遊牧少年、シャンバラを征く


 その日は曇天が視界を覆っていた。

 寒く、暗く、陰鬱な空気が部族の皆の間に蟠っていた。


 誰もが少女の死を悼んでいた。


 ジュチもまた、彼女の死に声を上げられず、ただ涙を流した。

 何故こうなったのか、と益体のことを考える。あるいはもっと自分が上手くやっていれば、と…。


「……………………」


 悪魔払いの霊草と言えども御伽噺に出てくる万能の妙薬ではない。薬効以上に身体が弱っていれば当然手遅れとなる。

 そうして間に合わなかった少女が一人、死んだ。

 分かっていたことだ。

 誰も彼もが救われるような都合の良いお話メデタシメデタシがあるはずがない。

 だが同時に何故だか人は自分にだけは不幸ソレが降りかからないと信じている。


「ちはやぶる神よりいでし人の子の―――」


 カザル族の居留地にほど近い小高い山。南に面する斜面に少女の遺体は安置された。

 しっかりと衣装を整えられ、死化粧を施された少女の遺体の前に部族の巫女たるモージが佇む。老いた巫女は静かに、厳かに天上に座す最高神、輪廻転生を司る天神テヌン祝詞のりとを捧げていた。

 部族の巫女は祭儀を司る。死者の葬儀も当然その一つだ。


「罷るは神に帰るなりけり…」


 カザル族は小さな部族だ。

 部族の誰かが亡くなれば、叶う限り皆が葬儀に顔を出す。

 ジュチは沈鬱な顔でうつむく皆の隙間から整えられた遺体を見る。


「――――――――嗚呼ああ


 嘆声が零れ落ちる。

 まるで生きているようだった。

 ただ眠っているように見えた。

 少女の死に実感が湧かなかった。


「……皆よ、この子の魂は天に解き放たれた。あとはこの子の身体が地に還るのを待つだけだ」


 祝詞を唱え終えたモージが皆に声をかける。

 最後に名残惜しむように亡くなった少女へ声をかける者、野原の花を手向ける者、部族の者達の対応は様々だったが、やがてモージの呼びかけを皮切りに一人、また一人と居留地へと足を向けた。

 葬儀はこれでおしまいだった。

 叶う限り亡くなった者にとって馴染み深い御山の南斜面に身形を整えた遺体を安置し、葬儀を上げる。あとは野に生きる禽獣達に遺体を任せる風葬がカザル族の風習だった。


「ジュチ、お前も…」

「……もう少し、ここにいさせてくれ」

「……あまり遅くなるなよ」


 最後に残ったジュチにモージが声をかけるが、少年は力なく願いを伝えた。それを聞いた老女は少年の心境を慮り、最後に少年を案じる言葉をかけるとやがて姿を消した。


「……」


 フゥ、と息を吐き、少女の前で座り込む。

 その背は丸く、小さく、消え入りそうに見えた。

 そうしてただ一人残ったジュチに…。


「ジュチ」


 幼い少女の舌っ足らずな声がかけられる。


「……」


 その呼びかけに、ただ無言を貫く少年。

 まるでその幼い声が聞こえていないようだった。


「ねえ、ジュチ」


 柔らかくも、不思議と心に染み入る声。


「聞こえてる…?」


 少年が愛する家族の声だった。


「ねえ、私はここにいるよ」


 誰よりも、何よりも大事なツェツェクの声だった。


「……」


 少年はゆっくりと俯いた顔を上げ。


「……ツェツェク」


 少女の名を読んだ


「うん。私だよ、ジュチ」


 そうして少年の傍に少女は歩み寄った。


、まるで生きているみたいだね」

「ああ。今にも起きて笑いかけてきそうだ」


 族長家の末娘、トヤー。

 ジュチの目の前で永遠の眠りに就く少女の名だ。

 誰からも愛された天真爛漫な少女だった。

 そして《子殺しの悪魔アダ》に真っ先に狙われ、倒れた少女だった。 

 ジュチにとっては大事な友達だった。


 ―――ツェツェクは、助かった。


 ジュチが持ち帰った霊草で、ツェツェク以外の子ども達も皆助かった。

 だがトヤーだけは助からなかった。


「……ジュチ」

「大丈夫だ。あいつらの方がずっと辛いのに、俺だけがしけた面をしてられないよな」


 族長家の四人兄弟姉妹きょうだいはもう四人ではない。

 四人で一つのようだった彼ら。

 一度声をかければ、途端に四つの反応が返ってくる仲のいい彼ら。

 一人が欠け、彼らは自分の身体の一部をもぎ取られた様に感じていることだろう。

 ジュチが抱く罪悪感など、彼らに比べればひどく些細でちっぽけなものだ。


「――――――――」


 それでも思うことはある。


(この世界は残酷だ)


 友達トヤーの死という現実を前に、心の底からそれを実感する。

 救いなんて無いのが当たり前。

 掬っても、掬っても、それでも手のひらから零れ落ちる大切な存在モノがある。


(それでも…)


 そう、それでも。

 手を尽くせば時に報われることがある。

 救いは無くとも、報いはあるのだ。

 霊草によって命を拾った子ども達こそがその証明だった。

 ああ、確かにトヤーは助からなかった

 だがツェツェクは助かったのだ。

 その事実を良しとする、醜い自分に気付きながら、ジュチはそれを肯定する。


(なら、俺はそれでいい)


 この世界で生きていこう。

 愚かしく、間違え、道を踏み外し、失い―――それでもその歩みの先にきっと何かがあると信じて。

 少年は少しだけ汚れ、少しだけ大人に近づいた。

 割り切れないものを抱えたまま、それでも少年は生きていく。

 この竜骨山脈擁する西方辺土の大地に。

 かつて草原を統一し、世界の半ばを制した王朝によってシャンバラと呼ばれた地に。


「ジュチ?」

「……そろそろ行くか」


 と、心配そうに呼びかけるツェツェクに応え、強がりで作った笑みを返した。

 その笑みを空元気によるものと悟りながら、乗っかるようにツェツェクも笑みを返した。

 そうして静かに笑い合う二人の間に静寂が満ちる。

 それが唐突に破られた。


『―――ぉ―――ぃ――――!』


 切れ切れに途切れた、微かな声が少年の耳に届く。

 その声がする方向へ目を剥けると、こちら目掛けて驚くべき速度で近づく存在がある。天を翔ける巨獣、飛竜とその背を許された少女。

 その存在を感じ取るのは少年にとって簡単なことだ。

 なにせ近づいてくる者達とジュチはけして断ち切れない縁で結ばれているのだから。


「……フィーネにスレンか? 何しに来たんだ、一体」


 訝しむ。

 王女の身分にある者がそう腰が軽くていいはずがない。連続してカザル族の居留地を往復することが許されるとは思えないのだが…。

 ましてやフィーネは自分達とともに危ない橋を渡ったばかりなのだから。

 そう思案する間も、あっという間に距離を詰め、天空から飛竜が襲来する。

 飛竜の雄姿を初めて目にするツェツェクは当然身を竦ませた。


「大丈夫だ、ツェツェク。飛竜も、その背中に乗っている奴も、どっちも俺の友達だ」

「そうなの…? ジュチの友達は凄いね」

「ああ、どっちも凄い奴だぞ」


 片方は順当に、もう片方は想像の斜め上を行く方向で凄いのだ。

 言葉で説明できる気がしなかったので、そこら辺は大幅に端折ったが。

 そんな義兄妹達が呑気に言葉を交わす間にも、ズシンと地響きを立てて着地したスレンの背から小柄な影が身軽な動きで飛び降りてくる。


「ジュチくんっ!」

「フィーネ。久しぶり、というには早いか。今日はどうしたんだ?」


 少女の呼びかけに応じる少年の反応も、すっかり慣れたものだった。

 この数日で色々と常識外れな光景を何度となく体験していたので、目の前に飛竜が降り立つ程度ではもう少年が驚くことは無かった。


「それがね。あ―――」


 と、問いかけに応えようとしたその瞬間にジュチの横に立つツェツェクに視線が向けられる。ジュチと近しい空気を持つ少女を認め、フィーネの意識が一瞬でそちらに全て向けられた。


「わぁ、貴方がツェツェクちゃん? ジュチくんが自慢するだけあってとっても可愛いね! あ、でもアウラだって負けないくらい可愛いんだよ!」


 目を細めて慈しむようにツェツェクを見遣るフィーネ。裏表のない真っ直ぐな賞賛から流れるような妹自慢に繋がるのは実にフィーネらしかった。


「はいはい。機会があったら今度はそのアウラに会わせてくれよ。それで、どうしたんだ?」


 困惑するツェツェクをさりげなく背の方に隠しながら、フィーネの勢いを軽く流す。そして重ねて訪問の理由を問いかけた。

 一方少女はああそうだったと粗忽な呟きを漏らし、ジュチに向き直った。その間ツェツェクは目を白黒とするばかりで全く話に付いていけていない。


「ジュチくん、ごめんね。これから私と一緒に《天樹の国》に来て!」


 突然の言葉だった。


「は?」


 当然ジュチも困惑する。

 首を傾げ、お前は何を言っているんだと返した。


「このままだと大変なことになっちゃうの!」

「いや、大変って」

「お父様がすっごく怒ってて、ジュチくんを無理やりにでも連れて来いって!」


 中々剣呑な言葉に眉を顰めつつも、ある意味で腑に落ちる。

 愛する娘を危険に晒したどこぞの馬の骨に好感を抱く方が難しいだろう。ましてや相手が一国の王や王女ともなれば!

 となれば心配なのはアゼルだった。ジュチがカザル族の居留地へ戻ってから何日も経っていない。アゼルが《天樹の国》から無事出国出来ているかも危うかった。


「アゼルは無事か? いまどうなってる?」

「アゼルさんは大丈夫! お母様にお願いしてきたから。でもジュチくんが来ないとちょっとどうなるか分からないの!」


 ジュチの質問から微妙にズレた答えが返ってきたが、何となく状況はうかがい知れる。

 そしてその言葉を聞いて覚悟が決まった。

 どの道アゼルの安全にかかわることで引く気はないし、ジュチ自身が当事者であるなら猶更のことだ。


「分かった、行くよ。でもその前に事情を聞かせて―――」

「事情はスレンの背で説明するから早く!」

「早くってお前なぁ…。あー、もう。分かったよ! 散々世話になったもんな! 男としてここで逃げる訳にはいかないかぁ」

「さっすがジュチくん。話が早い!」

「一応言っておくけど相手がフィーネじゃなきゃ追い返しているからな?」

「そんなぁ。私だけ特別扱い何て…。エへへ」


 相手の無茶ぶりを咎める意味で出した言葉も、恋する乙女には逆効果だった。頬を真っ赤に染め、ニマニマと締まりのない笑みを浮かべるばかりだ。

 それでも可愛らしい、愛らしいという印象ばかり強まるのだから全く美形というのは得だった。

 そんな少女に溜息を一つ。

 それだけで何とか意識を切り替え、傍らの義妹へモージに向けた言伝を頼む。


「ごめんな、ツェツェク。またちょっと遠出してくる。モージには《天樹の国》での借りを返しに行くって伝えておいてくれ」

「ん…。ジュチ、早く帰ってきてね?」

「うん、きっとすぐ帰れるさ。アゼルも一緒にな」


 頷き合い、笑い合う。

 生まれたころから共に過ごした二人にはそれだけで十分なやり取りだ。


「行って来る」

「行ってらっしゃい」


 ツェツェクと笑顔で挨拶を交わすと、少年は少女に従い、スレンの背に飛び乗った。

 途端、スレンは力強く両翼を羽撃はばたかせる。

 巻き起こす風がツェツェクの髪をざわざわと揺らした。風に舞う風精の囁きを巫女見習いのツェツェクもまた感じとった。

 轟、と旋風が吹き荒れる。

 二人を乗せたスレンが飛び立つと、その力強い飛翔によってあっという間に遠ざかっていく。

 その姿を見送るツェツェクは、彼らの影が地平線の果てに消えるまで手を振り続けていた。


 少年の旅は終わらない。

 少女と紡いだ絆もまた終わることなく続く。

 いいや、少年と少女にとってこそが本当の旅の始まりだ。


 ―――そしてまた少年はシャンバラを征く。

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