1-5 和菓子職人とホッチキス
冬曇り。淀んだ雲が一面に蓄えられて空には動きがない。冷風も湿気を含み、纏わりつくようだ。
和菓子屋から徒歩十分。住宅地に埋もれるようなその狭い広場にはぽつんと長ベンチがある他は遊具はなかった。
フェンスに囲われた内に並ぶ手入れのされた落葉樹の茶色の葉から雨粒が落ちると、根元に溜まった落ち葉がパタパタと音を立てた。
イツキは先に待っていた。
本来、イツキの大学からここまでは電車で一時間ほど掛かるはずだが、ムカゴにはそれを疑問に思う余裕はなかった。
「俺を信じてくれ」
真正面から説得されて、苦渋の末にクコを渡した。
イツキはトイレの芳香剤のようなものをベンチに置いた。清涼な石鹸の香りが辺りをふわりと包み、木と芝生と土が雨に濡れた不快な匂いを打ち消した。
忽ちイツキの腕の中でクコが感電したように目を見開く。と、すぐに笑いがピタッと止まって、気絶するように深く眠った。
穏やかなクコの寝顔に、ムカゴは漸く安堵して膝から崩れ落ちそうだった。
イツキが重々しく口を開いた。
「偶に人間と、この世の摂理に反するものが一緒に居過ぎると、こういうことが起こる」
イツキの目には複雑に折り重なった痛みが宿っていた。
「こういうこと……?」
「おばさん、正気じゃないって言ってただろ。多分、人間界の障害や病気じゃない。丸二年も発動し続ける魔法に
「ま、待って下さい」
イツキが何を言っているのか理解できない。「この世の摂理」とか「人間界」とか「魔法」とか場違いな単語を聞かされた気がする。
だが、何の冗談ですか、と訊くにはイツキの目が真剣過ぎた。
沸き上がる疑問を何とか飲み込んで、ムカゴは理解しようとする。
「じゃあ、つまり、この子は人間じゃない……?」
「いや? この子は人間だ」
……先程からイツキが、ムカゴからクコを遠ざけるようにひしと抱きかかえていることに思い至った。
「人間じゃないのはお前だよ」
ムカゴはいよいよ意味が分からず、イツキを凝視した。
「偶にしかいないんだけどな、自分が人間じゃないって自覚ない奴」
イツキの目には同情の色があった。
彼は短い説明を加えてくれた。
雨女ならぬ雨男。雨の日、産んだばかりの子供が神隠しに遭ってしまった女性が雨女という妖怪になり、泣いている子供を攫ってしまうと言われている。また、雨を呼び人を助ける雨神との説もある。
いずれも人間の営みの輪にひっそりと現れる類の存在だ。
ムカゴは捨て子だったクコを拾った。それはムカゴが雨男だったから……。
「これは推測だけど、多分『阿部ムカゴ』って人間はちゃんと存在してた。だけど雨男の妖怪が憑りついてから意識ごと取り込まれて『阿部ムカゴ』はお前の中で死んじゃったんじゃねえかな」
自分が、自分じゃない。意味が飲み込めないなりにイツキの言葉に嘘がないと直感が告げた。
「今は辛うじて人間に見えるその肉体も簡単に剥がれ落ちそうだし。
……もし人間でないムカゴが、無理にクコちゃんの傍に居続ければこの子は衰弱死する。この子を亡くせばお前はまた悲嘆に暮れて、新しい捨て子を探して彷徨う。
……俺が何言いたいか分かる?」
ここまで丁寧に順を追って説明されれば、続く言葉は嫌でも分かる。それでもムカゴは足掻きたかった。
「む、娘はっ、娘とだけは一緒に生きたい……」
イツキにみっともなく縋ったが、
「悪いけど、駄目。クコちゃんのこと考えるんだったら、今がギリギリお前の娘がただの普通の人間でいられる瀬戸際だ」
「……僕といると、この子は普通に生きられない……?」
イツキがクコから手を離した。目を閉じたクコの小さな身体は暖かな風に包まれて、宙に浮いた。
イツキは、まるで魔法使いだ……。
「遠くに離れていたとしても、クコちゃんの様子を見守れるように、俺が手を貸すから」
真摯な目だった。
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