 ふと、リザイラの足の靴擦れが治っていることに気が付く。

 いつの間に治したんだろう。と俺は不思議に思いながら、立ち上がる。

 リザイラは食事の仕上げに水袋から、がぶがぶと水を飲んだ。

 リザイラは心を決めたようだが、正直俺は心配だ。

 もし、ベラが彼女の望む者の姿だったら、本当に血を使って跳ね返せるのか。

 そして、呪いはベラに返るのだろうか。

 策とか方法が一応あるようだが、俺はそれを殆ど理解できていなかった。

 空いた器に蒼き狼を入れると、リザイラはどうなってしまうんだろうか。

 ベラのように神の血を引く人間ならともかく、ただの人間が神を身体に宿すことが――。

――それは、許されるのだろうか?

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