第3話:晋平の結婚とオイルショック
宮入晋平は、小さい時からの小遣いと給料からの貯金で200万円を貯め1972年2月4日20歳を超えたのでN証券八王子支店に証券口座を開いた。その後、三輪沙織さんと休日に映画を見に行ったり銀座に出かけたりし付き合った。
沙織さんに、君は、今後、どうすると聞くと大学職員として働きながら株投資で稼ぐと話した。やがて1972年、宮入は、10月12日、MB銀行を受験。1ケ月後の11月12日、内定の知らせが届いた。この頃、宮入晋平の妹の圭子は、中央大学経済学部の受験を考えた。
その後、1974年を迎え高尾の氷川神社初詣に行き、両親は、家内安全、晋平は仕事での成功を祈願。2月下旬、中央大学経済学部の受験し合格。家から35分かけて通うようになる。晋平は、4月からMB銀行八王子支店に勤務し、妹の圭子は、中央大学に通い始めた。
1972年6月、田中角栄の書いた「日本列島改造論」が話題となる。田中は、この「工業再配置と交通・情報通信の全国的ネットワークの形成をテコにして、人とカネとものの流れを巨大都市から地方に逆流させる 『地方分散』 を推進する事」を主旨とした事実上の政権公約を掲げた。
そして同年7月の総裁選で勝利し内閣総理大臣となった。田中が総理の座を射止めたこともあって当初91万部を売り上げ、年間第4位のベストセラーとなった。1968年に田中が自由民主党、都市政策調査会長として発表した「都市政策大綱」をベースとした。
その「都市政策大綱」には、後の国土事務次官、下河辺淳や自治官僚の武村正義らが深く関与していた。この影響で、日本のバブルの機運が醸成された。やがて1973年、その秋、第4次中東戦争の勃発に伴うアラブ産油国「OAPEC」の石油戦略で石油価格が高騰し世界経済に大きな衝撃を与えた。
オイル・ショックは、安価なアラブ原油に依存していた西側先進工業国の燃料不足、原料不足をもたらし生産が低下して急激な物価上昇を招いた。10月6日にエジプト軍とシリア軍が南北からイスラエル占領地を攻撃し第4次中東戦争が勃発。
しかし、イスラエル軍が反撃し10月8日には南ではカイロに迫り北部のゴラン高原を再占領。直ちに国連の調停作業が始まり10月23日に休戦協定が成立し、シナイ半島のイスラエルの占領、ゴラン高原には国連平和維持軍「PKF」の駐留が決定。
この間、サウジアラビアを初めとするアラブ諸国は、石油戦略を展開してイスラエル及び、その支持国に圧力をかけた。まず10月16日、石油輸出国機構「OPEC」の中東6カ国は原油の公示価格をバレル当たり約3ドルから5ドル強へ、一挙に70%も上げた。
このために「狂乱物価」と言われインフレが発生した事を第1次オイルショックと呼ぶ。その翌日、アラブ石油輸出国機構「OAPEC」は、アメリカとオランダなど親イスラエル諸国に対する石油輸出の禁止を宣言。この石油戦略を主導したのはサウジアラビアのファイサル国王とヤマニ石油相。
サウジアラビアは当時、親米的であったが、第3次中東戦争「1967年」以来のイスラエルのシナイ半島・ゴラン高原・ヨルダン川左岸などの占領が続いていることに対するアラブ側の不満が高まっていることを無視できずアラブ諸国の唯一の優位な力である産油国であることを生かした。
そしてイスラエルとアメリカに圧力をかけ有利な休戦条件に持ち込もうとした。10月23日に休戦協定が成立したがイスラエル軍の占領地からの撤退は実現しない。その後も石油戦略は継続され12月22日にはOPECの中東湾岸6カ国は74年1月1日から原油の公示価格を130%引き上げ。
バレル当たり11ドル65セントとすることを決定。この決定について国際石油資本「メジャーズ」には何の相談もなく、またそれ以降も原油価格でメジャーズは二度と相談されなかった。これによって発生した激しいインフレを抑えようと、日本では、日銀が、は公定歩合を9%まで引き上げた。
この金融引き締めによって景気が悪化し不況に陥ることになった。そして、1974年11月22日金曜、証券会社の担当者から宮入晋平に、三菱商事株が安いと言われ165円で1万株買いを指示し165万円で買え残金が35万円となった。
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