セミの長すぎる夏

久賀広一

「おおっす」


「・・・ん?」

一匹の熊蝉クマゼミが、仲間の鳴いていた木に飛んできて、爪を立てた。

「しばらくだねえ・・・。あんた、クヌギ3丁目の、根っこの所にずっといた、蝉谷せみたにさんだろう?」

「ああ! そういうあんたは、すぐそばの木の養分吸いすぎて、まるまると太ってた、熊山くまやまさんかい!」


つくつくボーシ! ウイヨース!と蝉谷はあいさつしていた。

大きな体をしたクマゼミは、しかし返事を返すこともできず、盛大なため息をついている。


「いったい今日は、私たちが羽化して何日目になるんだろうねえ・・・」

シャワシャワと咳をしながら、熊山は話しかけている。

「人間はよく、一週間でセミは死ぬ、なんて言うけど、野生じゃあ一ヶ月は生きて当たり前じゃないか。私なんてもう、3日でシャンシャン言い飽きちゃったよ」

木に抱きつくようにもたれて、熊山はへばってしまった。

蝉谷はそれを、苦笑するように見つめている。


ーー友人を元気づけるには、どうすればいいんだろうか。

「あっ、そう言えばさあ・・・いつか幼いころ、ちょっと離れた場所にあるクワの根っこを吸ってたヒグラシさんは、森でも有名な美セミと交尾したらしいよ! 熊山さんも、一生懸命やってればいいことあるって!」


「・・・ええ? 交尾だってぇ・・・?」

古い友人の言葉に、熊山は目を細めていった。

「それなら私はもう、3体とすませちゃったんだよ。一度も交尾できないセミが4割近くいるっていうから、私はよくやった方だと思うよ?」

でもねえ・・・と熊山は蝉谷を見つめた。


だから何だっていうんだろう。

良いメスを見つけて、交尾して子孫を増やす。美しい相手を手に入れるために、努力して己を高める。

幼虫ではモグラに襲われ、成虫では鳥や人にやられるのが分かっていて、何の進化が必要なんだろうね。

ふっ・・・と彼は遠い目をしていた。


蝉谷はあわてて、そのすさんでいく彼をフォローしようとする。

「熊山さん、人間だって結局、いちばん大事なのは強さやお金なんだよ。でもそれじゃあ、生き残ることはできても、同じことをくり返すだけでずっとバカなままだ」

・・・いいかい? と蝉谷は友人を強く睨んだ。


「本当に大事なのは、目の前の相手に勝って雄叫おたけびをあげることじゃない。その世界をより良く、鮮やかなものに変えていったのは、いつだって他者のことを考えられる人たちなんだ。・・・彼らが、そのとき恵まれた勝利者や成功者に陰影を与え、誰にも知られずに、努力を土に埋めていった。その大地は、勝利者のために用意されたものじゃない。みんなが、僕たちが思いを次世代に託した、命の遺産なんだ・・・!」

「命・・・」

クマゼミは絶句していた。


「そう、素晴らしいものを残していった人々は、みな形は違っても、自分ではない誰かへの愛を埋めていった。次の世代のために、それが世界の益になることを信じて・・・!」

「俺のセックスは、間違っていたのか ーー!」

クマゼミは悟った。

この友人は、なんてことを言ったのだろう。


自分がすでに卵を産ませたメスは、不完全なままの愛を落としていくことになってしまったではないか・・・!

「大丈夫だよ、熊山さん」

それでも蝉谷は、笑っている。


みんな、その時その時に、完璧な行動ができるわけじゃない。

君がこれから鳴き、抱くメスにはその思いを込めればいいだけだよ。

「この、他者への溢れる愛をか・・・」

熊山は自分の胸を見るようにつぶやいていた。

ーーきっと、これまでの後悔のぶんも、心は揺れてしまうかもしれない。

しかし、今までよりずっと相手を大切にすることはできるはずだ。


お礼を言おうとして、熊山は友人の方を振り返っていた。

「蝉谷・・・?」

だが彼は、もうそれほどはっきりした声で返事をすることができなかったのである。

自分もそうだが、すでに彼にも、長い時間が残されているとは言えないのだ。

「3日か、それとも4日か・・・」

二匹で笑いあいながら、蝉たちは飛び別れた。

きっと、死ぬときはいっそうの寂しさを味わうのだろう。

誰かと一緒にいた夜も、孤独だった夜も、その寂しさをあたためてはくれないのかもしれない。


・・・だが、友人は教えてくれた。自分の死は愛になると。

世界を思う限り、この世に無駄な命なんて、一つもないのだ。


「ーー!!」

セミたちは、新たな宿り木を見つけ、未来のためにその声をふるわせることを思い、空に消えていった。



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