安兵衛の娘ユキとドラキュラ公
@erawan
第1話 ユキの旅立ち
前作「豊臣秀矩(勝家)」に出て来るユキは安兵衛の娘です。オスマン帝国皇帝のムラト四世に見いだされたサムライ安兵衛だが、戦火のコンスタンチノープルを逃れ、黒海に面するモルダビア公国にやって来る。
その旅路の途中でベネチア商人の娘ラウラと再会。ユキはラウラと親しくなり、母親ミネリマーフの死後、養子に迎えられていた。
黒海を見下ろす丘の中腹に、ベネチア商人の娘ラウラ・アレクシアの館が建っている。
「おば様、準備が整いました」
「ユキ、今度の航海は長くなるわね……」
ユキの母親ミネリマーフは、ムラト四世が安兵衛に紹介した。モルダビア公国の貴族の家系に連なる女性だ。安兵衛との間に生まれた娘は雪のように肌が白く、ユキと名が付けられていた。
「ユキ、何度も言うようだけど、貴女が直接行く事は――」
「おば様、もう決めた事です。父の生まれ故郷にまで行くと言うのではありませんよ」
モルダビアを出て地中海交易をしながら、さらに大西洋を目指す。出航の前夜も、ラウラに準備がほぼ終わった事を報告しながら、普段と変わりなく湯あみをする。召使たちが運ぶ湯に入り、石鹸で丁寧に身体を洗った。
石鹸は十二世紀ごろに、地中海沿岸のオリーブ油と海藻灰を原料として作られている。この石鹸は扱いやすく、不快な臭いも無いのでベネチアでも盛んに作られ輸出されていた。
「船に乗ったらこんな湯あみはもう出来ないわね」
湯あみを終え立ち上がったユキの身体は、使用されるほのかな香料の香りが漂っている。父安兵衛の影響から、湯に浸かり身体を洗う事はユキの大事な日課となっていた。
中世ヨーロッパの夫人たちは男と同じで、めったに身体も髪も洗わない。フランスなどでは、肌が水から悪い物を吸ってしまうなどと、とんでもない事が信じられていた。その為、水が肌に触れる事を極端に怖がっていたらしい。そこで使われたのが香水だった。
ユキの場合、そんな不潔な身体の匂いをごまかすために使用するのとは違う。綺麗に洗った身体に付ける香水は、良い効果のある使い方だと知っていた。
「アジアの香辛料を扱えば確かに利益は出るでしょう。ですが、今からオランダやイングランドの既得権を崩すのは無理でしょうね」
「ユキ――」
「おば様、安心して下さい。だからと言ってすぐ私が日本に行こうと言うのではありません」
確かにラウラ家では、イングランドなどに後れを取りつつあるベネチア交易の現状を打開しようと、何度か日本と交易をしているのだ。そのルートを確実なものにしようとする試みは理解出来る。
食卓でラウラと向かい合うユキがワインのグラスを置く。召使が新たに注ごうとするのをユキの手が止めた。重厚な内装の部屋をローソクの灯りがほのかに照らしている。
「日本は火器の先進国だと評判です。ヨーロッパも新大陸も火種は尽きないでしょから、火器の需要はあるはずです。ですが、今すぐ交渉に行く事を考えてはおりません」
「…………」
「その前にまだまだやる事が残っています。なにも心配いりませんよ。地中海はもう何度も行き来しているのですから」
だがラウラは心配だった。今回はアフリカの喜望峰を回りアジアに向かうほどの長い航路ではない。それでも黒海を出て地中海を横切り、オランダを目指すのは長くなる。
独身のラウラはユキを養子に迎えてから、商人としての基礎をみっちり教え込んで来た。正攻法だけでは無い、生き馬の目を抜くビジネス界で、敵を出し抜くあらゆる策を授けてきた。すでにラウラ家の後を継ぐのはユキだと決めていたのだ。そのユキに万一の事があったら……
ラウラ家の命運は他の商人達と同じで、常に航海の結果に掛かっていた。無事交易を終えて帰れば財を築け、海難事故や海賊に襲われて帰れなければ破産する。
十六世紀から十九世紀、特にヨーロッパ外洋での掠奪行為は公認のものさえあった。エリザベス女王が後ろ盾という、都合の良い海賊も居た背景がある。
つまりこの時代の外洋航海となると、無事戻って来れるかは、一種の掛けともなる危険なものだったのだ。
ラウラ家の交易船パルパテチオ号の船べりに立つユキは、男の身なりをしている。十七世紀の女性が男の服を着る事などあり得ないのだが、ユキはスカートで船になど乗れないと、いつも男性の服を着ていた。
出航を控えた船では、最後にユキの好きな新鮮な野菜と水を積み込んでいるところだ。
「水はもう運び終わったの?」
「まだあと十樽来ます」
「野菜は?」
「野菜はもう全部運び終わりました」
父の安兵衛から教わった、くさやと言う独特の匂いや風味をもつ食品や、梅干しは帆船の長い航海で必需品となっていた。
帆船時代の食事は、豆類、乾パン、塩漬けの肉や魚、乾燥ニンニクなどが中心だった。パルパテチオ号のような大型船では鶏や豚、牛、ヤギなどの家畜を船倉に積み込むことも出来た。だが航海が長引くと、たとえ大型船と言えども食事の内容は悲惨なものとなる。ネズミの肉や腐った水など、生き延びるためには何でも口に入れた。
さらにビタミンCの欠乏で、船乗りたちを壊血病が襲う。倦怠感に始まり、歯茎からの出血、手足のむくみが起き、最後は衰弱死する。
当時は野菜を積極的に食べるという食習慣も無かった。原因が分からなかったため、謎の病気として恐れられていた。
ユキがこれから出航しようとしている港はモルダビア公国の首都に有り、大貴族のモルダビア公が統治をしていたが、貴族間で紛争が絶えなかった。火種はくすぶり続け、ついにこの日、暴動に発展する。ルーマニア人貴族達がたきつけ扇動したものだった。
最後の水を積み込んでいたその時、ユキは船べりから丘に立ち上る煙を見た。
「おば様……」
すぐ船を降り、馬を急がせ丘に向かう。ユキの駆けて行く脇を、暴徒達が奇声を上げすり抜けて行く。館に着く頃には次第に嫌な予感がして来る。
馬を飛び降り、館に駆け込むと、内部は暴徒に襲撃された後で、荒らされて足の踏み場もない。
「おば様!」
手遅れだった。広間に血を流し倒れているラウラを見つける。
「おば様!」
「ユキ……」
「おば様、しっかりして」
「ユキ、私は……もう助からない」
ユキはラウラを抱き寄せた。
「……いいかい、今から言う事をよくお聞き」
ユキの肩を掴んだ手が血に染まっている。
「ここから北に向かうと……ベンダーという街が有るから、そこでバルクという男を探しなさい。きっと……お前の助けになって……くれる、はず……」
「おば様!」
今度は背後で召使の叫ぶ声、
「ユキ様、船が奪われました」
「えっ」
館のバルコニーから海を見ると、ラウラ家の交易船パルパテチオ号が港を出て行くではないか……
突然襲って来た騒動に、ユキは呆然としていた。
どれだけ時間が経ったのか。いつまで嘆いていても始まらない。
召使に手伝わせてラウラの遺体を運び、父と母が眠る墓の傍に埋葬する。
かろうじて難を逃れた召使達にいくばくかの給金を払うと、後にはユキ一人が残された。書斎に入りドアを閉める。そこも手を付けられないほど乱暴に荒らされていた。
引き倒されているマホガニーのチェストをどけ、壁の前に立つ。
鹿の角や剣がいくつも壁面を飾っている。その角の一つを右手で持ち、左手で剣の柄を握ると、内側に倒した。
ゆっくり引くと壁の一部が取れ、秘密の収納庫が現れた。どうやらここだけは無事だったようだ。
中の扉を開くと、金貨の入った袋を身に着ける。さらに、父安兵衛の形見である刀を取り出し腰に差す。
父から「この刀は、安綱という名工が、竜神の力を得て創ったと語り継がれているものだ」さらに「お前が強い意志でこの刀を抜けば、切れない相手はいない」と聞かされていた。
そんな父から剣術の手ほどきを受けてはいたが、まさかこんな事で刀を腰に差す時が来るとは思わなかった。後は元通りに壁を戻して外に出た。
両頬に流れていた涙をぬぐうと、馬をなで、その首を抱き語り掛けた。
「チェス、私たち二人だけになってしまった。残されたものは金貨一袋と、お父様の刀と、後はお前だけよ」
チェスと名付けていた馬が、首を曲げてユキを見た。
「チェス、連れて行って」
チェスはユキを乗せ、北を目指して駆け出した。
街のいたるところが、煙の臭いで満ちていた。
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