第3話 赤い首輪と、キャットタワー

「もうナナの真似はやめて‼ コロッ‼」


 小川結衣は大きな声を張り上げた。


 コロはその声に驚き、家の柱で爪を研ぐ仕草を止めた。慌ててご主人の方へ振り向くと、赤く目を張らした涙目のご主人がそこにはいた。


「クウ~ン……」


 コロの悲しそうな唸り声に、結衣は座っていたソファに弱々しく、うつ伏せに倒れ込んだ。ソファに埋もれた結衣の顔の隙間から、小さくすすり泣く音がリビングに響き渡る。

 ナナが居なくなってからこの2週間。コロは、ナナが最後に言ってくれた、猫の作法の練習をずっと繰り返していた。ナナが教えてくれた事を忘れないために。ナナの言いつけをしっかり守るために。

 そうしていたら……、ナナがひょっこりと戻ってきてくれるんじゃないかと思った。

 また猫の作法を教えに来てくれるんじゃないかと。でも、ほんとは、分っていた。ナナは、もう戻ってこない。でも、そうしていないと、心にぽっかり大きな穴が空いたみたいで、ただただ、寂しくて、悲しくて、会いたくて。

 そんな気持ちに押しつぶされてしまいそうになる。

 でも、今はもう何もできない。

 ご主人の辛い様子をコロは見つめ、ただ力なくフローリングにひれ伏し、そっと両目をつぶった。


                  〇

     

「チリン」


 ナナ⁉


 コロは顔をバッと勢いよく持ち上げた。気付いたらいつのまにか眠ってしまっていた。慌てて辺りを見渡したが、ナナの姿はどこにもいなかった。でも確かに聞こえたのだ、ナナの赤い首輪に付いていた鈴の音が。


「チリン」


 あっ!


 また聞こえた鈴の音。その音の方へ顔を向けると、コロは思わず目を見張った。ご主人が、ナナの赤い首輪をキッチンのごみ袋に入れようとしていた。


「ワンッ‼‼」

「コロ⁉ ちょっと⁉ は、離しなさい‼‼ あッ!」


 赤い首輪を咥えたコロは、ご主人から急いで離れた。

 結衣が赤く腫れた目でコロを睨む。


「コロ……。もうナナは、いないの。ナナは、ナナは……、もうどこにもいないのッ‼ だから、返してッ‼‼」


 結衣がコロに勢いよく詰め寄る。コロは慌てて後ずさるも、コツン、と背中にキャットタワーの柱が当たった。


 追い詰められたコロ。


 結衣の片手が、コロの咥えている赤い首輪に迫った時だった。


「チリン、チリン」

「えっ⁉ コ、コロ⁉」


 ご主人の驚く声を無視し、コロは必死にキャットタワーを登り始めた。ご主人に捕まらないために、無我夢中で目の前の段へ段へと飛び移る。コーギーなのにまるで猫の様なしなやかな動き。そしてチリン、チリンという鈴の音。まるでナナが登っているかの様で、結衣はコロに釘付けになった。そしてコロはついに、頂上までたどり着いた。


 初めて来たナナの寝床。


 あっ、ナナの、匂いがする。


 コロは愛らしい鼻をひくひくさせて、そう思った。


 日を追う毎に、ご主人と自分の匂いだけが強くなっていくこの家に、まだ……、こんな場所があったんだ。


『コーギーにしちゃあ、あんたは良くがんばったね。できた犬だったよ』


 ふとナナの言葉がコロの耳に蘇る。


 コロの口が少し、震えた。


「チリン」


 赤い首輪の鈴が、小さな優しい音を奏でる。しばらくここにいたくて、コロはゆっくりと座った。


「コロ……、ぷふっ。ちょっと、その座り方」


 コーギーなのに、完璧な猫座りをしたコロの姿。結衣は思わず笑ってしまった。

 久しぶりに聞くご主人の楽し気な声に、コロは振り向いた。

 涙目でも、少し楽しそうな顔。コロはすごく嬉しく思った。だって、ご主人のそんな顔を見たのは、久しぶりだったから。

コロが口元を緩めたときだった。コロはあることに気付いた。そして、体が小刻みに震える。


 た、高い……。


 目もくらむような高さ。思わず、震える足で立ち上がった時だった。


 あっ。


「わわっ⁉ コロ‼」


「チリン」


 結衣の大きな声、そして赤い首輪の鈴の音が鳴ると同時に、コロはキャットタワーの頂上から足を踏み外した。コロは全身に感じる浮遊感と共に、下に落ちていった。

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