7.精霊の泉

 一行はジラルモを先頭に樹海の奥へ進んでいく。


 樹海は薄暗く、昼間の日の光も僅かしか届かない。暗がりと化した樹海の中を進むのは、困難を極める。ただでさえ薄暗いことで足下の視界が不良なのに加え、地面は樹木の根や倒木などが所々にあり、足下に視線を向けなければ転んでしまう。そのせいで、先行する者の背中と足下の障害物へ視線をせわしなく、交互に向けなければならず嫌気が差す。


 樹海の中は、小動物の気配はおろか、木の葉を擦る風の音さえない。樹海が意識的に沈黙を保っているかのようだ。


 状況が悪い中でも、集中して先行者を追いかけていた健二だったが、更に状況を悪化させるように、奥へ進むにつれ視界に霧が掛かり始めた。


 霧は徐々に濃霧となり、ただでさえ悪い視界を更に悪化させる。いつしか、視界はほぼ皆無となり、数歩先を歩いている者の姿さえ曖昧になる。


 不意に足下の何かに躓き地面に手をついてしまう。


 急いで立ち上がると、辺りを見渡して皆の姿を探す。だが、目の前にあるのは白い霧だけで、人の姿はおろか、手元まで霧の中に紛れてしまっている。手を伸ばしても何かに触れる感覚もなければ、音さえも完全に掻き消され、耳に残るのは甲高い高周波の音だけとなった。


 奇妙な閉塞感に五感の全てが奪われた感覚に、健二は混乱する。何とか心のざわめきを抑え、冷静さを保とうと立ち尽くしていることしかできずにいる。


 暫くの間は、純白の世界だけが視界を覆っていた。


 辺りの様子を窺おうにも感覚の全てが情報を遮断しているため、無の世界に独り取り残された感覚が、徐々に孤独感へ変わっていく。それは恐怖心へと変わり、健二の精神を蝕んでいく。孤独感から逃れようと、感覚のない脚を無我夢中で動かす。


 暫く無の中で足掻いていると、辺りを包んでいた濃霧が徐々に晴れ、視界が回復するのがわかった。脚の動きを止め、目の前に広がる景色に目を凝らし、困惑する。


 先程までは木々が生い茂り、薄暗かった場所から突如、拓けた場所に健二は立っていた。


 頭上を覆っていた樹海の木々は、いつの間にか消え去り、眼前に広がるのは静寂に包まれた水辺があるだけだ。僅かに晴れきらない霧で全貌は掴めないが、水辺が奥まで続いているのがわかった。どうやら湖の湖畔に立っているようだった。


 健二は水辺に沿って、辺りの様子を観察しようと歩き出す。


 湖は健二が思っていたよりも広大だった。十分以上も歩き続けたが、景色が変わることはなく、まるで同じ場所を何度も通っている気がする。奇妙な湖畔の雰囲気に怪訝さを感じ始めた頃、健二は背後で何者かの気配を感じ振り返る。


 そこには不可解な人影があった。数人の人物が立っているのだが、まるで実態を感じ取れない。そこにいるとわかっているのに、影のような人影は、背景が僅かに透け、ゆらゆらと漂っている。


 黒衣に包まれ、フードで覆われた顔が僅かに見え隠れする。


 足音はおろか、身動ぎひとつすることなく、人影は地面を滑走するようにゆらりと健二に近寄る。


 健二は恐怖で硬直状態となったまま、徐々に間近まで迫る人影をまじまじと見つめる。


「一体誰なんだよ」


 震える声で尋ねる健二の言葉に反応する様子もなく、人影は微動だにせず健二を食い入るように見つめていたが、おもむろに言葉を発する。


『雛か……しかも自分が何者かさえ自覚していないとはな』


 人影の声が、頭の中でこだまする。不思議な感覚を覚えると共に、複数人の声が直に頭の内側でこだまし健二は軽い吐き気をもよおす。


『お前が次代の王候補か――この世界も随分と廃れたものだな。これほど稚拙な雛が、次世代の覇権を握らなければならないとは』


 失望したような口調で言葉を発した人影は、いつの間にか影が健二を取り囲むように立っている。


『お前は我々に対して、次代の王としての権威を示さなければならない。そのためにお前には試練を受けてもらう』


「試練……それって何」


『試練を受けるのはお前だけではない』


 人影の言葉に困惑する健二をよそに、話は留まることなく進んでいく。


 試練を受けるとはどういう意味なのか。言うまでもなく試練に関しては初耳であり、この者たちが言っていることからして、試練を受けるのは複数人いるということになる。精霊王は複数人いるということになるのか。


 健二の困惑と疑問をよそに人影は言葉を継ぐ。


『早速ではあるが、行くぞ』


 そう言って人影は、湖畔から水面を伝って湖の奥へ進んでいく。


 健二は訳もわからず、人影のあとを追って水の中を歩く。


 水の中は意外にも適温で、水底も意外と浅く、腰の位置より水位が上がることはなかった。


 暫く水の中を歩くと、小さな岸辺が見えてきた。


 岸辺は小さな島になっており、そこに大きな岩石が聳え立っている。


 岩石は島の殆どを占領している。それが幾つもの岩が重なり合ってできたものだとわかった。十メートル四方の巨大な岩石が幾つも重なり合い、その周りを蔓植物が根深く張り付き覆い隠している。


 岩石が重なり合ったところに、人一人がようやく通れる程の隙間がある。そこが何かしらへの入り口になっているようだ。


「やはり。君も来るのか」


 島に上陸すると、見覚えのある人物が健二を出迎えた。その姿を見て、健二は驚愕する。


「何で君がここに」


 健二の言葉に、スノウは鼻で笑う。


「一応言っておくと、私も君同様に候補者なんだよ。つまり、王となる資格を与えられている」


 スノウはふと気になったように、考え込む素振りを見せる。


「君はどうやってここへ来たんだ。この世界に混乱して何もできなかったはずだというのに。ここへ来るための知識も持ち合わせていなかったはずだ」


 スノウはそこまで言って、なるほど、というように眉を吊り上げ、乾いた笑みを浮かべる。


「なるほど、女王の手下に拾われたな。どのように諭されたは知らないが、君はあの者たちを信用するべきではない」


 そう言ってスノウは健二の前に立つ。その表情は、嬉しそうではあるが、軽蔑のような複雑な感情も混在しているようでもあった。健二が女王の庇護下にあること、それ自体が愚行とでも言いたげな様子だ。


「でもこんなところで何をしてるんだよ」


「実は、君が来るのを待っていたんだよ」


「待ってたって。どういうこと」


「言葉の通りだよ。ここは時間の流れが特殊なんだ。私は君がここへ辿り着くと信じ、ここで待っていたんだ。少し時間は掛かってしまったが。まあ、予想の範囲内だ」


 そう言って、スノウは言葉を継ぐ。


「夢を見たんだろう。君は師匠の記憶を夢として見たはずだ」


「――そんな夢は見てない」


 スノウの言葉に、健二はアンメイザの事を思い出した。夢で見たあの少年は、やはりスノウだったのだ。だが、アンメイザの視点で夢を見たことは確かだが、精霊の泉に関しする事は、夢に出てこなかった。


「では、なぜここのことを知っているんだ」


「女王から聞いたんだ。儀式のことやアンメイザのこと。君と女王が対立してることも聞いた。何でそんなに啀み合ってるんだよ」


「君にはわからないことさ。それより、師匠の記憶を頼りにして来なかったということは、ここのことをちゃんと知らないようだな」


「まあ、儀式をする場所とは聞いているけど」


「正確には違う。ここは王となるための器を図るための場所に過ぎない。ここを守護する者たちに、自身が王としての資質を備えていることを示すための場所だ。王となるには、もっと別のことが必要になる」


 スノウの言葉に、健二は自分の状況が思っていたより複雑なのだと理解した。今考えてみれば、王になる、ということ自体が大それており、いかに無謀なのかということを。その考えが頭を過ぎった瞬間、全てのことがどうでも良くなった。


「君は先代たちの記憶を見ることが出来る。故に、私よりも知識量は上だと思っていたのだが、実際はそうでもないようだな」


「君も先代の王の記憶を見ることができるんじゃないの」


「いや。私に見ることはできない。以前は候補者として師匠の元で修行し、実際にここへ連れてきてもらったこともあった。王が存命でも候補者と認められた者は、ここに入ることができるんだよ。師匠がいなくなってからは、ここへ来ることもなかったが」


「何で自分が候補者だって言わなかったのさ。そもそも俺に黙っておく必要はなかったはずだろ」


「あの状況で君に説明したところで、信じてもらえるとは思わなかった。だから、準備が整うまで、君にはこの世界のことを理解してほしかった。幸か不幸か、今の君は、この世界のことを受け入れているようだが。それを差し置いても、君にとっては全く関係のない世界を託されたところで、正直どうでも良いことなんじゃないか」


 スノウの言葉に、健二は何も言い返せなかった。確かに女王やシューベンタルトに、この世界を救わなければならない存在、とは言われた。自分はその言葉に、少しばかり酔っていたのかもしれない。口車に乗せられ、自分がこの世界の行く末を握っている、という優越感に浸り、自分こそが、この世界の救世主なのだと言い聞かせていたのかもしれない。自分はこの世界に必要な存在。そして、この世界を救わなければならないのだと。


「俺には王になるための資格があるのかな」


 健二の言葉に、スノウは呆れた表情で言う。


「資格があるといっても、あの者たちにとっては、私たちがこの試練を受けることは義務だ。試練を受けなければ、あの者たちに殺されても文句は言えない」


 スノウの言葉に、健二はいよいよ落胆する。


「そういえば、あの黒い服を着てる奴らって何者なの」


 健二はここへ来るまで、気になって仕方がなかった人影のことをスノウに尋ねる。


「君は本当に何も知らないんだな」


「仕方ないだろ」


「仕方がないではない」


 そう言った健二に、強い口調でスノウが凄む。スノウは言葉を継ぐ。


「君はこの世界のことを自分から興味を持っているのか。この世界に対して受け身である以上、君はこれからも無知であり続ける……君の問いに答えるなら、あの者たちは『泉の守護者』と呼ばれている者たちだ」


 スノウによると、人影の正体は、この泉を守護する役割を担っており、開闢以来、存在し続けているのだという。泉の守護者は、正しくは精霊という存在に分類されるらしい。だが、世界を構成している精霊とは異形の存在で、泉を守護し時代の精霊王を選定するために世界に留まり続けている。いわば、この世界の開闢以来、現在まで精霊王を選定し続けてきたのだ。そして今、次代の王を選定するべく、二人の候補者を呼び寄せた。


「とにかく。今は王を選定するため、あの者たちは自身の役目を果たすべくこの世界に存在している。あの者たちの気を害することがあれば、何をされるかわからないぞ。先程君が言っていたことなど口にすることさえ憚られる」


 そう言うと、スノウは岩の間によってできた隙間に入っていく。


 健二はスノウが行ってしまったあと、暫くの間立ち尽くす。自分の頭の中を駆け巡る様々な感情。自分がこれからどんな試練を受けなければならないのか、という先の見えない不安。自分が試練を受け、万が一でも王としてこの世界を導くことになれば、世界の行く末を背負わなければならないことを考えたときの恐怖。そして、なぜかこの状況では、不釣り合いな感情が渦巻いていた。健二自身、この感情がなぜ自分の中にあるのかが不可解だった。それは高揚感だった。負の感情が入り乱れる中で、それらを薙ぎ払うかのように自分の中で張り巡らされ、全ての感情を覆うかのように渦巻いている。


 ここまで来て、今更あとへ引き返すことはできない。自分にそう言い聞かせ、健二もスノウのあとを追う。


 岩の間にできた入り口を抜けると、湿気を含んだ空気が漂う薄暗い空間に出た。ひんやりとしたごわついた岩肌が、両脇に建ち並び、奥の空間へ導いている。


 視界が不良であるため、空間を上手く把握することができない。


「遅かったな、何をしていた。逃げ出したのかと心配したぞ」


 暗闇の中からスノウの声が響く。


「真っ暗で何も見えない」


 そう言った健二の言葉に応えるかのように、目の前に明かりが灯された。それはスノウが魔法で灯したものだった。


 明かりが灯されたことで、空間の全貌が明らかになる。空間の異様さに、健二は眉を顰める。


 そこに広がる空間は、まるで重力という概念から逸脱していた。上下左右前後。その全てが曖昧だった。入り口を抜けたあと、岩でできた僅かな出っ張りの先は、無重力の空間が続いている。


 その場に存在する全てが宙を漂っている。空間は外観からは想像がつかないほど広く、球形のドーム状を成しており、遠近感が狂ってしまう。そして、空間の中心に何かがあるのがわかった。


『揃ったな。これから、お前たちには試練を受けてもらう。この試練を乗り越えた者のみが王の器に相応しいと見なされる』


 こだました声が、再び頭の中に響く。この不快な感覚には慣れそうにない。


 守護者たちは宙を漂い、空間の中心へ向かう。


 健二もスノウと共に守護者たちを追いかける。スノウが出っ張りの端からゆらりと浮かび上がるのを見て健二も習う。


 足が地面から離れ、宙を掻き一瞬の混乱のあとに全身が軽くなるのを感じた。不思議なことに、身体は思いのままに動き宙を浮遊する。


 中心にあったのは、石造りの祭壇のようなものだった。


 四方が二メートルほどの石畳の真ん中に何かを祭っているのか、小さな祠がある。そこから清水が滴り祭壇を満たしている。


 健二はスノウと共に石畳の上に降り立つ。


「ここが試練の場所なの」


 健二が尋ねるとスノウは首を傾げる。


「さあ、私もここまで来るのは初めてだ」


 スノウの表情には余裕がなく、緊張しているのか強ばっている。


『お前たちにはこれを飲んでもらう』


 いつの間にか守護者の手には、小さな杯が掲げられていた。それは健二とスノウにそれぞれ手渡される。


「これは……何」


『杯だ。飲み干せ』


 健二は訳もわからないまま守護者に言われた通り、杯を飲み干す。不味い味を想像していたが、ただの湧き水の味でしかなく、正直拍子抜けだった。健二が安堵の息を吐いたとき、守護者が高らかに大呼する。


『お前たちは、これから真の王としての素質を試される。そして、試練から生還したとき、真の王の器として認められ、この世界の導き手となれ』


 その言葉に健二は不意を突かれた。今、守護者は試練から生還したとき、と言っていた。つまり、試練を切り抜けられなければ死が待っているということになる。


「試練に失敗したら死ぬなんて聞いてないよ」


 健二がそう言って悪態をつこうとしたとき、一瞬にして意識が遠のく。身体は身動きすらできなくなり、脱力して地面に倒れる。全身が痺れ全ての感覚がなくなる。意識だけが朦朧としている中、視界の焦点が発光すると、テレビの画面が暗くなるように、全てが無と化した。

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