#119 最悪の切り札


「それは……さっき言ったとおり、だけど……」

「あの夫婦としての時間も過ごして欲しいってヤツ? 別に頼んでないし余計なお世話よ」

「……」


 弱々しい声音で星夏が反論するが、母親はにべもなく切り捨てる。

 紛れもない娘の気遣いを吐き捨てる物言いに、彼女は空色の瞳を悲しげに伏せた。


「ったく……行雄さんのお願いじゃなかったら、アンタなんか呼び戻したりしなかったわ」

「なら、アタシが行かないって認めてくれても……」

「うるさい。大体、彼氏を連れて来いなんて一言も言ってないでしょ。さっさと済ますはずが無駄に時間が掛かったじゃない。なんなの? 自分は幸せだって見せつけたいの? どーせガキ同士の付き合いなんて身体目当てに決まってるでしょ」

「ち、違う! こーたはそんなんじゃ──」

「あーも、ウザっ。どうだっていいわよ、アンタとその彼氏のことなんて」


 話し合い、なんて言っていたがそんな様子は微塵もない。

 あるのはただ不平不満をぶつけて反論も聞かない、会話とすら呼べない一方的な精神的DVだ。


 聞いているだけでも耳を塞ぎたくなるそれを、星夏は六年以上も曝されているのかと思うと胸が張り裂けそうだった。

 普通なら恨んでも不思議じゃないのに、家族としての情を懐き続ける彼女の健気さを肝心の母親は全く理解しようとしない。

 そのことが……無性に辛かった。


「ほら、今すぐ荷物をまとめて帰ってきなさい」

「だから、それは──」

「親の言うことを訊かないクセに口答えばっかするんじゃないわよ!」

「っ!」


 抵抗を続ける星夏に業を煮やした母親が手を振り上げた瞬間、反射的に飛び出て大事な彼女を守るように立ち塞がった。

 突然の乱入に母親は目を丸くして硬直するが、俺の顔を見てから途端に侮蔑の眼差しを浮かべる。

 清水さんと違って俺にどう見られようが気にしないようだ。


 こっちとしてはやりやすいから、むしろありがたい。


「こーた……」

「ッハ。親子の会話に割って入るとか礼儀がなってないわね」

「礼節より彼女を守る方が大事だと思ったんで」

「聞き耳立ててたなら、こっちの言いたいことくらい分かるでしょ?」

「分かりますけど、星夏がイヤだって言う以上俺が頷く訳にいかないんでお断りします」

「……」


 星夏の母親は暗に俺から星夏に言い聞かせるように告げるが、そんなつもりはないので一蹴した。

 断られたのが気に食わないからか、眉を顰めてこちらをジッと睨み付ける。


 当然その程度で怯むはずもなく、しばらく無言の沈黙が続く。


「……アンタのとこに星夏は行かせない」

「は?」


 その静寂を破ったのは俺だった。

 向けられると思っていなかったであろう言葉に、星夏の母親は訝しげな声を漏らすが構わずに続ける。


「家族になる以上、今日みたいな嘘はずっと続かない。そんなところに星夏を巻き込ませないって言ったんだよ」


 今までネグレクトを働いてまともに母親をやってこなかったクセに、言うことを訊かせるためだけに『親』を持ち出すこの人に心底腹が立っていた。

 親としての立場を挙げられた時、星夏がどれだけ傷付いたか分かろうともしない。

 そんな人の所へ、大事な彼女を行かせる真似が出来るはずないだろう。


「だから何? アンタがそれの面倒でも見るっていうの?」

「あぁそうだ」

「大人でもないクセに?」

「……金なら、ある」


 大人じゃない。

 その一言に少しだけ言葉を詰まらせるが、すぐに問題はないと返す。


 一人暮らしを始めてから……星夏が一緒に住むようになってからも、両親が遺した保険金にはほとんど手を付けていない。

 高校卒業までの学費くらいなら、俺の分を含めても余裕を持って払える。

 二人分の進学費用となると流石に厳しいが、星夏と一緒に居られるならなんとでもして見せるだけだ。

 今ここで母親を説得出来ないと、それすら叶わないのだから。


「──ッハ」


 だが星夏の母親は何がおかしいのか、バカにするように鼻で笑った。

 苛立ちを覚えるものの、冷静を保とうと努める。

 そして母親が告げた。






「──親の金を自分のモノみたいに言うなんてとんだ碌でなしじゃない。きっとアンタの親も同じようなクズなんでしょうね」


 ──。


 ──。


 ──……は?


 言われたことを理解した瞬間、目の前が真っ白に弾けた。


 俺のことは別にどう蔑もうが好きにすればいい。

 けれど……望まない事故で亡くなった二人をクズ呼ばわりしたことだけは許せなかった。

 星夏のことも含めて、もういい加減うんざりだ。


 プツンと糸が切れたような錯覚と同時に、星夏の母親に向かって拳を──。



「──こーた、ダメッ!」

「っ!」


 ──振るより早く、星夏が右腕にしがみ付いて止めた。


 悲鳴に近い大声と共に制止されたことで、俺はようやく自分が何をしようとしていたのかを察する。

 恐る恐る腕を下ろして星夏を見やると、彼女は今にも泣きそうな面持ちで俺を見ていた。


 もし止めてくれなかったら、間違いなく中学時代に逆戻りしていただろう。

 あのまま感情任せに殴ってしまえば、一番傷付いたのは星夏だったのかもしれない。


 寸前で踏み留まれた安堵をしたのも束の間だった。


「ハハッ。図星衝かれたから殴ろうなんて、本物のクズじゃない」

「……」


 軽薄な笑みを浮かべた星夏の母親が、先の俺の行動を詰る。

 暗に俺の両親も貶す物言いが癪に障るものの、さっきのこともあって言葉が出てこない。

 家族をバカにされても、何も言えない自分が心底腹立たしくて悔しかった。


「やめてお母さん! こーたのことを何も知らないのにそんなこと言わないで!」

「他人の家族のことなんて知ったことじゃないわよ。それよりアンタはいつまでくだらない意地張ってんの?」


 俺の代わって星夏が非難してくれたが、元より娘の言い分を聞かない母親には通じない。

 それどころか自分の要求を飲まない彼女に苛立っていた。


「くだらないって……」

「いい加減にしないとこっちにも考えはあるんだから」


 そう言いながら星夏の母親が取り出したのはスマホだった。

 何をするつもりなのか訝しむ俺達に、母親はゆっくりと口を開く。






「──未成年者誘拐罪でアンタの彼氏を通報するわよ」

「っ!」

「……ぇ」


 告げられた内容に、俺と星夏は揃って絶句してしまう。

 茫然とする俺達の反応が面白いのか、星夏の母親はヘラヘラと嗤いながらスマホを見せつけている。

 まるで銃でも突き付けられたかのように、身体が硬直して動けなかった。


「こ、こーたはアタシを誘拐なんてしてないよ……?」

「でもアンタは基本的にウチじゃなくてソイツの家で暮らしてるんでしょ? 誘拐って無理矢理攫うだけじゃなくて、家に住ませるとか事実的支配下に置いた時点で成立するのよ」

「み、未成年なのはこーたも同じだし、そもそもアタシ達は恋人で──」

「付き合ってても親の私が認めなかったら犯罪になるに決まってるじゃない。もちろん交際は認めない。だから今のソイツは通報されてないだけの犯罪者ってワケ」

「なに、それ……」


 弱々しく反論する星夏に、母親は淡々と退路を塞いでいった。

 挙げ句の果てに俺達の交際を認めないと言われ、星夏は目に涙を浮かべて立ち尽くしてしまう。


 状況は考え得る限りの中でも一番最悪だった。

 例え相手が俺でなくても、向こうはこの事を持ち出す気だったのだろう。


 どんなにイヤでも戸籍上の星夏の母親はこの人しかいない。

 その母親がどれだけネグレクトや虐待を繰り返しても、星夏の監護権や保護法益はあっちのモノだ。

 未成年の俺や彼女にそれを覆せるだけの力はない。


「ねぇ。通報されたくないならどうすれば良いのか分かるわよね?」

「ぁ……」


 自らの無力さに打ち拉がれている心身に、星夏の母親から追い討ちを受ける。

 もはや脅迫と変わらない言い分を伝えられた星夏は、青ざめた表情のままか細い声を漏らす。


 何せ母親の機嫌一つで俺は簡単に逮捕されてしまうからだ。

 それは首に爆弾を仕掛けられたのと同じだった。


 どう足掻こうとも行き詰まる袋小路を前に、隣に居るはずの星夏の存在感がどんどん遠退いて行くような錯覚を懐いてしまう。

 イヤだ、止めてくれ、星夏を連れていかないでほしい。

 そう制止することすら出来ない自分の無力さから、どうしようもない絶望感に苛まれるしかなくて……。


 止められないまま、星夏は顔を俯かせながら母親の元へ歩み寄ってしまう。


「──か、帰るから……こーたを通報、しないで……」


 そして声を震わせて懇願すると同時に、母親の要求を呑むことを選んだ。


 いいや、選ばせてしまった。

 俺を犯罪者にしないために自分を切り捨てる方法を。

 そんな選択をさせたことに、罪悪感と自己嫌悪から爪が食い込む程に拳を握り絞めることしか出来なかった。 


 こんなことしか出来ない自分が、途轍もなく矮小なのだと突き付けられる。


 そうして折れた星夏に対し、母親は煩わしさを隠さない大きなため息をつきながらスマホを下ろした。


「はぁ~。もっと早く言いなさいよ。じゃ、行雄さんに報告して会計するから、さっさと荷物まとめて家に来なさい」

「ぅ、ん……」


 これから共に住むはずの娘を一瞥しないまま、言いたいことだけ言って母親は店の中へ戻っていった。


「……」

「……」


 星夏と二人きりになっても会話をする気が全く起きない。

 何か口にしてしまえば後悔ばかりが流れ出てしまいそうで、嗚咽おえつを押し殺して泣いている彼女に寄り添うことすら躊躇ってしまう。


 いっそ土砂降りの雨でも降ってくれたら、こんな鬱屈な気持ちも少しは流せたかもしれない。

 けれども、空はそんな逃避も許さないかのように晴れ晴れとした陽射しを向けて来るのだった……。

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