第4幕 『デストリエルの巫女』

 耳を打ったのは、静かなピアノの旋律だった。


 はた、と唯祈いのりは足を止める。洋館の中に静かに響き渡る、繊細な旋律。聞き覚えがあった。これは……ベートーヴェンのピアノソナタ第14番『月光』。


(もう、そこまで到達していただなんて……急がないと)


 吊り天井の応接間に、静かな靴音を響かせる。それは鳴り響く『月光』の中に溶けて、消えていった。仕掛けを警戒して慎重に進むけれど、それらは対戦相手によってすべて解除されているのか、何かが起こる気配はない。


(……漁夫の利を得てしまうみたいで、なんだか心苦しい……けど、勝てなければ元も子もないもの。仕方ない、そう、仕方ないの……)


 無理やりに自分を納得させながら、彼女は足を進める。と、鳴り響く楽曲は唐突に激しさを帯びた。スケルツォ、もしくはメヌエット……第二楽章が始まった。急かすように鳴り響く音楽に、唯祈は応接間を駆ける足を速める。


(早く、行かないと――……)

「――ッ!?」


 物陰から、何かが飛び出す気配。反射的に両手に持った剣を構え直し、神気を宿して桜色に輝かせる。強く踏み込み、一閃。朱色と桜色の刀は灰色のゾンビの首を切り離し、先程まで隠れていた物陰に叩きつけられた。


(……この先に対戦相手がいるのは確実。ここまで来たら穏便な解決は望めない……)


 両手の刀を握り直し、凛とした大きな瞳を瞬かせる。


(倒すしかない)


 朱色の刀から、桜色の光を抜かぬまま。

 ピアノがあると思われる部屋の扉に手をかけ、勢いよく開け放つ。



 派手な音を立て、サロンの扉が開いた。思わずゆいの手元が狂い、ピアノの鍵盤が滅茶苦茶な不協和音を立てた。弾かれたように顔を上げ、開け放たれた扉の先に立つ少女を見つめる。


 長い黒髪。凛と光る大きな瞳。黒いラバースーツのような特殊繊維に包まれた、バランスの良い身体。そして、両手に握られた朱色の直刀。


(……対戦相手はこの娘、なのね。しかも、明らかに強い……)


 椅子から立ち上がり、少女の正面へと歩き出す。ツインテールにされた金髪が揺れ、ゴシックロリィタの裾がひらめく。彼女はマリンブルーの瞳を少女に向け、ゴシックロリィタの裾をそっと持ち上げて礼をした。


「初めまして、ね。私は『マチュア・デストロイド・カンパニー』代表取締役社長、高天原たかまがはらゆい。あなたの対戦相手よ。短い間だけど、よろしくね」


 その名乗りに、黒髪の少女はわずかに目を見開く。目の前の少女は、おそらく自分と大して変わらない年齢だろう。そんな彼女が一会社の社長? そう簡単に信じられるはずがない。

 そして、その隙を唯は見逃さなかった。素早く拳銃を抜き放ち、構える。流れるような動作で引き金に指をあて、発砲した。


「――ッ!?」


 地を軽く蹴って後退しつつ、両手に持った朱色の刀で銃弾を相殺する。その首筋に冷や汗が流れ、口元が緊張に強張った。退魔士としては、これが初戦。訓練とは、違うのだ。


「……へぇ?」


 対し、唯は軽く片眉を跳ね上げた。その口元が緩く弧を描く。少女は油断なく刀を構えたまま、武士のように名乗りを上げる。


「……ユイ、ね。私は鹿島かしま唯祈いのり。月臣学園の一年生で、退魔士見習いよ。こちらこそ、よろしく」


「ええ」


 ゆいが端的に言い放つと同時、両側から二体の灰色が飛び出した。同時に唯祈いのりは朱色の刀を槍に変化させ、両側のゾンビを切り裂いた。二つの灰色の頭が飛び、胴体は糸が切れたように倒れ伏す。同時にゆいは深く微笑みを浮かべ――尺を持つ女王のように、両腕を広げた。


「ふふ、やるじゃない……気に入ったわ。鹿島かしま唯祈いのり。その名前、覚えていてあげる」


 刹那、唯祈いのりの首筋に走る違和感。彼女は実戦経験は浅いけれど、それでも名門退魔士一族の血が流れている。その血が、本能が、告げていた。


(この人――普通じゃない!)


 反射的に緋色の槍を刀状に戻し、片方を前方に向けて構える。ゆいの全身が金色の鱗粉を纏いはじめ――同時、唯祈いのりは刀を持った手首をくるりと回した。


「さぁ、ひれ伏しなさい! 『デストリエルの巫女』の名のもとに!」

「――破魔鏡ッ!」


 金色の天使の幻影が現れるのと、不可視の反転磁場が発生するのは同時だった。刹那、ゆいはマリンブルーの瞳を見開く。目の前の少女には『デストリエルの巫女』の権能が効いている気配がない。大きな瞳は、今も変わらず凛とした光を宿している。


「まさか……貫通できない!?」

「舐めないでよねッ!」


 反転磁場を維持したまま、踏み込む。唯祈いのりはもう片方の刀を振り上げ、桜色の光をそっと抜いた。直刀を逆手に構え、ゆいの首筋を狙う。彼女は回避行動を取ろうとするけれど、間に合わなくて。それでも――と、ギリギリで反転磁場を維持している方の刀に手を伸ばす。


「――ッ!?」


 掌底で刀を叩き落とそうと、伸ばした手。しかし、その手のひらは返す刀で刺し貫かれた。同時に一瞬だけ解除された反転磁場、それこそがゆいの狙い。一瞬の隙に『デストリエルの巫女』の権能をねじ込み、マリンブルーの瞳を青い雷のように光らせる。


「――やめなさいッ!」

「……ッ!」


 首に衝撃が走る寸前で、朱色の刀が止まった。唯祈いのりの大きな瞳が、動揺したように揺れる。ニッ、と深く微笑み、ゆいは動揺したような表情を見つめながら言い放つ。その背後に再び現れるのは、金色の天使の幻影。


「戦闘経験の浅さが仇になったわね……そこで大人しくしてなさい」

「……」


 震えながら、唯祈いのりはゆっくりと膝を突く。その瞳が悔しそうに揺れ、抵抗するようにその足が細かく震える。それを満足げに眺めながら、唯は悠々とピアノの前へと歩き出すのだった。



「……ふぅん。これが例のワクチンってわけね」


 地下の研究室。棚に置かれた小瓶を手に取り、その中の透明な液体を検分する。ラベルに記されているのは、英語のようで英語ではない言語。単語一つ一つのスペルは同じだが、明らかに語順などの文法が違う。しかし、それをフィーリングで解読し、唯はふっと笑みを深めた。


鹿島かしま唯祈いのり……なかなか強かったわね。この私をもってしても危なかったわ……ふふ、気に入った。持ち帰って社員にしたいけど、流石に怒られるかしら?」


 相手の動きは封じた。身体の自由も、頭の自由も奪った。『デストリエルの巫女』の権能は、人をその名のもとに屈服させるもの。反抗しようとする思考回路は破壊され、あとにはただ吹き荒れるような悔しさと絶望だけが残る。

 彼女はまだ何か、切札を隠している感じがした。しかし、それを使おうという思考に至ることはない。


(だけど――もし再戦が叶えば、化けるかもしれないわ)


 彼女に思いをはせながらも、ゆいはそっと口元を歪める。


「ふふ……見ていますか、デストリエル様?」


 ワクチンを両手で握り、マリンブルーの瞳をそっと閉じる。


「……この勝利……あなた様に、捧げます」


【結果】

【勝利条件達成により、高天原たかまがはらゆいの勝利とする】

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