第6話 海運王
ユキはエヴァ夫人から、ぜひ合わせたい方が居ると言われた。カンタクジノ家と同族であるシェルバン・カンタクジノ氏の館に行く事になった。
ユキとエヴァ夫人は馬車に乗り、バルク達傭兵軍団は護衛をして早朝に出立した。その日の夕刻には着いたのだが、跳ね橋が降りている。ユキ達は荘厳な館に案内された。
ただ、その館を見たユキは何か分からない違和感を感じた。何なのか……
その館は山の頂に有る城だった。
こんな辺鄙な山城に……
シェルバン・カンタクジノは、夕食の宴でユキを見た。隣に座るエヴァ夫人がユキに話し掛ける。
「私はシェルバン・カンタクジノ様を後援したいのです」
「…………」
「この方は将来のワラキア公にふさわしい方だと思っています」
「エヴァさんがそう仰るのでしたら……」
現在のワラキア公はジョージ・デュカスで、王位を取り戻すために多額の負債を抱えていたのを既にユキが援助している。
ユキは自身の吹っ切れない気持ちを抑えて、エヴァ夫人に同意した。
シェルバン・カンタクジノはユキの優雅で品の有る仕草に魅了されたようだ。さらにエヴァ夫人と同様、自分を後援したいと言われ静かな笑顔で答えた。
だが、そのシェルバン・カンタクジノと目を合わせた時、ほんの一瞬、ユキは首筋を冷気のようなものが流れるのを感じた。
翌朝はバルク達と共に城から帰る支度を始める。静かな山城の森に朝日が当り、小鳥が鳴いている。
「エヴァさん、帰る前にシェルバン様にご挨拶をしたいのですが」
「シェルバン様は、用が有り今朝はお会い出来ず失礼しますとの事でした」
「…………」
昨夜の内に城を発たれたとの事だった。
十五世紀のヴェネツィアの人口が約十数万人とされている時、その内船の乗員は三万六千人という記録がある。三人に一人は船乗りだと、この時代の航路依存度の高さが伺える。乗組員が百人を超える大型帆船から、数人規模の小型船まで数千もの大小の船が地中海を航行していたのだ。なお外洋まで航海できる大型帆船は数百隻であった。
ユキは帆船の建造に取り掛かっていた。スペインとポルトガル、さらにはイングランドにも建造を依頼していたのだ。コンスタンチノープルでの戦争特需で得た巨万の富を、惜しげもなくつぎ込んで帆船を注文した。
「ヴェネツィアの商人に連なる貴女がなぜ、西欧の造船所になど注文するのですか?」
「海運界をリードする地位は、もうヴェネツィアからオランダアやイングランドに移っています」
「…………」
「それに発見された新大陸を思えば、これからもっと沢山の船と情報が必要になるでしょう。ベネチアや地中海にこだわっていては駄目です」
船はいくら造っても造り過ぎる事は無いと言うのだ。
次にユキはオランダに海運会社を設立する為の準備を始めた。ヴェネツィアは地中海の奥に有り、モルダビア公国はそのさらに奥の黒海の端に位置する。
海に出て世界の国々と交易をするにはハンデが有りすぎると考えていた。
だがオランダにやって来たユキは、海運会社の設立よりも、既にある会社の権利を買収する方が早いと判断する。豊富な財力に物を言わせてその権利を獲得して、さらにイングランドの海運会社や造船所までもがユキの標的となった。
ユキがバルクら三人の傭兵とオランダの街を歩いていた時、広場で賑やかな光景を目にする。絞首台が何台も建てられているのだ。
「明日大勢の悪党どもが首をくくられるのさ」
そこに居た野次馬の男がさらに言った。
「赤ひげのキャプテン・ハックもな」
「ハック?」
「なんだ、おめえ知らないのか。イングランドの有名な海賊だあな」
十七世紀の中頃、イングランドの海賊ウィリアム・ハックと三百人の部下達は、捕獲したスペインの船を利用して他のスペイン船を次々と襲撃した。
だが彼らは意外に教養の高い海賊達だった。ハックを含む五人が、詳細な日誌を残していたりする。
大西洋から地中海の海を縦横無人に暴れまわった海賊キャプテン・ハックの名は当時ヨーロッパ中に知れ渡っていた。
「悪さをしたら、キャプテン・ハックがさらいに来て、海賊にされるよ!」
どんな悪ガキもその脅しで静かになった。
ハック率いる海賊団は船の襲撃を続けて、スペインやオランダに多大な金銭的損失を与え、二十五隻の船を破壊し、多数の人を殺害した。
だがついに、極秘に上陸して移動しているところをオランダの役人に捕らえられ、海賊行為で裁判にかけられて絞首刑と決まった。明日はその処刑がある日だった。
ユキはハックの話を聞き、その才能に興味を持った。
「タリウトさん、今すぐ裁判官を探しましょう」
この時代裁判官は刑の判決から執行まで、全ての権限を持っている。
「なに、儂を買収すると言うのか!」
古めかしい調度品があふれる執務室で、裁判官が声を荒げた。目の前のテーブルに金貨の袋を置かれたのだ。
「いえ、そうでは御座いません。裁判官様は公明正大で正義感溢れる方だとは常々受け賜わっております」
「…………」
「ただハックは有能な航海士で、その才能が惜しいのです」
ユキがさらに金貨の袋を二つ上乗せすると、裁判官の目線が動いた。
「ここは裁判官様の恩情で、あの者の将来に道を開ける事が出来ればと……」
ユキはさらに袋を三つ乗せる。
裁判官は急にユキの側に来ると、耳打ちをした。
「……実はな、儂もあの者の将来には期待しておったのだ。だが、判決は神聖なもので覆す訳にはいかん」
「…………」
「ただ、その……牢獄はこの建物の地下にあるんだが、ちょっとした問題があるんだ。牢番の奴がとんでもない酒飲みでな、今夜あたりもきっと酒を飲んでいるのではと……」
裁判官はユキの顔を見て勝手に頷いて見せ、離れて行く前に言った。
「まあ、明日は大勢やるからな、一人くらいならかまわんだろう」
その夜、ユキ達が地下に忍び込むと、どこにも見張りの兵が居ない。牢番は確かに酔いつぶれている。その牢番からかぎを取る。
「……ハック」
「どこだ?」
「何処にいる?」
「ここだ、なにか用か?」
いぶかる赤ひげのハックを牢から救い出した。
「なぜおれを助けた?」
「貴方の才能が惜しいのです」
「…………」
ユキはその気があるのなら、ワラキアの私の所に来なさいと言い、安全な所まで送り届け別れた。
翌年、ハックは部下三百人を引き連れ、ユキを訪ねてやって来た。
明日の命の保障もない海賊稼業から足を洗い、まっとうな交易船の乗組員になれるとあって、皆が希望して来た。実はユキの口添えで、全員ワラキア公の後ろ盾を得て、身分を保証される事を聞かされていたのだ。
新たに開設したアジア航路の船団は日本を目指すのだが、ハックに任せる事になった。
ユキは次々と船を造り、さらに船員も増やして十七世紀の海運王と言われるようになる。
但し、洋上では相手が政府の許可を得た掠奪だろうとただの海賊だろうと、奪われてしまえばそれまでだ。何の保証も無い交易船で、防衛する手段はただ一つ、武装するしかない。掠奪には反撃で応ずるのだ、ユキはそう考えた。
「ハック」
「はい」
「交易船を武装するのよ」
「…………」
しかし、大砲や砲弾、火薬などを大量に乗せてはスペースの点で交易船の意味が無くなる。万が一の時に備えるとはいえ、積み込む荷が少なくなるのは避けたい。
そこで機関銃を乗せる事にした。日本から輸入した最新の機関銃は、その凄まじい破壊力が既に分かっている。オスマン帝国で大活躍した連発出来る銃で、日本の仁吉が開発したものだ。今ではイングランドやヴェネツィアにも輸出され始めている。
その銃を甲板でも比較的高い位置、船首と船尾楼の上に二基づつ計四基備えて、カバーを掛けて隠す。交易船の側面には大砲を撃つ開口部が無いから、海賊にとって無害な船だという事はすぐ分かるはず。
無駄に大砲を撃つ必要もなく、舩ごと奪うつもりなら停船命令を出して近づいて来るだろう。船に横付けされて、掠奪だと分かった瞬間に機関銃で上から相手甲板を攻撃、後は剣を持って乗り込めばいい。その時こそキャプテン・ハックとその部下の出番だ。
さらに交易船は必ず三から四隻で共に行動する事とした。抑止力を考えると、一隻だけでは掠奪の餌食になりやすい。
「ハック」
「はい」
「部下に機関銃の扱い方をマスターさせておいて」
「分かりました」
赤ひげのハックは不敵に笑った。
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