第74話影
危ないものに近づいてはいけません。
子供の頃に言われたであろう言葉が僕の脳裏に浮かんだ。
だらりとうずくまり命を感じさせない邪神の憑依体。
これは誰がどう見ても危ないものに分類するだろう。
「どうしようこれ」
僕の口から漏れたのは力ない疑問だ。説明書が欲しい。
濃縮された影の前で僕は途方に暮れて天を仰いだ。無論、岩の天井が遮っているのだが。
「試しに触れてみなされ」
「触れても大丈夫じゃなさそうな気がしますけど」
ようやく落ち着きを取り戻したらしいサウロから投げやりな言葉が飛んできた。
塩分過多な対応も親身にあれこれ言われるよりはマシだと思える。何せ、相手は格の高い邪悪な魔術師だ。
「どうされた?」
「いえ」
動かない僕にサウロが触るように促した。残念ながら断る理由はない。
近付きたくないからとかサウロ言えるはずもなく、僕は恐る恐る手を伸ばす他なかった。
冷たい、というのが最初の感想だ。形の曖昧な体のはずだと言うのに触れた手先には死の冷たさが伝わった。
「何もないのか?」
焦れたサウロが僕を急かすがわからないことはわからないのだ。
……嘘をついた。本当はとうにわかっていた。動かない影の塊の中で唯一不気味な存在感を放つ心臓。
恐らくこの心臓こそが鍵なんだろう。人型の内側影の渦巻く体内に左手を入れた。
冷たい。体温を奪われる恐ろしい低温。その表現ですら生温い。
普通は温度に思念はない。だがこの冷たさは違う。
負の想念が粘体になった究極の有害物質は邪神の使徒たる僕にまで影響を及ぼす。
スライム状の体を掻き分けて進む僕の左手がついに心臓の付近まで到達した。
ゴクリ、と唾を飲む音が聞こえる。それは誰が立てた音だっただろうか。隣で目を爛々と輝かせるサウロだったかもしれないし、他ならぬ僕かもしれない。
一拍置いて左手を伸ばした。心臓の奇妙な拍動と不気味な触り心地が直に伝わり、その瞬間だ。
ブワりと粘体が沸いた。咄嗟に引っ込めようとした左手は固定されて動かない。
「なっ!」
僅かな時間を逃した代価に僕の左腕を粘体が遡ってくる。
躊躇した時間はたった一瞬だ。
「
高速で詠唱を済ませた僕が放った呪文は極限の状態にあって普段通りの速さで生じる。
半透明が粘体に突き刺さり、あっさりと掻き消えた。
「そんな!」
「やめ給えよ客人。抵抗は無駄じゃ。我らの儚い抗いがかの方々にどれほど無意味か力の一端を見たお主ならばわかるだろう」
「そんなこと言われても」
粘体に侵蝕されて同じことが言えるか。と返そうとしてから相手の精神性に思い至った。
案外喜ぶかもしれない。
思考を明後日の方向に逃避させた僕は身を包む極寒の邪気に肩を縮め——繋がった。
本能レベルで理解できる。僕は影と繋がっていた。電話が繋がった時のように唐突に、そして遥かに確固とした繋がりが築かれた。
雨水が落ちるように何の抵抗もなく影が滑り落ちる。
「思ったより痛くもなんともなかったな」
もっとこう、ひりつくような痛みに襲われる、とかまた脳を潰されるとか覚悟していたのに。
「お客人」
サウロの似合わぬ深刻な声音に僕は天井に向けていた視線をサウロに移した。
わかっていた。流石に現実逃避が過ぎる。
「何か?」
「左腕が」
簡潔な言葉に切迫した事態を知らされた僕は渋々左腕に視線を落とし、うめいた。
墨でも塗りたかったかのように左腕が黒一色で染まっていた。いや、なお悪い。
影の本体のように表面が不気味に蠢いている。痛みがないことが逆に恐ろしかった。
痛みどころか前よりも調子がいい。スムーズに動く腕は傷を負う前のようだ。
もういい。訳がわからん。
「行きますよ。我々は戦いの場に戻らなければ」
「わかっているとも」
さあ、仕切り直しだ。歩き出した僕の後ろを影のように怪物が従っていた。
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