七、

 

「いらっしゃい」

 蝋燭の灯を追ったその先で、真っ赤なドレスに身を包んだ――黒々と輝く黒髪の美女が、俺とリザイラの前に現れ、出迎えた。

「この屋敷の方ですか?」

 リザイラが訊ねると、美女は真紅に塗った唇をほころばせる。

「おや、私がわからないかい?」

「もしかして、あのお婆さんなのですか?」

 リザイラが驚きの声を上げ、それに俺も驚いた。

「改めてお見知りおきを、ローレライと申します」

 老婆――いや、黒髪に赤いドレスの美女は恭しくドレスの端をつまんで、前足を出した。

 貴族や王族の令嬢のそれのように。

「若返りができるのか、これが本来の姿かはご想像にお任せということにしましょうか」

 ねえ、そこの坊や。と赤銅の瞳が俺に言っている。

「いえ、私なんかが、いえ、それ以前に拙作の魔石を渡した自分が恥ずかしい」

「いや、お前さまの魔石は、よくできていた。加護もなく祝福もなく、魔力のみで為せることの方がすごいことだと、己を誇るのです」

「滅相もない。私は――」

 ローレライの人差し指がリザイラの唇に当てられ、その先をつぐませた。

「まるで鏡の屋敷だな」

 俺がそう言うのも屋敷のあちらこちらの壁に鏡が窓のようにあるからだ。

「そりゃ鏡に存在する場所だからね。この屋敷は鏡の記憶で存在し、全ての鏡に通じてる。私の鏡があれば、聖域の中から、このように招待することもできるというわけ」

 魔女は応接間のような場所で、ソファに座るように俺たちを促す。

 テーブルには葡萄酒の瓶とグラスが置いてあった。 

「晩餐をご馳走になりに来た。それでいいのかい?」

 少々意地悪で悪戯めいた響きの淑やかな声と共にグラスに真っ赤な葡萄酒が注がれる。

 そのどちらも高価そうだ。と俺は思った。

「食前酒よ。魔術師ということは成人の儀は済んでいるね? 傭兵さんは?」

 リザイラは頷き、グラスを自然に受け取る。

「俺はまだその成人の儀とやらは済んではいないが、酒は嗜みますよ」

 ローレライは俺にグラスを渡すが、その指が淵をなぞると葡萄酒が水に変わった。

「知らぬ言葉は使わん方がいい。ロシュにそれはないからの」

 俺は悪くて、リザイラは成人の儀を済ませているから、酒を呑んでもいいのか。

「成人の儀というのは成人の覚悟を神に示すもの。齢は関係ないの」

 この美女は淑女だったり、老婆だったりと言葉遣いが一貫していない。この既視感には覚えがある。いつのことだったか、『あの男』に似ている。

「あの時に貴女の荷物を取り返した傭兵はここにはいません。礼を代わりに頂戴しても?」

 リザイラは目の前の魔女に臆すことなく、いつもの妖艶な微笑みを浮かべた。

「おや? あの痩せ狼、いや気高き女神の仔は仕事をしただけ。ではなかったか?」

 魔女はそれがさも当然だろうと言わんばかりに、首を傾げて見せる。

「荷物を取り返すことは仕事ではありません。彼なりの厚意です」

 ヤアンを『彼』と称するのはリザイラなりに、敬意を払ってのことだろう。

「お前さまも伊達に魔術図書館の黒魔術師ではないということね。でも彼ではない」

 ローレライの眼が細められ、グラスを見つめながら、真っ赤な液体を揺らして笑う。

「流石、鏡の魔女は違う。訂正いたしましょう。気高き狼の仔は彼女です」

 明らかにこの深紅の魔女と漆黒の魔術師は互いを値踏みしている。そう俺は思った。

「単刀直入に行きましょう。もうわかっているかと思いますが、彼女は今、助けが必要だ」

「あの小娘は、ずっと懐に鏡を忍ばせていたから、大抵のことは知っているわ」

 それは本人が意図したのか、単に忘れていただけか、魔女の仕業なのかもしれない。

「ならば、彼女に何があったのかもご存じでしょうか? 魔女のベラが関わっています。貴女ならベラの正体をご存知なのでは?」

 俺もリザイラも美女の睫毛が伏せられ、嘆きに震えるのを見て驚く。

「ナターシャだ。あの娘の本当の名さ。戦乙女シヴァの血を引き、湖の畔に住む魔女だよ」

「戦乙女か。戦場で死んだ男の魂を刈り取る死神ですね。一応、ブロンドの代名詞ですね」

 聞き慣れない言葉に俺は戸惑ったが、心象ではヤアンが頭に浮かぶ。

 だが、実際はそれとは大分異なるらしい。従軍して戦うのではなく、戦場の男たちから勇士を選び、英雄になる支援をしたり、その名声の代わりに魂を刈り取る美女の姿をした死神らしい。

 その数は多く、神格も高い。多くの部族と物語を生み出したという。

「魔女の中でも割と有名な娘さ。一族の呪いで愛する男は生涯ただ一人だけ。それで子を為す前に男を殺され、復讐に走る。よくある話さ」

 その口調はまるで自分も通った道だと言っているようだ。

「それには同情しますよ。でも何故、ヨアンナが力を失ったのかを私は知りたいのです。どうやって奪われたか、そしてその力を取り戻す方法もあるのなら同じく……」

 しばらく逡巡し、深紅の魔女は諦めたように嘆息した。

「本来ならば、あの小娘の方が死んでいたはず。私の忠告通りクドルを着けていたからね。あれは加護を強化する代物なのさ。だからあの時、蒼き狼が身代わりになって死んだのさ。それでも神に死はないからね。封じられた状態なのさ。ベラは正気じゃないようだわね。神を吸い出すなんて、どんなしっぺ返しが起こるかわかったもんじゃないのにさ」

 まるで自嘲するかのような口ぶりのローレライに俺は、ベラと似たものを感じる。

「吸い出した? 手からですか? 死神の一族は素手で触れた人間が死ぬんですよね?」

「ナターシャの――いまはベラと名乗ってるんだったね。彼女の方法は相手の望む姿で、魂を吸い出すことなのさ。ここを使って、ここからね」

 美女の真っ赤な唇からその人差し指がリザイラの唇に移る。

「なっ!」

 リザイラが肩を震わせ、耳まで赤くなるほど、赤面した。湯気でも立ちそうだ。

 ということは、ヤアンはリザイラに唇を――。

「奪われたって言ってたのは初キス? ええー、初キスだったのか⁉」

 俺の中で衝撃と共に、瓦礫が崩れて行く音がする。ヤアンには清純な印象はない。

「まあ、ヤアンは一応、その――まだ乙女ですからね。それでしっぺ返しとは?」

 リザイラは相当、言葉を選んでヤアンを乙女と称する。

「死の接吻と謂ってね。実は禁じ手でもある。吸い出した魂の力を得ることになるんだ。相手に神の力があれば、神を得てしまうのさ。結果として、神は仔に仇為した者を呪う。神の血を引く者たちの研究をしてるのに、魔術図書館も大した蔵書量でもないようだねえ」

 真紅の魔女は魔術図書館を、さりげなく侮蔑しているように俺は思った。

「アンタは魔術図書館とは関係ないのか?」

「私は私の図書館を持っているから必要ないのさ」

 部屋中にある鏡が本棚を映した。そこには見たこともない文字の本が混ざっている。

 要するに、鏡を通して世界中の本を取り寄せられるというわけか。

「それで、取り返す方法はあるんですか? 彼女が貴女の荷物を取り返したように」

「あるにはあるけれど、お勧めはできない方法さ。なにせ、同じ方法なんだからねえ?」

 ローレライの口ぶりに思わせぶりで、艶っぽい響きがする。

「口付けですか? ヤアンに私が口づけすればいいんでしょうか」

「おや、お前さまの姿だったのかい? てっきり私は……」

 ローレライと視線が合い、俺は首をぶんぶん振りながら手も違うと振る。

「ふうん。なるほど、お前さまも随分と数奇な運命を生きているんだねえ」

 リザイラはローレライと顔を見合わせて、妖艶に微笑み合った。

「そういえば、ヤアンは何で見破れなかったんだ? 魔力に対抗力があるんだよな?」

「それは死の接吻を避けられなかったのと同じこと。満月は人の感覚を狂わせるんだよ。そもそも、避けようと思わなかったのかもしれないけれど」

 昨夜は確かに満月だった。屋根裏部屋が妙に明るく感じたのを覚えている。

 葡萄酒を口に含み、切なげで煽情的な視線を俺に向け、何故か首を振った。それから、リザイラの方をじっと睨む。この視線はリザイラの背景を視ている目だ。

「ほう、お前さまには空きがあるようだね。なら、きちんと教えよう。蒼い薔薇の花弁を口に含んで、ベラと口づけすればいい」

 ローレライがリザイラのグラスの淵に指を這わせた。すると、するすると回りながら、グラスは溶けて形を変え、蒼い薔薇へと姿を変える。

「え……はい⁉ ベラと⁉ 私が?」

「お前さまが力を取り戻して、その空きに入れるしかない。危険なことに変わりはないし、お前さまを仇と思っているベラと口づけしなきゃならない。ただ口づけをするだけなら、問題はないさね。但し、ベラがお前さまの望む相手の姿をしていたら問題だね」

「その場合は、私が死ぬだけで済みますか?」

「空きがあるっていうのはそういうことさ。口づけをして死んでも神は元の状態に戻る」

 空きとはなんだろう。部屋とか箪笥の棚とかそういう入れ物に使う言葉だよな。

「確かに、でもこのただの蒼い薔薇はそれを防ぐ方法なのでは?」

 魔女の深紅の唇の両端が上がり、目許はリザイラを誉めたのを俺は見ていた。

 ただの蒼い薔薇というのはどういうことだろう。

「そろそろ、晩餐の支度ができた頃だろうから話の続きはそちらで致しましょうか」

 豪華な食事の間へと続く扉が開かれ、黒髪の美女はグラスを手に歩き出す。 

「ヒキガエルはお好き?」

「元が王様でないのなら」

 リザイラは妖しげに微笑む。

「俺は食べたことがない」

 としか、言いようがなかった。

 ご馳走というから、結構、中身を期待していたのだが――。  


 ***

 私はヤアンという傭兵を殺し、湖畔にある仮住まいの小屋に戻っていた。

 まさか殺した相手が神だったなんて、と私は恐怖に慄きながら、体内にある神の存在を吐き出そうと試みたが、全てを吐き出すことはできなかった。

 吐き出した神は私にじっと付きまとい、体内に残った一部は身体を蝕んだ。

「いっそ、その毒で私を殺して」

 そう私に言わせるまでに、この神は恐ろしい死神だ。

『本当ならお前を殺していたさ。だが、それはオレの役目じゃねえんだ。済まないな』

 ヤアンという傭兵の姿をした神はまるで、人のように右肩だけをすくめる。

「なら誰が私を殺すというの?」

『お前自身さ』

「自害しろというの?」

 私はナイフを首筋に当てて、見せた。

『そんなことをオレは望んじゃいねえ‼』

 神は自らの手で、私の手からナイフを払い飛ばす。

 別にいい。どうせただのナイフだったし、私が自害などできるわけもない。

『オレはお前に真実を見せてやる。真実を知り、それでも耐えられるか。お前次第だ』

「それよりも何故、アナタが真実を知っているのか、知りたいわ」

『オレは、蒼き狼だ。普段は狼の姿で空を駆け回るのが好きでね。お前のことも見ていた』

 人は企て、神は笑うと言う。人の姿をしている神は何をするのだろうか。

 私の身体が勝手に仰け反り、目は剥くように見開かれる。

『これが真実だ』

 私の愛した人を殺したものの姿は――。

「ジョー・マクセル? 嘘よ」

 それは私に魔女が彼を殺したと言った男。

 そうだ、それはありえない。

 あの男は何年も前に絞首台に上った。

 そして、死にきれず、私が安らかにした。

「私が殺したのだから、生きているはずがない」

『お前の恋人が殺されたのは、そのすぐ後のことさ』

「そんなはずない」

 私は愛した人の亡骸を抱く。亡骸は既に白骨化している――。

 吐き出した神はまた私の身体に飛び込んできた。

『夢の中で真実に向き合うといいさ』

――お前が慈悲深い魔女だったことを思い出せ。

 私は私の神を使って、この神を苦しめてやる――。

 ***


 俺とリザイラは晩餐の席で魔女と向かい合っていた。

 長テーブルに豪華なご馳走が並んでいるが、俺はどうにも食欲が湧かない。

 リザイラは構わずにご馳走を皿にとって食している。

「その蒼い薔薇は特定の土地にしか咲かないんだろ? 本に書いてあった」

 リザイラの手にある蒼い薔薇を見て俺はローレライに訊いた。

「そう、だからそれはただ蒼くしただけの薔薇。それは元は血のような赤だったわ」

「へえ、じゃあ、ただの手品か」

「そう、ただの手品よ。でもしるべにはなったでしょう?」

「でも、実際のものを手には入れられないだろ? 旅に出ろっていうのか?」

「蒼い薔薇は枯れたけど、まだ咲いていないものはそこにあるわ」

 ローレライはリザイラを指差す。

「花弁というのは私の血ですか?」

 リザイラの微笑を湛えていた顔に緊張が走り、目を細める。

「そっか、蒼い薔薇って本来は蒼き狼が愛した人間の男が育てていた薔薇のことか」

 蒼き狼がヤアンなら、その相手はリザイラだよな。

「そういうことよ。彼女が唇を拒まなかったのなら、それはベラには返しになる」

「呪い返しをしたらベラは……」

 俺の言葉の続きをリザイラは一瞥を投げかけて制した。

「ベラは湖畔に住んでいるのですか?」

「そうね。街外れにある湖だけど、お前さまとそこの坊やだけで行けるかしら?」

 ベラがどんな抵抗をするかはわからないし、また複数の狼を従えていたら俺は勝てるだろうか。そして、無事に帰って来れるのか。

「行ってみるよ。それと俺の疑問なんだが、ヤアンはどうして女性的に?」

「あれは元々、女らしい娘だ。あの男勝りな性格は、育った環境に神が順応させたのさ。蒼き狼はそれを持っていきなさった。蒼き狼がお戻りになれば、自然と元の彼女に戻るわ。安心して、魂はそのままだ。まだ少し疲れているだけさ。元来の気高さはそのままだよ」

「あいつが女らしいっていうのは見たことがないけど」

「坊やは会って日が浅いだろう。まだ縁が浅いということを忘れるんじゃないよ」

 そう言われてみれば、そうだ。

 俺は、まだよく知らない。ヤアンのこともリザイラのこともまだよく知らないんだ。

「お前さまも、私から見れば新参者さ。蒼き狼の仔と深いところで結びついちゃいるが、まだ、それだけだろう?」

 その問いにリザイラはただ曖昧な微笑みで返しただけだった。

「そろそろ帰ります。ごちそうさまでした」

「また、いらっしゃいな。私には時間がある。本が欲しければ、ここに来ればいい」

「なら、鏡はまだ預かっておきますね。ここから出るには?」

「まさか、おうちが一番って言えばいいんじゃないよな?」

――中々に、賢い子だこと。

 最後にそんな言葉が聞こえて、俺はヤアンの部屋に放り出された。

「きゃあ!」

 ヨアンナが驚いて叫ぶ。

「済まない。驚かせて」

 ヤアンなら怒るだろうが、ヨアンナは頭を撫でても怒らなかった。

 リザイラはまだ戻っていない。

 まだ鏡の魔女の屋敷の中だ――。


 魔女の住む屋敷の中でリザイラはまだ魔女と向かい合っていた。

「本当に魔女はおとぎ話が好きですね。それと、ありがとうございます。私の秘密を彼に漏らさないでくれて」

「それはどのことかしら? お前さまは秘密だらけですもの」

「私の生まれとか、あと……ああ、本当だ。私には秘密ばかりですね。どうか心に……」

 留めておいてください。そう願う。

「さあ、お前さまももうお帰り。ただ望むだけよ」

「おうちが一番と?」

 それを口にした瞬間、視界がぐらりと揺れた。

――秘密に飲まれないようにしなさい。己を解き放つべきよ。

 鏡の魔女はリザイラの詠唱の文言を揶揄するように言った。


「あわわっ!」

 驚きの声と共にリザイラがごろんと放り出される。

 俺もこんな風に出てきたのか。と思うと驚きのあまりにヨアンナが叫ぶのも無理はない。

 遅れて、リザイラも戻ってきたことに俺はようやく安堵した。

「遅いよ。君だけ攫われたかと思った」

「ローレライと少し話してました。内容は秘密ですが」

 いつもなら、唇に指を当てて茶目っ気を出していそうな台詞だがその気配はない。

「へえ。お土産付きか」

 俺はリザイラの手に小ぶりの鍋が握られているのを見て言う。

「あらら、いつの間に持たされたんでしょうか」

 鍋の蓋を俺が開けると丸鶏のスープが入っていた。いや、ヒキガエルか。

「あの魔女って普通の魔女じゃないよな?」

「彼女は年月を経た魔女ですよ。それこそ千年ぐらい生きてそうな」

「そんなに?」

 俺はそんなに人が生きていられるものなのか。と思う。

 人の寿命は長くてもせいぜい、八十年ぐらいだ。普通は六十年かそこらだ。

 ギルドの主人だって高齢に見えるが、せいぜい、六十代中頃だろうと思っている。

「ええ。あんな空間を普通は生み出せませんし、どっちの姿にも歪みはありませんでした」

 姿を偽ると多少の歪みが生じるとリザイラは説明した。老婆の時は完全に老婆で美女の時は完全に美女だったという。それなら、リザイラは見たままの年齢なのか。

「只者ではないとだけ、言っておきましょうか。どうせ説明しても、半分以下しか、理解できないでしょう?」

 文句を言いたいところだが、実際、理解できないだろう。

「またそうやって意地悪を言う。どうやって出るか、俺は当てたのにな」

「それは、まあ、そうですよね。彼女に聞けば普通に答えてくれたでしょうけどね。でも、あれはどんなおとぎ話なんですか?」

「おとぎ話じゃないかな。昔、観た芝居のセリフだよ。少女が鏡の国から帰る物語だった」

 あの場所はまさに鏡の国、いや、鏡の屋敷だったから思いついただけだ。

「芝居は私、あまり観たことなくって……。全く観ないこともありませんが」

 俺は単純なので、てっきり今度連れて行けと言っているのかと思い、思い切って誘う。

「なら今度、俺と芝居を観に行くなんてどうかな?」

「このことが片付いたら、三人で行きましょうね」

 リザイラは複雑そうに微笑んだ。

「なら、その前に湖まで遠足にいってピクニックと時化込むか」

「洒落込むの間違いでは――って、それはヤアンの――っ!」

 リザイラの呆れた視線が、ちょっぴり舌を出し、悪戯っ子に見えるよう願う俺を見た。

「何も真似しなくていいんですよ?」

 リザイラは笑ってくれた。安心したように。

 俺は密かに勝利を決めた戦士のように拳を低く握った。

「師匠だから、真似ぐらいはするね。それに君の息抜きにはいいんじゃないかなって」

 リザイラは舌先を出す俺を見て、舌を引き抜いてやる、と言わんばかりに手を伸ばすが、届かない。

「それでさ、空きってなんだ? 魔女が君には空きがあるって言ってただろ?」

「魔力とか加護を受け入れる器のことです。人の器とか、そういった概念的な話ですよ。これは誰でも持っていて、加護がなくても、普通は空きがないんですよ」

 それは才能とか、魅力だろうか。

「君のは空っぽなのか? 魔力はあるよな? 魔石を作れるんだから」

 リザイラの魔石は、自身の魔力を固めたものや、古い石らしい。

「魔力と才能はあると自負しています。本来あるべき加護がありませんけどね」

 自分は本来あるべき加護を探している旅の途中だ、とリザイラは自嘲するように笑う。

「それが、こんな形で役に立つとは皮肉ですよね」

「……皮肉なのかな? それが役立つならいいものだよ。俺は加護があるけど使えないし」

 危険はあるかもしれないが、人を助けるのに使えるのならそれは恩恵と言えるだろう。

 それは俺の考えであり、リザイラは視線を落としていて、その考えは違うかも知れない。

「このスープどうしましょうか?」

 手元のスープを見ていたのか。と俺はほっとした。

「そこの腹ペコ痩せ狼に。ってことじゃないかな?」

 俺たちのやり取りを微笑みながら見ていたヨアンナを見る。

「多分、ヤアンは貴方が痩せ狼と呼んだら、投げ飛ばすでしょうね」

「ヤアンには何回も投げ飛ばされてるから、そんなの今更だ!」

 そう言って俺がヨアンナの方を見ると、部屋の主がいない。

「凄く美味しそうだわ。こんなに食べられないけど」

 ヨアンナはリザイラの傍らからそっと顔を出し、鍋を嗅ぐ。

 俺はぎょっとした。

 そっか、俊足とかの能力は風の加護だし、一応、鍛えてもいるんだよな。

「……食べる?」

 俺はリザイラの手から鍋を取り、ヨアンナに見せると銀色の瞳をキラキラと輝かせて、素直に頷く。

「食欲が出てよかったですよ。さっきのも食べたんですね」

 リザイラが空の器を見て嬉しそうに笑った。

「既にスプーンはお持ちのようだ」

 ヨアンナの手に握られたスプーンに思わず、俺は破顔した。

 空いた皿にスープをよそってやり、一応、気を使って何の肉かはわからないようにした。

「いっただっきまーす!」

 行儀よくそう言って、ヨアンナはものの数分で鍋の中身を平らげた。

「今まで単に空腹だっただけ、とか言わないよな」

「普段ならそれもあり得そうですが、流石に単なる空腹で寝込まないでしょう」

「お腹いっぱいだわ」

 それでも、スプーンまで舐めたところを見ると、実は控えめに言っている気がした。

「今は無理だろうけど、すぐにこれじゃ足りないって言い出すさ」

「嫌な人ね。そんなに意地汚い人間じゃないわ」

 彼女はなんだか、少しだけ元気になったようで、くるりくるりと回っている。

 そのただ機嫌に任せて回っていると思っていたその足は、剣を振った時のそれだ。

「嘘つけ。だったら普段のあの飯の量は何なんだよ!」

 ヨアンナはやっぱりヤアンなのだ。と思い、俺は嬉しくなった。

「普通だけど?」

「あんなのが普通なのかよ! じゃ、じゃあ、ヒキガエルは?」

「元が王様だったとしても、野営でよく食べているわ」

 それはまた随分と、過酷な環境で育ったんだな。と思う。

 彼女は一度だけ、部族が滅んだ後のことを教えてくれた。

 部族と家族を殺され、師匠のランドルフに拾われるまでを、独りで生き延びたらしい。

 その独りだった期間は、月が八回昇るまでは、数えられたそうだ。

 訓練の間に、聞いたこともあってすっかり忘れていたが、野垂れ死に寸前だったと言う。

 そう言って、ヤアンは笑っていた。その後、幾度もの幸運に見舞われたと。

 俺が弱音の代わりに世の中に悪態を吐く度に言っていた。

『世の中、そんなに捨てたもんじゃねえぞ』と俺を俺の槍でつつきながら笑った。

 元気を取り戻し、体調も回復したヨアンナを見て、リザイラは複雑な顔をしている。

 そっと逃げ出すように踵を返して部屋を出ていくリザイラを俺は追った。

「どうかした?」

「いえ、なんだか彼女の元気そうな顔を見てると……」

「いたたまれなくなる……とか?」

 リザイラの寂しげな笑顔の底に漂うものが何かは、俺には計り知れない。ただ思うのは喜んでいるようには、見えないことだ。

 元気そうに見えても、蒼き狼じゃない。だが、ヤアンとヨアンナは全然違うようでいて、同じ人間だ。少し弱くて、強くないだけの普通よりは背の高い普通の少女。

 少し気の抜けた性格だが、元から思慮深いわけでもなかった。と俺は思う。

「もしかしたら、彼女にとってはこのままの方が幸せなのかもしれない」

「は?」

 リザイラの言葉に俺は少し戸惑った。

「風の加護はあるようですし、蒼き狼として持っていたものの全部をなくしても、彼女は彼女です。怪我が治りにくいなら怪我のない生活をすればいい。人の人生を大きく見れば、力はない方が人として、幸せなのかもと思うんです。私の護衛は別の人を見つければいい」

「もしかして、ベラと口づけするのが怖くなったとか?」

 俺はあえて、意地悪く言ってみる。随分とリザイラらしくない気がするのだ。

「そういうわけじゃありません。今までヤアンは、結構苦しい思いをしてきたんです。

貴方には意外でしょうけれど、蒼き狼には血の衝動があり、それと常に戦っていました。

所謂、血への渇望で、彼女は流血を好むんですよ。それを無理やり抑えている状態ですし、怪我を負っても、一瞬で治ってしまうから、平気で危険に飛び込んで行ってしまいます。それでも、負った傷の痛みは、普通の人間と変わらないんだそうです」

「本人がそれをつらいって言ったのか?」

 リザイラは頷く。ヤアン本人がそう言ったならそれは本当だろう。

「その時はちょっと愚痴った程度でしたがね。いつも彼女は強がって、笑ってくれます。でも、そんなもの――もうない平穏な人生を送った方が幸せじゃありませんか?」

「それはどうかな。元々、突き抜けた性格だったのが、今は気が抜けた性格になってるし、心配じゃないか?」

 それこそ、上っ面だけでも明るく振舞っているだけかもしれない。

「どうせ、ランドルフさんやブラッドさんが――彼女の師匠が快く守ってくれるでしょう」

「じゃあ、なんで君は泣いてるんだ?」

「え?」

 リザイラは言葉を紡ぎながら、溢れ出る大粒の雫と自分の嗚咽に気が付いていなかった。

 わかりやすい程に自分の涙に戸惑い、何度も両手で拭うが止めどなく溢れてしまう。

 その姿を愛しいって思うのは罪だろうか。

「気付いてなかったか。そこには、君がいないのをわかってるんだろ。だから、泣くほど悲しいんじゃないか。それにヤアンだったらどう思うかを考えたか?」

「そんなのわからないじゃないですか。私なんかいなくても……」

 自分なんかいなくても、その気持ちはよくわかる。だが、それを良しとしてはならない。

 俺は、ずっとその『なんか』という言葉と戦ってきた。

「蒼き狼じゃなかったら、これまで俺たちが接してきた強いヤアンはいなくなる。痛みも苦しみも全てが彼女の一部だ。これまでヤアンが必死に、もがいてきた人生も無駄になる。

それじゃ、ヤアンじゃないだろ。そりゃ……人の人生を大きく見れば、ありかもしれない。けど、君は本当はどう思ってる? 君が望むものは? それが一番大事だろ?」

 師匠にただ守られるだけの、リザイラもいない人生をヤアンが望むとは思えない。

 乱雑で無鉄砲で気性が荒いが、それは抑圧された情の厚さと自由さと気高さ表われだ。

 俺はそんな彼女に憧れて、そして、彼女に恋しているこの子が愛しいんだ。

「私が……望むもの?」

 潤いに赤く腫れたその眼を見て、俺はそれに気付いた。

「そう。俺は君が望むものを上げるよ。だから、とりあえず、涙を拭いて深呼吸して?」

 すごく切ないけど、それは虚しいことじゃない。

「絶対に胸には飛び込みませんよ。汗臭そうだ」

 本当だったら、ヤアンのように抱きしめたい。でもそれはヤアンの仕事だろう。

「はい、はい。お嬢さん」

 だから、俺はただ彼女の漆黒の髪を優しくなでるだけ。それだけなら許されるよな。

「それも許しません。リザイラと呼べって言ったでしょう。逆流させますよ」

「血流を? きっと苦しいだろうな。それ」

 伝えられないこの思いを抱えているだけで、心臓が苦しいんだからきっと苦しいだろう。

 もし、全てが上手くいったら、伝えるだけ伝えよう。敗北するのはわかってる。

 それでも、戦わずに逃げる俺を、あの蒼き狼の師匠は許さないだろう。

 この子に振られることよりも、彼女の失望の方が俺にはキツい。

 不意にリザイラの背後からその肩に白い腕が絡みつく。

「どうしたの? 何がそんなに悲しいの? レオが泣かせたの?」

 嗚呼、こいつどうにかなんないかな。いや、どうにかしないとだ。

「なんか、ずるいです」

 リザイラが言うのと、同時に俺も口を合わせてヨアンナにそう言ってやった。

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