六、

 

「ヤアンの血は止めといたぞ。そんで、お前ら何してんだい?」

 ギルドの主人がヤアンの部屋から出てきて、俺は握っていたリザイラの手を離した。

「ヤアンは俺が助ける。リザイラと力を合わせて、自分の師匠を助けたい」

 ギルドの主人に俺は宣言した。すると、節くれだった老人の手が伸びてきた。

 叩かれると身構えたが、ギルドの主人は俺の頭をくしゃくしゃと弄んだ。

「なら、髪を整えてから下に来い。お嬢ちゃんも化粧を直して来いよ」

 俺は寝癖のままだ。でも化粧を直して来いと言ったが、リザイラは素顔のままに見える。

「あ、そうですね。ヨアンナにも施してきます」

「じゃあ、俺は髪を整えてくるよ」

「確か、蜜蝋を使ってるんですよね。ヤアンの部屋に持ってきて頂けますか?」

「お、おう」

 一旦、自室に戻って蜜蝋を手に、ヤアンの部屋に戻ると、リザイラがヨアンナに化粧を施していた。

「どうして、ヨアンナにも化粧をしてるんだ?」

「化粧というのは本来は魔除けだったんですよ。鎧もしていない以上、守りになるものは何でも使おうかと思いまして。白粉で日差しも体に障らないようになりますから」

 その様子は随分と献身的で、ヤアンを思ってこその眼差しに俺は羨望を抱く。

「化粧ってのは女が男に媚びる為のものかと思ってたよ」

 俺は貴族の令嬢たちのことを思い出す。舞踏会で兄に群がっていたのを思い出した。

「最近はその考えで間違いではありませんが、私の化粧は違います。素材から違うんです」

「へえ、そうなのか」

 一体、何が素材に使われているかは謎である。

「意外ですね。ここの傭兵の皆さんもしている方が数名います。ヤアンは嫌がってますが、本当ならしていて欲しかったですね」

「ヨアンナの方も迷惑そうだね。俺もその、魔除けを習っていいかな?」

 ヤアンは相変わらず、気怠そうだが時折、リザイラの手を払っている。

「ふっ、戦士は着飾り、化粧をすることで自己を奮起させていた。いいでしょう。何色がお好みですか?」

「あんまり目立たない色で頼むって、君はばっちりだね」

 振り向いたリザイラの化粧は、いつもよりは濃いが、決して、けばけばしくはない。

 ただ、元のあどけなさも伴い、普段より艶っぽさが三倍増し、いや、五倍は増している。

「本当は、目の周りにもっと朱を入れたかったのですが……」

「で? 蜜蝋は何に使うんだ?」

 ヨアンナの化粧の合間に髪を整えて、俺はリザイラに蜜蝋の入った瓶を渡す。

「ヨアンナに持たせます。傷を負っても一時的に防ぐことができるように改良してから」

「全部か?」

「いえ、蜜蝋は高価ですから、少しいただきます」

 確かに、蜜蝋を整髪に使うのは上流階級だけで、貴族でも倹約家は水で溶いた小麦や、動物の油を使う。

 俺も今は手持ちの金があるので、蜜蝋ぐらいは使えるだろうが、傭兵として階級もない俺には高額の仕事もないだろうし、分不相応な代物になるだろう。

 今後、他を考えないといけないだろうな。

 瓶からリザイラは、本当に少しだけ蜜蝋を匙ですくいとり、自分の持っている小瓶に蒼い石と一緒に入れ、『――私は解き放つ――』と石にささやいた。

「おお、凄いな」

 ほんの数量、小粒の真珠ぐらいの量だった蜜蝋が、容器から溢れんばかりにたっぷりの蒼い軟膏――見た目は気持ち悪い――に変化し、実際に溢れ出し、リザイラは慌てる。

「おいおい、失敗か?」

「成功ですが、量が多すぎました。ヨアンナ、怪我をしたらこれを傷に塗ってください」

「……ありがとう。これでアナタから物を貰うのは何度目になるのかしら」

 ヤアンの言葉を聞いてリザイラは絶句する。ヤアンのそれは完全に女の言葉遣いだった。

「化粧をしたことが影響したんでしょうか」

「いや、何かが違う。これが本性なのかな? ってまた髪伸びてないか?」

「元々髪が伸びるのは早いです。私はそれは蒼き狼の能力かと思って――」

 リザイラも瞠目してから困惑している。

「風か? ヨアンナ、今日は熱いよな? コルセット緩めてても蒸すだろ?」

 風の加護と髪が伸びることがどう関係するのかわからないが、俺は直感に従った。

「そんなことないわ。だって、涼しい風が身体を包むもの」

「じゃあ、これは?」

 俺はヤアンの重いロンゲープを渡す。

「少し重いわ。色々入ってて、もっと重そうな感じがするのに変ね」

「風の加護だ。それは働いてるみたいだね」

 俺の言動にリザイラは驚きと喜びが入り交じった視線を送ってきた。

 ヤアンに働いていた物を軽くし、身体を軽くする作用は風の加護が蒼き狼の血によって強化されていたのだ。蒼き狼の加護にもその能力があるのかもしれない。

 完全な状態ではそれらの相互関係がヨアンナをヤアン足らしめているのだろう。

 俺はヤアンという男装の女傭兵に憧れていたんだ。

「髪が伸びるのは風化することと関係あるんでしょうか」

 リザイラはヤアンの傍を離れ難そうにしているが、ギルドの主人が下で待っている。

「一度、下の酒場に行こうぜ」

 俺はリザイラの肩をそっと叩いた。

 酒場に行くと、ギルドの主人が書類をまとめていた。

「ヤアンの生い立ちは知ってんだろ? これは、傭兵ギルドの重要案件に該当するのを、忘れるな。戦闘の女神である蒼き狼の部族だ。その神は本国でも崇める人間が多くいてな。本来は保護すべき存在だと見做している連中もいる。何せ、先祖が建国の立役者だからな」

「この街の本国もなんですか?」

 そのことには、俺も驚いたが、リザイラも驚いていた。

「そうだ。蒼き狼は昔は多くいたからな。一応、保護対象だ。それに仇為す存在が現れ、更に本人を害したとなれば、上級クラスしか引き受けることができない依頼になる」

「階級はない俺には、あの人を助けられないのか?」

 一抹の不安が漂う俺を見て、ギルドの主人は溜息を吐く。

「まあ、そう言うと思ってね。本部には内緒だぞ。ギルドの主人としての依頼にしたよ」

 老紳士の神妙な顔で、それは特例中の特例ということなのだろうことがわかった。

「ヨアンナを救え、いいな? ただ、あの状態では世話する人間が必要になるからな」

 ギルドの主人は自分は忙しいと言いたいようである。

「書類にサインしたら、この食事と替えの靴下だけは傍に置いてってやってくれ」

 ギルドの主人は溜息を吐いてから言って、書類と軽そうな食事を出してきた。

 食事か。あの状態だと食事も減るものなのだろうか。

 それと靴下とはどういう意味だろう。

 俺は書類に目を通して血判を押す。そういえば、ヤアンが何も知らない俺に手のひらをひらひらさせていたのは、親指に傷が全くないのを見せていたのか。と今更、悟った。

「おっさん、朱肉って知ってるか?」

 そう言うとギルドの主人はまた適当な紙を丸めて俺を叩こうとしたので、避けてみせた。

「お前さん、まだわかってねえのかい。重要書類には自分の血を使わなきゃダメなんだ」

 ギルドの主人は不機嫌な溜息を吐いて、自分の親指にも付いた複数の傷を見せて言う。

 全てではないが、ギルドのものには魔術的な仕掛けがあり、書類もそうらしい。

「痛いのは、お前さんだけじゃねえ。お嬢ちゃんも今回は……魔術師は魔印を使うのか」

「私の血では書類を燃やしてしまうかもしれませんからね」

 リザイラが悪戯っぽく微笑んで魅せた。そして、魔印とやらを押す。

「これで、契約はなされた。どう解決するかはお前さんら次第だが、死ぬなよ」

「必ず、成し遂げて、生きて戻るよ。リザイラのことも守る」

 ギルドの主人が差し出した拳に俺は自分の拳を軽くぶつけた。

「それで? 靴下って何なんだ?」

「ヤアンは全裸は見られても平気なのですが、素足だけは恥かしいんですって」

「あー、文化の違いってやつか。全裸は平気なのに?」

「そうです。全裸の時は靴下も当然履いてないんですが、着衣の時は恥らうんです」

「へえ。全裸でも靴下だけは履いてるんだと思った」

「変な想像しないでください。でも、気を許してる人間の前では裸足になりますけれど」

 その気を許している人間そのものがヤアンには少なそうだ。

「ならあいつが元気になったら、靴下をプレゼントしようかな」

「絶対に許しません!」

「ああ、深い意味を持つってことだね?」

「もし、ヤアンに靴下を上げたら、本人に殺されかねませんよ。私も手を貸します」

 俺を牽制するように言ってはいるが、その顔はいつもの微笑みを湛えたままだ。

 ヤアンの部屋に戻ると、ヤアンいや、ヨアンナが手鏡を見つめている。

 靴下を傍に置いてやるついでに、ベラがヤアンに何をしたかを聞きたかった。

 だが、何やらぼんやりとして、食事を置いてやっても、一瞥するだけで手を出さない。

「ヨアンナ、昨夜のことをお聞きしたいのですが、大丈夫ですか?」

「昨夜、何かあったかしら?」

「私と会ったんですよね? 私は何をしたんです?」

「ぇっ、あ、覚えていないの? 非道い人ね」

 そう言って、ヨアンナは赤面し、リザイラを叩こうとする。上手く叩けてはいない。

「こんなに赤面するなんて卑猥なことかな? なんか深い意味がこれにもありそうだ」

 俺はヨアンナの枕元に置いた靴下を見ながらポツリと言った。

 それに対して、リザイラは俺を睨んでくる。

「心当たりはないのか? そういう深い意味のあることに」

「今まで私としたことって、一緒に寝ることぐらいですからね」

「な⁉ それは知らなんだ」

「そのままの意味ですよ。私は貴方のように心が汚れてはいません」

 俺の邪推に、リザイラは敵意にも似た視線を無表情で送ってきた。

「俺は……まあ、男なんだから、しょうがないだろ?」

「はあーっ」

 リザイラは呆れた溜息は露骨に吐く。唇が震えるぐらいに。

「言葉にできない呪いが掛かっているとか、素足を見せたくないのと同じ理由かも」

 ヨアンナはヤアンと違い、かなりの恥かしがり屋のように思った。元が繊細なのだろう。

「ベラが死神の血を引くのはわかりましたが、彼女が魔女であることも、忘れないようにしなければなりませんね。部族の種類も本名もわかってないのが問題です」

 気持ちを切り替えるように、リザイラがベラのことを口にした。

「魔女のことは魔女に訊けばいいんじゃないか? そこに情報があるかも」

 俺はヨアンナの手にある手鏡を見て、この街にもう一人魔女がいることを思い出した。

「あのお婆さんですか。でも、肝心の居場所が――」

「魔法や魔術を使うと痕跡が残るんだよな? 魔女の行動にも意味があるんだろ?」

 俺はヨアンナが手鏡を持っていること自体に意味があるように思える。

「リジィ、大切にしてね。これは借り物でしょう?」

 ヨアンナは徐々にお淑やかになっている。化粧も伴って可愛いが、俺はやはりヤアンに戻ってきて欲しい。

「そうですね。朝から何も食べていませんでしたから、ご馳走になりに行きましょうか」

 ヨアンナが差し出した手鏡をリザイラが受け取った。

 受け取ってからしばらくの間、リザイラは鏡と睨めっこしていたが、やがてうな垂れた。

「むう」

 その後にも日の光に当てたり、息を吹きかけたりする。

「どうした?」

「呪文とか詠唱かな。『――私は解き放つ――』うーん、違いますね」

 どうやら、リザイラは鏡を調べていたようだ。

 小物には詳しくはないのだが、手鏡というと派手な装飾が付いている印象があるのだが、妙に古くて取っ手――というのか?――は付いているが、飾りが何もないように見える。

「これ古くて装飾がないように見えるのは俺だけかな?」

「古い鏡なのは確かなです。装飾もありません。うーん。私には使えないのかも」

 リザイラは俺に鏡を差し出してヨアンナの隣に座る。ヨアンナはすっと距離を置いた。

 距離を取られたことに一瞬だけ唖然とするリザイラを見ていると、妙に俺の方が切ない。

 いつもなら、リザイラにべたべたとやたらくっ付きたがるのはヤアンの方である。

 ヨアンナはヤアンはどうしてこうも正反対なのだろうか。という疑問が降って沸いた。

 いや、今は鏡をどうにかしないと、そもそも鏡と格闘している場合かとも思う。

 だが、ヤアンがこうなってしまい、他に手立てもない状況である。

「鏡よ鏡ってな風にはいかないか」

 俺が差し出されたそれを手に取って、そう呟くと――って何も起きないか。

 いや、一瞬光った。そう見えただけだ――と思うとまたほわんと光る。

「ええい、紛らわしい!」

「どうしました? 鏡よ鏡で、鏡が反応したとでも言う気ですか?」

「光ってるんだけど、薄っすら鏡よ鏡っていうと光りだしたんだけど、なんだろうこれ」

「まさか。どうせ、光の屈折でしょう。あれっ! 本当だ。あっちにも光がありますね」

 リザイラが指差した方向に、ほわんほわんと光る光の玉がこちらを呼び寄せるように、浮かんでは消え、まるで意思があるように跳ねる。そして、扉へ向かっているようだ。

「付いて来いってことかな?」

「でしょうね。レオの短絡的な発想が功を奏するとは思いませんでした」

「リザイラは何でも難しく、考えすぎなんだよ」

 やがて、光りは鳥の形になり、俺たちを導いて飛翔し、扉をすり抜けた。

「レディー・ファーストで」

 紳士を装う振りをして、実は腰が引けている。

「私たちは対等です。だから、一緒に行きましょう」

 リザイラも実は少しは怖いらしく、俺の腕を――ヤアンがいつもするように握った。

 扉を開けた途端、眩い光が俺たちを包み込んだ。

「うわぁ! トゥルドゥトゥルの術ですね! あ、扉から扉っていう意味です」

 リザイラが俄かに感動を示す。まるで美しい宝石でも見たような反応だ。

「うわっ! なんだこりゃ‼」

 光が消え、目の眩みが落ち着き、そこに映るのはあの訓練場の屋敷跡――そのかつての栄華を思い起こさせる屋敷の中だった。

 俺の知る魔術というものを遥かに超えるその光景は、燭台の蝋燭の灯が我々の行く手を導くように勝手に点いていくという感じである。リザイラは恐れもせず、歩み出した。

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