怪物は自覚する

 ばくの問い掛けが思い出された。

『あの子に惚れてんのよね?』

 惚れる、とは。

 当然知っている。恋慕という感情だ。人間が内包するうち一二を争う不定形。

 時として喜びに転じ、怒りに転じ、嫉妬に転じ、狂気へと至る。恋慕というのは前段階、悪性へと転化する前身としての腫瘍。


 少女との間にそんな情動を見出されるとは思いもしなかった。初めは一蹴したが、仮にも発言者は獏である。記憶や感情の操作に長け、人間の情動に寄り添う怪物。

 その道の化物が判断したのだ。無視もそろそろ礼儀を欠く。

――あの少女と、俺が。

――睦言むつごとを交わし、笑いあい、互いの手を取る。

 断言しよう、似合わない。

 そも、あの無表情が動くとは――いや。俺は少女の表情差分をわりあい目にしてきた方だと自負している。観察していれば判断に迷うものでもないが。


 興味対象を見つけると、伏し目がちな瞳が丸くなる。猫の瞳孔が開く。

 美味いものを食べると口元が緩む。食事中は無言だが表情が如実だ。

 動揺は手足に現れやすい。泣く子供を目の前にして、差し出せない手が迷子になっていた。

 怒りと悲しみは薄い。大抵は消化され諦めに分解されるが、激怒させた時はその限りでない。少女の自制あって垣間見で済んだだけで、俺は未だあれへの対処が分からない。


 以前から素の気質は似ていると思っていた。理性的かつ人付き合いが淡白で、不必要な干渉をしない。今まで縁あった人間達とは異なり、利害を交渉のうえ長く食いつなげそうな餌として有用性を見出したこともあったくらいだ。

 感情を排して話せるのは助かる。教養が通じるため意思疎通にも苦労せず、欠けは教えれば吸収する。生きて動いていれば今のところ目新しさに事欠かかない。

 仮にちぎりを結んだとして。あちらは人で、俺は吸血鬼ばけもの。俺は人型であるから、あれと深く指を絡めることも、抱くことも、口付けることも可能だ。所詮あちらが生きて死ぬまでの間になるだろうが、悪くは――いや、違う。そもそも。有り得ないだろう。この仮定は。なぜ俺はこんな夢想を膨らませている。

『もしも』とばかり、実在しない幻を創り出す真似を、どうして何度も繰り返す。


「あなた近ごろ溜息ばかりね。……どうしたの? 悩みがあるなら教えてくれない」

「……悪い。何でもないんだ、本当に」

「そんな露骨に聞いて下さいってカオしておいて、無理がないかしら?」

 常に獏の問いが離れず、連鎖し少女を思い出す。些細な仕草や俺にかけた言葉まで。

 これ見よがしに息を吐けば「話を聞こうか」と身構えられるのは分かっている。だが決して俺は、誰かに話を聞いてほしいがためにそうしているのではない。

 俺が吸血鬼――異性を惹く怪物でなければ早々に癇癪を起こされても仕方ないほど。この溜息は困ったことに、油断すると勝手に口をついている。


 脳が必ず所定の思考に割かれているぶん、自然と毎日が上の空になる。

 自制の緩んだ隙から溜息が漏れだす。上手く操られてくれない手足に憤り、わけもなく壁に頭をぶつけてみるなどする。一寸後には行動の珍妙さに呆れている。そのうえ珍妙な挙動の前後に何を考えるかといえば――原始的な行為に高等な思考は伴わない。目が向くのは頭の片隅に居座り続ける『それ』だ。

 結果もたらされるのは、元凶たる思考に集中してしまう効果である。

 少女の瞳が脳裏に浮かび、壁に頭を預けたまま無意味に唸る。不機嫌と見えそうなほど口角を引き結ぶ。口角周りの筋肉に力が入らなくなるから、意識して身体を制御しなければならない。気を抜くとまた、聞こえよがしな嘆息が口をつく。


 少女本人なら対処可能か検討はした。ふらふら接触を試みかけては遠くから眺めるうちくじけて帰宅し、記憶の少女の影ばかりが不本意に増えていく。

 以前よりも近づいて、鮮明に温度を蘇らせる。

 鼓動が、心拍が。かすかに速まるようにさえなり始めた。


 消えず解けず糸口も見付からない思考が、肉体にまで不具合を生じさせている。

 早急に解決手段を模索しなければならない――俺は獏を訪ねた。

「どうにかしてくれ。どうせ趣味悪く覗き見でもしてたんだろ」

「そりゃ初めは腹かかえて笑ってたけど見てらんなくてとっくにやめたわよ気色悪い。それでなに? 責任とる覚悟決めた?」

「何の責任だ。俺は何もしていないし惚れてもいない」

 恋慕は人間の領分である。俺は元人間とはいえ怪物だ。


 惚れるなど。恋慕など、あいにく持ち合わせがない。

 なのに何故この獏は、寝ぼけた顔を引きつり笑いに歪めている。


「……ああ、ねえ。よぉ――く分かったわ。……アンタほんと、色ボケが過ぎてまったく周り見えなくなってんのね。ていうかあたしの責任じゃないわよ」

「お前が聞いたせいで始まったことだろう。惚れた腫れたとたわけたことを」

「あーはい。待ちなさい色魔、いや色ボケ馬鹿」

「俺は吸血鬼だ」

「今からあの子にとびきりの悪夢を見せてあげる」

 話が読めなかった。

「……妙な真似はやめろ」

「あんたはテキトーに、うなされてるお気に入りちゃんの枕にでも立っときなさい。夢はあの子の過去の記憶よ、馬鹿なあんたが傍観してきた虐待の記憶」


 獏は既に、術式を作動させていた。



 眠る少女の眉間には、深い皺が寄っていた。

 横向きに丸まり、顔もほとんど毛布に埋める寝相は繭に似ている。急に少女が小さく見えた。声が出ない。不快な汗が背を冷やし、口腔が渇く。

 迷っている暇は無い。獏の悪夢から引きずり出さなければ――精神が囚われてしまうと厄介なことになりかねない。あの悪趣味な化物、無駄に悪質な幻を振り撒いて何のつもりだ。人間への無為な干渉はやめろとあれほど。

 揺すり起こして目が開く間際、俺は良案を思いついた。

 俺よりずっと、これを安心させられる人間がいる。


 少女と血を分けた双子の兄。記憶にある幼少期の姿を咄嗟とっさに借り、変化した。

 目を覚ました相良は、兄に化けた俺を見て、

「……兄さ、? ――――」


 この世のものとは思えないほど青ざめた。


 飛び起きて寝台で後ずさり、震える手で毛布を掻き寄せる。偽物の兄に笑顔の様な表情を浮かべようとしたが、引きつった頬を押さえ、頭から毛布を被って身体を縮めた。

 弱々しい譫言うわごとは、昔見ていた臆病な子ども、そのままだった。

「……母さん、兄さん、ごめんなさい……私はきっと初めから、貴方がたに慈しんでもらっていい心根など持ってなかった。貴方がたの時間を頂くに相応しい人間ではなかった」

 何が起きたか分からなかった。

 少女が兄に怯える理由も、謝罪を繰返す意図も。相応しくないとまでの自責など訳が分からない。――愛し愛されていた家族だった。彼らと少女の間に、上等かそうでないかの差異などなかった。あの母親とて、双子を同等に愛していた。

 卑下する理由はなにもない。俺はそれを知っている。

 けれど少女は自傷めいた懺悔ざんげを続けていた。少女自身を刺し貫いていく言葉を遮ることも出来ず、傷だらけの内側なかみを目の当たりにする。

「私は兄さんの思っているような人間じゃない。貴方に笑い掛けてもらう資格なんて無かった。双子の、親族の情に甘え切って目をつむってくれていた貴方が、真実に気付いてしまう瞬間……それが、こわい」

「……選択に後悔はしてない。そうでなければ生きられなかった。私の人生が他人から見てどれほど汚く惨めだとて、培った技術には自負がある。人の縁にも恵まれた。幾ら同情されようと貶められてたまるか。誰かに譲るのもお断りだ」

「けれど、私は、……自分を省みるたび、貴方がたに愛してもらう資格もなかった出来損ないだと思い知らされる。私だけが薄汚い異物だった。……ごめんなさい、」

 喉を引き絞る音は、掠れてしまっている。


「歌声なんて、出ないんです」

「私は、もう、歌えない」


「貴方の一対には、なれない」


 凍える熱に浮かされたように、幾度も謝罪を繰返していた。言葉が朦朧もうろうとしながら意識はずっと覚醒している――眠ることさえ、自分に許したくないかのようだ。

 今にも砕けてしまいそうで、術で眠らせる強硬手段に訴えようやく寝静まった。


 寝息を聞きながら座り込んだ俺は、窓から差し込む朝陽をいとうことすら忘れていた。

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