死に損ないが明日を綴る
もぐら
第1話
暗い空。僅かな光をもたらす街灯の下で、俺は最後のタバコに火をつけた。
少し、肌寒い。
上着を羽織って来れば良かった。
その考えに、思わず苦笑する。
俺はこれから、事前に調べたビルに赴く。
警備が行き届いておらず、屋上への扉は、無用心にも、鍵が壊れたままになっているはずの、十八階建てのビルに。
ジーパンの尻ポケットには、自分の考えを束ねた封筒が一通、くしゃくしゃで入っている。
俺は、最後に、白い息を吐き出して、吸殻をドブに捨てた。
今宵、自分自身のことも、同様にするつもりである。
生まれてから、二十五年。
人並みの幸せを得ようと、もがき続けたが、どうも俺は他人との付き合い方が下手らしかった。
変人。それが、俺という人間に貼り付けられたレッテルだった。なんとか剥がそうとした。どうしても、剥がれなかった。
つまらない。
一人の夜は、寝苦しかった。
道を歩けば、人なんて大勢いるのに、俺は何故、こんなにも。
一つ、分かった事がある。
おそらく、誰もいないところで感じる孤独より、人混みの中で感じる孤独の方が、より深く、重く、怖い。
運命。それが、俺の前に大きくそびえていて、必死に足掻いても、びくともしない、そんな気がした。
裏路地を抜けて、大通りに出た。目的のビルは、もうすぐそこだ。
俺は、引きずるように歩を進めたのだが、俯いていたせいで、信号が灯す赤い光に気づかなかった。
瞬間。
夜を支配する静寂の中に、耳を裂くような音。
それが、車のクラクションだ、と分かった時には、俺の身体は宙に放り出されていた。
捨てようとした物が、奪われようとしている。
別段、命の失い方にこだわりはなかったのだが、俺はこれから断罪されるであろう運転手に、少しだけ同情した。
まぶたの向こうに光を感じ、身をよじって眩しさに耐える。
目を開こうにも、眼球に直接、その光を受ける勇気はない。
徐々に光が収まり、恐る恐る薄目を開ける。
ぼやけた視界の中、原色の物体が右往左往している。
右手で目を擦ろうとして、初めて俺は、首から下が動かない事に気付いた。
「なんだ」
何度も瞬きをする事で、視界の不明瞭さを取り除く。
俺の身体は、巨大な、白い繭で覆われていた。
毛虫かなんかが、成虫になる為に身を包む。繭。
そんな表現がぴったりだ。
もぞもぞと身体を動かしていると。
「おはようございます!」
さっきから右往左往していた原色の物体が、俺の目覚めに気づいたらしく、元気に挨拶してくる。
よく見ると、それは
「ピエロ」
小柄、小太り、白く塗った顔、目元には青い涙のペイント、唇は紅をぐるぐる塗ったように、はみ出して赤い。
ピエロはムッとして。
「僕はチャッピー!」と奇天烈な名を告げた。
そして、どうにも幼稚な口調で、淡々と語り出す。
「君は今、とんでもなく微妙なところに立ってるんだよ」
確かに。この世界がいくら広いと言っても、今現在、繭に包まれている人間は俺くらいなものだろう。
「君はね、自殺しようとしてビルに向かった」
少しだけ驚いた。何故かピエロは、俺のことを知っているらしい。
「これはね、すごくいけないことなんだ。どんな理由があっても、自殺なんてしちゃあいけない」
義務教育で学んだ道徳のようなことを言う。口調は幼児に話してるような、否、幼児が話してるようなものだが。
「だからね。ホントは、自殺なんてした人は、地獄に行くんだ」
ああ、やはり俺は死んだのか。
「でも、ちょっと事情がこじれちゃったから」
ビルから飛び降りようとしたが、車に跳ねられて死んだから。だろう。
「君は、悪くない。でも、運転手に迷惑をかけた事はちょっぴり悪い」
どんな理由があるにせよ。人を轢き殺したら、厳しく断罪されるものだ。それが、法律の、ある種、融通が効かないところでもある。
「さらにさらに、でも君はポケットに遺書を入れていた。だから、運転手は、そこまで悪くなくなった」
本当のところは、紛れもない事故だ。いくら俺が赤信号に気づかなかったとは言え、車が法定速度で走っていれば、又は素早くブレーキを踏んでいれば、致命傷とまではいかなかったかも知れない。本来であれば、運転手には重い刑罰が下るはずだったろう。しかし、俺の遺書が見つかった事により、自殺志願者が轢かれる為、故意に車の前へ飛び出した。そういった解釈がされ、運転手は減刑されるだろう。そう言う話らしい。
「だからね。君はすごく微妙、天国に行くのか、地獄に行くのか、今、みんなで話し合ってるところなの」
そう言うと、ピエロは、俺からは死角になっている地面から、一匹の仔猫を拾い上げた。
「ねー!神さま!」
神さま。そう呼ばれた仔猫は、にゃあ、と一鳴きすると、ピエロの顔を蹴り飛ばして逃げた。
「あ!神さま!待ってよ!」
ピエロは右往左往して仔猫を追いかける。
ぼんやりと、その様子を眺めていると、時間の経過で緩んだらしく、繭が、はらはらと解け、俺の身体に自由が戻ってきた。
ようやく、仔猫を再び捕らえたピエロは、無理矢理に頬擦りをしている。
神さま。
そんな名の仔猫は、ピエロからドボドボと注がれる無限の愛情を、とても迷惑そうに受け止めていた。
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