その夜、アミはアルテン語の本を眺めて、ノートに書きながら勉強していた。ようやく文字の形を覚えてきたが、まだ言葉の意味がわからない状態だった。単語の基本的な形を覚えようと、呪文でよく使われる言葉のリストを、書きながら覚えていく。

 声に出せないのがつらい。言語学習には、音声化は効率的だ。それができないと、耳から言葉が入らず、どうにもやりづらかった。

 湯吞からお茶を一口飲み、軽く腕、首、肩のストレッチをする。凝り固まった筋肉は、アミの動きに合わせて、ゴキゴキと重たい音を立てた。

 アミは、家の隙間から外を眺めた。囲いに阻まれて、通りまでは見えなかったが、トランの家の庭が見える。あまりきちんと手入れしているようには見えない。草がたくさん生えていて、大きめの飛び石を部分的に隠してしまっている。

「大丈夫だよ、すぐ戻るから」

「でも、トラン!」

 トランとアパラチカの会話が聞こえて、アミはそちらへ視線を投げる。トランが外出しようとしていた。

「どうしたんですか?」

「マリーナに会ってくるんだ。アパラチカとの契約を切る方法は、彼女しか知らないから」

「どんな人なんです?」

 アミは、なんとなく落ち着かない気分で尋ねる。

「一緒に来るかい?」

 アミは一瞬、どう反応していいかわからなかった。アパラチカが睨んでいるが、気にしても仕方ない。

「はい」

 アミはうなずいた。

「やめときなさいよ。足手まといになるわよ」

 アパラチカに指摘されるが、アミは気にしないで出ていく。服装は、トランと同様、崩れた和装だった。

 昼間ほど暑くないものの、相変わらず、薄い和装でちょうどいい気温だった。島の暗い夜を、無数の星が照らしている。

「どうして、こんな時間に行くんですか?」

「今しかないから」

 トランの返事は、簡潔で、それ以上の質問の隙を与えない。暗闇の中のヤシが、アミの目には幻想的に映る。向こう側に海も見えて、アミは自分がリゾートにでも来たような気分になる。トランの杖が、ときどき植物の葉っぱに触れ、さらさらと音を立てる。

 アミはなんとなく、トランの横顔を見る。暗闇の中で色黒の肌は目立たず、瞳だけが、はっきりと意思をもって輝いている。

 マリーナは村から外れた場所に住んでいるらしく、トランは途中で道を曲がり、村の中心部とは別の方向へ向かっていく。細くて暗い道に入ると、アミは少し不安になった。どこからでも動物、あるいは蛇なんかが出てきそうだった。背の高い木々が生い茂るその道は、アミがこれまでに島で歩いたどの道よりも、不気味だった。ヴァーミアでも、そんな場所に好んで住むだろうかと、アミは疑問に思う。

 フクロウらしい鳴き声が聞こえ、ガサガサという音が、少し離れた場所から聞こえてくる。動物の唸り声がして、アミは思わず、トランに近づいた。一瞬、トランの杖に触れてしまう。

「あ、ごめんなさい」

「大丈夫。そんなに怖い動物じゃないよ」

 トランはそう言ったが、アミの不安は完全には解消されなかった。

「犬は怖いかい?」

 アミは首を横に振る。

「じゃあ、気にしなくていいよ。似たようなもんさ」

「でも、野生のオオカミは怖いです……」

「そう?」

 トランは笑っているようだった。

「こんな場所を通らないといけない場所に住む人って、きっと怖いもの知らずなんでしょう?」

「さあ、僕にはよくわからないよ」

 トランの声は愉しげだった。まだ半分、笑いながらしゃべっているように聞こえる。

「まあ、一般人じゃないのは、確かだね」

 林を抜けた先に、数軒の民家があった。

「あそこだ」

 トランが指さした先に建っている家は、ほかの家とほとんど違わない。ただ、よほど恐れを知らない人なのか、ほかの家にある囲いのような、しっかりとした囲いはつくられていない。

「本当に怖いもの知らずみたいに見えますけど」

「そうだね」

 トランも今度は同意した。

 家の前でトランが呼びかける。出てきた人を見るなり、アミは一歩下がり、口元に手を当てていた。

 マリーナは、アミとさほど年齢の変わらない女性らしかった。少し吊り上がった眼をしているが、バランスの取れたきれいな顔立ちだ。海外から入ってきたらしい、ぴったりとしたワンピースを纏い、優雅に歩く姿は、アミにとっては羨ましい限りだった。トランを見たマリーナは、一瞬だけ目を吊り上げたが、堂々とした態度でトランに声をかける。

「何かご用ですの?」

「ええ。妖精との契約の破り方について、話をお伺いしたくて来たんです」

 トランも負けないくらい堂々としていた。

「どうぞ」

 女性に促されて、トランが先に中へ入る。

 案内された部屋には、デスクと棚、椅子があるだけで、ほとんど何もなかった。暗い中でははっきりと見えなかったが、マリーナの肌も、アミがこれまで見てきたアルテン人と同じように、褐色だった。

「お仕事は、何をされてるんですか?」

「アルテンの歴史と文化を研究しているのよ」

 マリーナは棚の本をあさりながら言った。アミはうなずいた。確かに、歴史や文化を知っている人なら、妖精との契約についても知っているかもしれないと思ったからだ。

「それで、妖精と契約をしたというのは、あなたなの?」

「ええ、ずいぶん前に」

 トランはうなずいた。アミはトランの表情を見て、複雑な気持ちになる。トランの瞳は、食い入るようにマリーナを見つめている。マリーナもそれを理解しているのか、堂々とした態度で滑らかな動きをする。

「契約に何か不都合な点でもあったんですの?」

「ええ、まあ。まだどっちとも言えないんですが」

 マリーナは一冊の本を手に取り、デスクの前に座った。本の目次を確認すると、マリーナはどんどんページをめくっていく。

「ありました。ここですね」

 トランは本を受け取った。アミも横からのぞいてみたが、何が書いてあるのか、よくわからなかった。

「妖精が自分の真名のもと、契約解除を求め、あなたから手に入れた骨を返します。あなたは求めに応じて、そこに書いてある呪文の構文を使って、身体から失った部分を戻すのです」

「メモを取っても構いませんか?」

「ええ、どうぞ」

 女性が和紙のような紙と、ペンとインクをトランにさし出す。トランはペンにインクを浸み込ませると、呪文らしき部分を書き写した。

「ありがとうございます。お手数かけました」

「いいえ」

「今度、夕食でもご一緒に、いかがです?」

 トランはマリーナの手を取ろうとする。マリーナはさっと手を下ろして立ち上がると、首を横に振った。

「いいえ、お断りしますわ、トランさん」

 マリーナは、はっきりと断ったが、トランはまだマリーナをじっと見つめていた。

「トランさん、行きますよ!」

 アミはトランの二の腕を軽くたたく。さすがに片脚のトランの腕を引っ張るわけにはいかなかったが、アミはさっさと腕を引っ張って帰りたい衝動に駆られていた。

「マリーナって、美人だよね」

 林の道を歩きながら、トランは興奮ぎみに言った。ドラッグでも使ったのかと皮肉を言ってやろうかと思ったが、アミはマリーナの罠の可能性を疑った。島の女性が魔法使いなら、男性の気を惹くのに、魔法を使わないなんて言いきれない。そうでなくても、自分が美人だと自覚している女性なら、気がないふりをして誘ってるのかもしれないんだ。

「あの、マリーナって、やっぱり魔法使いなんですか?」

「ん? ああ、いや。ちょっと違うな。彼女は魔性の女だよ」

 アミは、なんとなくマリーナに会わなければよかったと感じて、戸惑った。単に見た目がきれいなだけじゃないの。そう思うと、アミは惨めな気分になる。自分の顔のニキビが、あれ以来、まったく治っていないとわかっていたからだ。

 ヴァーミアに対する怒りが込み上げてきて、アミは拳を握った。皮膚に伸びた爪が食い込んで、アミはハッとする。

「トランさん、爪切りとか、あります?」

「ああ、家に帰ったらね」

 トランの声は、歌うような調子だ。どうすれば目を覚まさせられるだろうか。アミは思案する。帰ったら何かいたずらでもしようか。だが、ほとんど何も思いつかないうちに、周囲から聞こえてきた生きものの声に震えて、それどころではなくなってしまった。

「近くに蛇がいる」

 トランの態度が、急にまじめになる。蛇だと言われたので、アミは足元と木に注意しながら歩いた。

「そんなに怖がらないで。まだこっちには来てないよ」

 アミは走り出したくなったが、トランは走れない。近くにいたほうが安全だと考え直して、アミはどうにか留まった。トランは魔法使いだ。最初に蛇が出てきたときも、トランは追い払っていた。

 アミは深呼吸した。注意深く、周りの音に耳を傾ける。虫の羽音が聞こえる。それから、少し離れた場所で、シューッという音が聞こえる。犬のような生きものは、もう吠えてはいなかった。かさかさという葉音がずっと聞こえている。

 びくびくしつつも林を抜けると、アミはほっと息をついた。

 

 帰ると、アミはタオルケットを半分に切った。切った部分を処理して、ポンチョのように羽織ってみる。タオルケットの幅が短く、あまり長く縫い合わせてしまうと、腕が動かしにくくなってしまう。肩幅を合わせて、アミは一部だけを斜めに縫った。

 アミはすっかり疲れ切っていた。洗浄してもらうと、さっさと寝てしまう。寝具はクッションを並べてブランケットをかけるだけの簡単なものだったし、連日、緊張感でピリピリしていた。もともと神経質なアミには、しんどかった。

 バートは、トランから魔法の指導を受けていた。その声も、アミにとっては子守唄にしかならなかった。


 アミが目を覚ますと、トランはパイナップルとマンゴーを切ってくれた。パイナップルは酸っぱいが、マンゴーと一緒に食べるとおいしかった。

 トランは呪い以来、ココナッツに触ろうとしない。露骨に避けているのがわかって、アミはかえって、ココナッツが欲しくなってしまう。食事に出すだけで「感謝する」状況には陥らないのではないか、とアミは密かに思ったが、トランがそんな危険を冒せないのも、理解はできた。

「出かける前に、船の魔女除けを更新してこないと。勝手に入り込まれてたら、厄介だから」

 トランはそう言うと、さっさと出かけて行こうとする。

「待って、わたしもついていく!」

 アパラチカが追った。

 トランの家にバートと2人で取り残されたアミは、ゆっくり食事を終える。バートは離れたところで、朝の体操をしていた。

 出かけた2人がなかなか帰ってこないので、アミは手持ち無沙汰になってアルテン語のテキストを持ってくる。

「どれくらい進んだ?」

 バートが声をかけてきた。

「まだ単語を覚え始めたところ」

「……間に合うのかな……」

 バートは不安そうにアミを見つめる。

「声に出せないから、覚えづらいのよ」

「単語だけなら、大丈夫だよ。単語レベルで発動する魔法はないから。ちゃんと文章にしないと、効果はないんだ」

 アミはびっくりして顔を上げた。

「もっと早く相談すればよかった」

「もっと早く教えればよかったよ」

 アミはすぐに勉強に疲れてしまった。休んでも、完全に疲れが抜けきらない。

「荷物をまとめておこうか」

 バートに促され、アミはうなずいて立ち上がる。

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