第73話金の斧か銀の斧か

「正式な手段で顕現したのは久しぶりだけどやっぱりいいものだね。矮小なる者どもの世界は」


 人型の影がそう言った。吸い込まれそうなほど柔らかなのに一切の温度を感じない恐ろしい声だ。


 怖かった。この邪神という奴が僕はどうしようもなく怖かった。


「君が例の使徒かな?」


 問いかけともつかない声に僕は無言で恭しく腰を屈めた。屈辱だ。


 邪神などと言う凡そ忌々しいこの世界の中で最もクソ忌々しいものに跪かねばならない。口を開く勇気もない。


 どこまでも弱い自分を憎んだ。


「そうかい。……それで君が僕を呼んだんだね」


 質問というより確認と言った風情で邪神が口を開いた。


 サウロが歓喜に見を震わせる。気持ち悪い。


「は、私めがお呼び奉りましたサウロでございます」


 いっそ惨めなほどへりくだったサウロ。だがその爛々と大地を飲み込まんばかりの欲望に輝く瞳が惨めさよりも狂気を感じさせる。


「そうか、そうか。君が、ねぇ」


 値踏みするように見つめる邪神にサウロは無言で深々と頭を垂れる。


 闇の塊なのに視線があるとはこれいかに。


 邪神はサウロへと滑るように近づく。滑るようにというか実際滑っていた。


 邪神は歩かない。走りもしない。幽霊のように浮遊するでもなく地面を滑る。


 初期のネコ型ロボットに近いかもしれない。コミカルさに致命的な不足があるが。


「力が欲しいのかい」


 僕の現実逃避じみた思考を無視して邪神はサウロに語りかける。


 邪神のから湧き出る濃い瘴気がサウロを包んでいた。というか「力が欲しいだろう」なんてまるきり邪神のセリフだ。ああ、コイツ邪神だった!


「はい」


「なるほどねぇ。言ってみなよ。欲しいものを。生憎顕現するための素体が弱いからそう長くはいられないんだ」


 恍惚とした表情で肯定するサウロに邪神は時間制限を突きつけた。


 朗報だ。これ以後永遠に邪神といるなんて地獄以外の何者でもない。


「では……どうかどうか!私に魔導の深淵へと至る力を!」


「クック、中々強欲な奴だね。いいよその強欲を肯定しよう」


 そう言って邪神は自分の内側に手を伸ばし毛の生えた心臓を握る。


 ぬるりと心臓から引っ張り出したのは一冊の古ぼけた本。


 表紙は擦り切れていてほとんど破れかかっている。黄色いシミが今まで眺めてきたであろう気が遠くなるほど長い年月を教えてくれた。


 ついたままの膝をするように歩いてサウロは邪神に近づく。無造作に差し出された本を聖書でも扱うように押し頂いた。


「開いても?」


「構わないよ」


 興奮のあまり音程を外した声でサウロが邪神に許可を求めた。


 快諾した邪神に深々と頭を下げてからページをめくり出す。


 狂喜した表情でページを捲るサウロへ邪神は薄寒い視線を送っていた。好奇心と悪意とが入り混じり形容し難い邪悪さを醸し出す。


「あの本は……」


 水の滴り落ちるお世辞にも清潔とは言えない洞窟で長くは持たないだろう。


 そういう趣旨のことを続けようとした僕の言葉を邪神は指を振って遮った。


「そんな訳ないだろう。あれは君たちの言うところのアル=アジフ。最も強力な魔導書に限りなく近い本物の宝物だよ」


 ……はぁ、そうですか。正直その辺の知識は森神官も教えてくれなかったのでどうも思わない。


「そうかい?なら本題に入ろう」


「はい。……物凄くナチュラルに心読みますね」


 僕の諦観を含んだ抗議。無慈悲な邪神はものともしていないが。


 粘体の顔に例の薄気味悪い微笑を形作りながら邪神は話を続けた。


「君の望みはなんだい?」


「聞いてくれるんですか?」


「そりゃ、儀式の成功には闇の眷属の血が必要不可欠だったからね。君の果たした役割は小さくない。さあ、言ってみなよ。世界の半分は上げられないけど大抵の願いは叶えられるよ」


「急に言われても」


 諦めを知っている僕は普段から荒唐無稽な願望は抱かないことにしている。


 いきなり望みを言えと命じられてもぽんと浮かびはしない。


「死者の復活は可能ですか?」


「七日以内ならね」


 ならば森神官の復活は不可能か。心に去就する感傷を僕は歯を食いしばって追い出した。


 少なくとも邪神の前で心を乱してはならない。それくらいの分別はある。


「良いのかい?君を元の世界に戻すこともできるんだよ?」


「それは本当ですか⁈」


 笑顔を作って頷く邪神。にわかには信じ難いことだが。なるほど呼び出せるなら送り返すことも可能なはず。


 家に帰れる。


 寂しい場所だった。満たされない場所だった。


 だが暖かく平和で穏やかな家。僕の心を癒してくれる唯一の安息の地。


 家だ。僕以外誰もおらず誰にも傷つけれず誰も殺す必要がない安らぎの地。


 僕はそこまで考えてふと自分の記憶を探った。帰るべき家など僕にあっただろうか。


 思いつくのは——不本意ながらまことに不本意ながら——少々ゴブリンの臭いがする我が住まいのみ。


 前世の家など忘れてしまった。忘れさせられてしまった。この邪神にだ。


 そこで僕はようやく我に返る。この邪神が、人を嘲弄し嬲ることしか頭にない本物の許されざる存在が僕の願いなど叶えるはずがない。


「本当に帰らなくていいの?」


「ええ、そこはもう僕の居場所じゃないでしょう」


 僕はこの世界で片をつけなければならない。どんな結果であろうとだ。


 あとほら僕は死亡扱いされて土地には新しい持ち主がいるかもしれない。

 

 どちらにせよあちらは僕の属する場所ではなくなった。


「帰りたくないんだ?」


「どうせ帰してくれなかったでしょう?」


「そんなことないよ。ねぇ本当に帰らないでいいの?」


 ぬるりと蠢いきながら邪神の顔が僕に近づく。


 呼吸などしていないはずなのに死人の体のように冷たい息吹が顔を襲う。


「帰らなくてもいいです」


「ふーん。そうかそれも面白いね」


 邪神がするりと僕の顔から顔を離した。


 凍えるような寒気から解放された僕は小さくえづいた。


 邪神に近づくのは最悪の気分だ。


「そうそう。疑っていたみたいだけど本当に君のことを返す気でいたよ」


 嫌に爽やかな笑みの邪神を幻視する。呪われそうだ。


「もっとも、人間の君をとは言っていないけどね」


 ……おいおい。おいおいおい。コイツ僕のことをゴブリンにしたままで地球に送るつもりだったのかよ。


 そんなことをしたら実験動物まで真っ逆さまだぞ。


「まあ、そんなことは置いておいて」


「私の人生、ゴブ生に直結する重要なことなんですけど⁈」


「それで君への報酬だけど」


 強引に話を持っていく邪神。僕の人生をそんなこと扱いするな。


「この体が報酬さ!」


「は?」


「あぁ〜、変なこと考えたね?」


「いえ微塵も」


 即答であった。自分でも感心するほど食い気味な返答。


 そこらのクイズ大会じゃお目にかかれない名人級の早業だ。——クイズ大会の話はやめよう。


 とにかく僕は性別どころか生物かすらわからない邪悪なコーヒーゼリーに発情するほど飢えてない。


「冗談だよ。この体の支配権を君に上げる。便利だよ。幽鬼でも憑かせたら使い魔としても有能になる」


「ちょっと待ってください。どういうことですか?」


「ある程度自律可能な無人兵器と思えばいいよ」


 ふむ。星系間の戦争を描いた傑作映画のバトルドロイドみたいなものか。


 あそこまで弱いと処理に困る。


「壊しても構いませんか?」


「知らないよ。お陰様で今度からはもっと気軽に下界に降りられるからね。この体は正直それほど重要じゃない。あそこのコボルトにでも聞いたら」


 興味なさげな邪神の声。


 楽に出られるようになるのか。僕は自分が被るであろう被害を思い顔を顰めた。


 せめてこの御神体とやらは使い潰してやろう。それくらいしなければ割に合わない。


「よし。ならいいかな。じゃあね」


「はっ」


「いいかな。使徒君。再会の時は近い。心して待つがいいよ」

 

 絶対に嫌だ。心からの絶叫を聞いたか聞いていないか。邪神はニヤリと狂気的な笑みを浮かべてから消えた。


 御神体とやらは電池の切れたロボットのように項垂れて動かなくなる。


 さて、これどうやって動かすんだろう。

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