喫茶店主と不審な男娼

11-1

 暴力的なまでの雨音が、夜を軋ませていた。


 街は雨で白くけぶる。水面に揺れるような視界は、一歩先すら曖昧だ。革靴はじっとりと浸水して、歩く毎、冷たい不快感が染み出す。

 薄い折り畳み傘を傾けた。すぐ背後で雨水が流れ落ちる。目に鮮やかなネオンが溢れる。玩具じみたショッキングピンク、深海のブルー、お高く留まる白――姦しい色彩に辟易へきえきしていた。


 一人。とうに切れた関係を、一方的に再燃させられていた。

 二人。穏便に切れそうだった予定が、一人目の乱入で狂った。泣き崩れられ詰られ、宥めるのにひどく消耗した。

 三人。急用によりキャンセル――(これも恋人関係ではないが)別れ話は延期だ。

 そして帰路。局地的な豪雨に降られている。


 今日はことに厄日だった。為すことすべてが失策で、普段ならばよく効く言葉ごまかしは逆上を誘い、些細なきずが命取りとなり掛けた。己の背に包丁のひと振りも刺さっていない辺りが、神とやらのなけなしの温情らしい。

 ツキがない。随分なことだ。このまま転げ落ちる先は、一日分の厄を上塗する幸運か――終いに相応な破壊力の不運か。


 視界の隅に襤褸布ぼろぬのが動いた。

 それが、三角座りで膝を抱える生者だと認識した瞬間、悟る。

今晩こんばんは。いい夜ですね、お兄さん」

 人好きのする笑みは、厄日を締める「非日常」だった。



 腹に響く雷鳴が轟く。ざあざあいう雨音のノイズは、帰宅してもなお衰えを知らない。

 泥鼠の男に玄関待機を命じ、雨水にふやけた襤褸を剥ぎとり洗濯機に入れる。タオルと着替えを押し付け、風呂に放り込んでから、点々と残った泥の足跡を掃除した。

「ひと雨だけしのいで出て行け」

 汚れを落とした野良犬は、驚くほどに白かった。

 牛乳色の長髪がぺたりと濡れて女の様だが、痩せてあばらの浮いた長身を見間違えるには貧相が過ぎる。短い前髪の下、幼い顔立ちがつるりと晒されていた。

 中身の無さそうな緑の瞳が、へらと笑む。

「貴方が御客となられずとも、困りませんよ。野宿すればよいのですから――と、申し上げましたような」

「低体温で死ぬか感染症で死ぬかだろ。いいから、腹の傷を見せろ」

 その『御客』とやらに恨まれでもしたのか。女――この男娼の営業相手が男女どちらかは知らないが――に刺されたのかという憶測は、自身の耳にも多少は痛い。

 苦虫を噛みつつ包帯を巻く手に、影が落ちた。


――甘い。

 香りにひどく、鼻の奥が疼く――男に貸したはずのバスタオルは、己の茶髪を包んでいる。


 思わず見上げた。距離が近い。疑念の視線は不思議そうに見返される。

 雨に濡れて冷えた髪を、湯気をまとうタオルが温めていく。丁寧に水分を吸ってかわかしながら、のらくらと寝転ぶような声が笑った。

「貴方も雨に濡れていらっしゃるのでしょう。浮浪者の世話より、御自身の世話をなさった方がいい。お風邪を召される前に」

 知らない匂いだ。男娼かれの移り香であるのだろう。花というには、動物性の香りに近い。自然な体臭と片付けるには甘過ぎる。

 ちょうど、この白い肌を苗床とし、彼の血の通う花が芽吹くなら、こういった香りになるのかもしれない。

「……包帯、巻けないだろ。気遣いには礼を言うが、退けろ」

「ああ、これは失礼」

 芳香が薄まり冷や汗は乾いた。手当を終え、渡したスエットに着替える彼を横目に、ずっしりと濡れそぼった上着を脱ぐ。

 薄い身体に、余る袖を持て余しながら、彼が思案に暮れている。

「信条として、受けた御恩はお返しする主義なのですけれど。お兄さん、女性以外に食指は動かないのでしょう?」

「ああ。あいにく、男を買う趣味は無い」

「では、労働力としては如何でしょう。使って良い食材さえご教示頂ければ、貴方の湯浴みが済むまでに晩御飯をお作り致しますよ」

「俺は自炊する質だ。食材も一週間はみて買い込んでいるし、そう細かく指定するのも気が引けるからいい」

「お掃除などは、……整然とされていらっしゃいますね」

「仮に散らかっていたとしても、初対面の人間に任せるようなことはしないな」

 察するに、家事特化なのか。提案を却下しきりなのも心苦しい。が、恩を返したいというのなら、こちらの要望はひとつきりだ。

「お前の生死に興味は無いが、俺に殺人の容疑がかからない程度生きてからにしてくれ」

 色町での立ち話は、風俗の客引きに観察されていた。

 悪天候ゆえ客入りのない勤務時間、男娼の客引き現場というものは丁度いい暇潰しであったらしい。その男娼が死んだとなれば、警察から真っ先に疑われるのは己のはずだ。

 自身に迷惑が掛からない範囲なら何処で死のうが構わない、と。公言するような男に(例え恩義があるとはいえ)、そうまで義理立てする意味も無いだろう。

 そんな話をしたところ、白い男がころころ笑った。

 他意は感じない。心の底から「楽しい」だけの、弾んだ声。

「人のい方でいらっしゃいますね。お兄さん」

「……その感想が出てくる意味が分からないな」

 話を聞いていないのか、阿呆あほうなのか、どっちだ。両方か。


 翌朝。洗い上がりの太陽に照らされた居間から、白い男は消えていた――

牧之まきの。……雪平ゆきひら牧之まきのさん? 聞いていないね?」

 血色の悪さなら、白磁といい勝負をしていた。……と、思う。

 珈琲の水面に、物憂いた瞳が揺れる。呼びかけに気付いた菫色すみれいろが、眼前の彼女をみとめて瞬いた。「悪い。何か言ってたか」「や、いいよ。今から話したいんだけど、かまわない?」「ああ、」

 大きな窓から陽が差し込む、喫茶店のひと席。やや過剰な冷房が行き届き、テーブル席の並ぶ店内には、向かい合う彼らのほかも多くの席が埋まっていた。忙しそうな足音が店内を廻る。

 焼き目がついてぽこぽこと沸きたつチーズ。掬ったひと匙に、つやつやとしたデミグラスソースがとろりと絡む。

「もうセックスはしない、個人的に会うのも無し。身体の関係があったことも秘密にする。そういう話だったよね? 私はいいよ」

 ランチメニューのミートドリアをふうふうと吹いて、彼女が黒髪を耳に掛ける。小さめの一口はまだ早――「熱っつ! ああ、でもお腹減った……」手で掴めそうな湯気の塊が幾つも、雪平の眼の前を彷徨うろついては、明るい店内に薄れていく。

「良くも悪くも振り回される恋愛より、毎日ここに帰って来たいと思えるような、穏やかな愛情が欲しかったんだって気付いただけ。あなたは本当に、身体と顔だけだったから。心まで満たして寄り添ってはくれない」

「納得してくれるなら助かる」身体だけという条件は、初めに合意した契約ではあるのだが。

「牧之さんのその、私の交友関係の一切に興味無い感じね。無駄にいらないとこまで踏み込んでこようとしないスタンス、私も気に入ってたよ。何だかんだ楽しかったし。手切れ金としてランチ代ふっかけてもいい?」

「俺が呼んだんだ。拒否されない限り会計は俺がもつし、好きに食べてくれ」

「ごちそうさま。その感じだとお店は順調か。良かっ……すみません。季節のパフェお願いします。はい。食べ終わってから。

 今日の別れ話ってもしかして、経営に集中したいから? 喫茶店だよね」

「まあ、……そうだな。まだ道楽まがいではあるんだが」

「別に音信不通でサヨナラされたって、包丁持ってカチコミになんて行かないのに。あ、……ただのお客としては行きたいかもな。それも駄目ってことになる?」

「そこまで強制するつもりは無いし、俺も構わない。出来れば、意見を聞かせてくれると助かる」彼女なら、店に来ても問題ないだろう。

 以前、喫茶店を見て回る趣味があるとも話していたから、有識者としての意見も得たい。

「いいよ。メニューにパフェを入れておいてね。店長さん」

「……努力はしよう」

 アップルマンゴーが賑やかに盛り付けられた器には、時折パイナップルも顔を覗かせる。目に眩しい色合いが爽やかで、来たる季節を先取りする鮮やかさだ。

 角切りの果肉がつやつやと照り、柔らかな音を残して彼女の口に消えていく。

「結構どこも甘いものって置いてるからさ。これだってものが作れないんなら、ドリンクだけに絞っちゃうのも……や、素人意見か。牧之さんの淹れてくれた珈琲、半端なお店より美味しかったから楽しみ」

「……今にもまして、趣味もいいところだったぞ。世辞は貰っておくが」

「お世辞じゃなく、案外さ。素人の趣味って、自分が好きで始めることでしょ? よくわかんないけど楽しいからやっちゃうって感じ、一種の才能だと思うよ。とことん極めちゃう人ってそんな気がする」

 飾りのない指が端末を取り出し、一枚の写真を見せてきた。

「『楽しくてつい』、らしいから」

 白のケーキと器には、青く透き通る鉱石が、花と咲いている。


 彼女を見送って会計を済ませる間に、次の相手と都合がついた。端末に短く返信を打ち込み、店員に会釈して店を出る。

 晴れた空を手で遮る。影で菫の瞳をすがめ、鈍痛をやり過ごして立ち止まる。まばたきを数度、重い瞼を開けた先に――また、眩しいものが目に入った。

 先ほど別れたばかりの背中、その隣。

 彼女を迎えた、白髪そいつは。

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