獅子の嘆き~猫は企み、狼は笑う~
黒巌麻里子
序、
港には各国の様式で作られた交易船が行き交い、色とりどりで鮮やかな商館が建ち並ぶ。
異国情緒あふれる街並みではあるが、精霊や神々を
この街にまだ荘園しかなかった頃を知る者はもう少ないのだろう。
そんな感傷に浸り、老眼鏡の紳士は朝市の露店の前で野菜の値段を見て溜息を吐いた。
彼はこの街の傭兵ギルドの支部長を任される傍ら、趣味で酒場を開いている。
人は彼をギルドの主人と呼び、ギルドも傭兵酒場と呼ばれる程度には賑わっている。
そんな彼の悩みは野菜の高騰だ。
「お嬢さん、このキャベツとレタスなんだが……」
「値段は負けれないよ。お嬢さんなんてあんたに呼ばれても嬉しかないし、今年は不作で農民もひもじい思いをしてるのさ。これも精霊の気まぐれかねぇ」
値切ろうとしたギルドの主人に露店の女主人はまくし立てる。
「なら、うちの連中から農村にタダで何人か貸すからさ」
「そいつらの飯が芋の皮だけで済むならいいんだけどね」
本来温暖な気候であるこの周辺地域も冬に寒波が続き、作物の育ちが悪いらしい。
「そりゃ残念。ほんじゃあ、キャベツだけでも二つ貰うかねえ」
ギルドの主人は値札を見て、また溜息を吐く。
「いや、やはりひとつにするよ」
ギルドの主人にはキャベツに大銅貨を二枚も払う勇気は無かった。
他の買い出しも終え、住居と傭兵ギルド、酒場でもある石造りの建物に裏口から入る。
貯蔵庫に食料品を置き、厨房に行くとキャディという紅茶の保管容器が置いてあった。
悪戯好き妖精が置いていく。などというわけはなく、これは何かの兆しを意味している。
それか昨晩、出しっぱなしのまま寝てしまったのか。
この手の違和感は何かが起こる前兆だ。と人より少し長い人生で身に染みている。
嫌な予感がしてカウンターの外を見ると、この建物の二階を間借りしているふたりが、珍しく早朝から、揃ってカウンターに向かっている。
キャディの蓋を開けると馴染みのない香りがした。
――こりゃあ、あいつらに茶を淹れてやれって事なのか?
丁寧に淹れた紅茶を温めたティーカップに注ぎ、セットでトレイに乗せて、それを朝の挨拶代わりに、ふたりの前の付け台にお茶がこぼれない程度に乱雑に置いてやる。
「随分早いな。お二人さん」
ヤアンとリザイラが紅茶の香りに釣られて顔をあげる。
「おう」という素っ気ない低い声と「おはようございます」とたおやかで鈴の鳴るような声が同時に発せられた。
「おう、とは随分な挨拶の仕方だなヤアン。それとおはようさんお嬢ちゃん」
ヤアンというのはギルド傭兵だ。少々無礼な振る舞いも許される程度に階級が高い。
リザイラは元は旅の魔術師だったようだが、最近ここの魔術顧問になった。
そして、ヤアンはその護衛をしている。
このふたりが朝食前に、しかも受付でもあるカウンター席に揃っているのは珍しい。
「お茶、ありがとうございます。随分日差しが強くなってきましたね」
鈴の鳴るような声のリザイラがトレイをそっと受け取った。
「夏だからな。今年は妙に風が冷たいがね」
「そうなんですか?」
リザイラはヤアンとギルドの主人の双方に訊いている。
ヤアンはリザイラがそっと傍らに置いた紅茶を一瞥し、すぐに手元の書類に視線を戻す。
今日は妙に大人しいヤアンにギルドの主人は違和感を感じた。
「スコーンも付けようか?」
焼き菓子の名前につられ、ふたりは目を輝かせながら、顔を上げる。
傭兵と魔術師とは言え、このふたりはまだまだ子供と呼べる年頃だ。
「本当ですか。うれしいですね」
「おお」
「おお、じゃあねえ。おまいさんには、やらん! それは内部にあるべき依頼書だろう」
ここに寄せられる依頼書は本来カウンター内の棚に置いてあり、普段はギルドの主人が必要に応じて傭兵に見せるものだが、今は何故かヤアンの手元にある。
「ん? 新しい銘柄か?
ヤアンは紅茶の知識に明るく、鼻も利く。スレーンというのは紅茶の産地であり銘柄だ。
「最近のは、随分と洒落てるな……じゃあねえ! それどうやって持ち出した?」
ヤアンは悪びれる様子もなく、にやりとしてリザイラを見た。
ギルドの主人はうな垂れる。リザイラならカウンター内に入ることができる。
「まさか、顧問殿に与えた権限をヤアンに悪用されるとは……」
「悪用ではないでしょう。私にはギルド傭兵に依頼書を渡す権限もありますよね?」
リザイラはただ妖艶に微笑み、可憐な仕草でカップに口を付ける。
「だな。それがなけりゃ依頼書の入った棚は開けれんはずだからな」
傭兵ギルドのカウンター内部にはギルドの主人が権限を与えた者しか入れない。例外は存在するが、内部に入れたとしても皿の一枚、盗めないよう仕組みが施されている。
「そうそう、お嬢ちゃん、街議会の働きかけで魔術図書館からの免責を取り付けたぞ」
「ああ、それは良かったです」
リザイラは安堵したように胸に手を当てた。
「傭兵ギルドの魔術顧問である限りだがな。これその書類な」
「なるほど」
リザイラは受け取った書類に、この街のという記載がないのを見てくすりと笑った。
「まあ、でもしばらくは街から出るのはお勧めできんな」
街の議会が魔術図書館側と交渉し、免責を取り付けてからそう時間が経っていない。
「大人しくしてますよ。できる限りは」
そういってリザイラはちらりとヤアンに目をやった。
「このまま逃げるっていう手もあるけどな」
ヤアンがしれっとした口調で妙なことを言う。
「逃げる?」
ヤアン言葉にギルドの主人は眉をひそめた。
「ランドルフさんとブラッドさんが議会からの依頼で街にいないのでこのまま――」
「二人で逃げようかってのは冗談だ」
ヤアンがリザイラの言葉を遮って、弁明するように言った。
ランドルフとブラッドはヤアンの師匠で育ての親だ。彼らは今、この街にはいない。
この街には独自の政治を行う議会があり、傭兵に仕事を依頼することがある。代わりに傭兵組合や組織の顔役には議会に発言権があり、リザイラの件もそれで手を打てた。
「心中することにならんといいんだがな」
ギルドの主人がそう言うのはヤアンが今まで散々家出しては連れ戻されているからだ。
「だから、ただの冗談なのさ」
ヤアンは肩をすくめ、依頼書の束をめくりながら紅茶を一口飲む。
年頃のせいか、ヤアンは一人前になってからずっとこの街を出ていきたがっている。
リザイラも羽休めのようなもので、いずれはヤアンを護衛として連れていきたいらしい。
「んで? 逃げる以外で解決策は見つかったか? 経験を積めそうな仕事はあるのか?」
ヤアンが依頼書の束に目を通している理由はそれしかないだろう。
「難しいな。オレのランクじゃリジィのお守りしながら出来る仕事は多くねえんだよ」
「なんだそりゃ、この期に及んで選り好みしてんのかい。お嬢ちゃんから小遣い貰ってんじゃねえのか?」
ギルドの主人の言葉にヤアンは明らかに不機嫌そうな顔をする。
「私から小遣いを貰うのは嫌だそうです」
「そもそもなんだって、今になって仕事探ししてんだい?」
ヤアンにはリザイラとの護衛契約で報酬の前金に加え、食事代と諸経費の保証がある。
「一応、確認しとくが、お前さん金には困ってねえだろ?」
「串焼き屋の爺さんにヒモとはいいご身分だなって言われたんだ」
「ほう、そんな理由なのかい」
露店での飲食代もリザイラに奢らせているだろうことが容易に想像できた。
「まあ、手配されてる人間の特徴と罪状を覚えるぐらいにしときゃいいだろ」
ギルド傭兵の仕事は依頼に限った事ではなく、街の見回りもある。それで運よく警吏から追われている悪党を発見し、捕縛をすれば、懸賞金が貰える。
ギルドの主人が深く溜息を吐くと、ヤアンは複雑そうに口先をとがらせる。
「だあ! もう、るせい。護衛以外にも依頼も請けるってのはどっちみち変わんねえだろ」
ヤアンにはヤアンなりの理屈と理由があり、それに苛立って声を上げた。
「おっさん、とりあえず、スコーン十個くれ」
「そんなにあるわけねえだろが!」
ヤアンは不機嫌そうにスコーン以外で朝食をとり、書類の束との睨めっこを再開した。
そろそろ酒場がいつものほこり臭くむさ苦しい空気に包まれる時間だ。
ギルドの主人はこの傭兵たちが酒場を賑わす前の静寂が気に入っている。
――最初に入り口の扉を開くのは、今日はどいつかな。
そんな事を考えていた時だ。入り口の観音扉がバーンっと音を立てて開いた。
ギルドの主人は思わずヤアンに視線を向けた。視線の先でヤアンは扉の方を見ていた。
観音扉を開けて入ってきたのは少なくともギルド傭兵ではないが、戦士の姿をしていた。
かなり若い青年だ。少年と青年の中間ぐらいか、それにしては背が高く体つきもいい。
燃えるような金の髪が揺れ、狂暴な笑みを湛えながらも、黄昏の瞳は希望で輝いている。
――ほう、これはまた。とギルドの主人は嘆息する。
「おうおう、ここの傭兵になるにゃ、どいつを倒せばいいんだ?」
獅子のような風貌の青年は、槍を構えてカウンターに向かてくる。
――とんだ、馬鹿が来たもんだ。
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