旅の終わりに③
揺り起こされ、意識が覚醒する。
遠慮のない力強い揺さぶりは、ジュチにある人物を思い起こさせた。
「何だよ、モージ。山羊の乳絞りの時間か?」
寝ぼけ眼にぼんやりとした頭で、零れ落ちる呟き。
自分で自分の呟きに違和感を覚え、それがぼんやりとした頭の中がハッキリするキッカケになった。
勢いよく飛び起きて周囲を見渡すと、そこは見慣れたモージの天幕の中であり、いつも通り不愛想な顔をしたモージの姿が在った。
「……モージ? それじゃここは」
「ああ、私の天幕だ。よく戻って来た、ジュチ」
「戻って…」
一瞬、自分が長い長い夢を見ていたのではないかと奇妙な感覚に襲われる。
《天樹の国》への旅路という非日常と家族とともに暮らす天幕という日常が唐突に切り替わったからこその感覚だった。
が、それもモージの言葉によって意識が現実に追いつく。
「―――ツェツェクは!? 霊草は間に合ったのか!? フィーネとスレンはまだいるのか!? あれからどうなったんだ!?」
まず真っ先に何よりも気に掛けるツェツェクの名前が出る。ジュチにとって目に入れても痛くないくらいに可愛がっている家族だった。
次いで、怒涛のような疑問が次から次へと口を衝いて出てくる。
「落ち着け、ジュチ。霊草は間に合った。流石悪魔払いの特効薬よ。ツェツェク達弱り切っていた者へ与えたが、効果は目を見張る程だ。それでも楽観は出来んが…」
ジュチが旅に出ている間にツェツェクや他の病人達から死者が出る恐れは当然あった。そこに関する不安を払おうと、つい前のめりに聞いてしまう。
切羽詰まった様子のジュチを、分かっている、安心しろと落ち着いた声音で宥めるモージ。
恐らくは、というくだりで不安になったが、少なくともまだ最悪は訪れていない。
自分は間に合ったのだという深い安堵がジュチの全身を包んだ。そのまま全身が弛緩し、毛皮を何枚も敷いた暖かい寝床へ倒れこむ。
「それなら、フィーネとスレンは?」
「……あの時は人生で一番焦ったかもしれん。やれやれ、お前からフィーネ殿達のことを聞いていなければこの老体もどんな醜態を晒したことやら」
どことなく背筋が煤けたような雰囲気で一人ごちるモージ。その様子にあっ…、となんとなく察するジュチ。
恐らくフィーネは急ぐことを優先するあまり、それこそカザル族の営巣地のど真ん中に
もちろん飛竜を見たカザル族は大いに驚き、恐れただろう。とんでもない大恐慌になったと思われる。修羅場を潜り抜けて感覚がマヒしつつあるが、本来飛竜とはそれくらい恐ろしい《魔獣》なのだから。
フィーネならやりそう、と負の方向に抱く信頼がなんとなくそんな考えを抱いた。
「フィーネ殿はお前と霊草を我らの元へ返すとすぐに《天樹の国》へ向けてとんぼ返りだ。ただ、言伝を一つ、預かっている」
「聞くよ」
「友に向けて、『また会いに来る』と」
「……そっか。それじゃ、楽しみに待つとするかな」
言葉通り期待を込めて呟く少年。
その楽し気な横顔を見たモージはひどくむっつりとした顔になった。
「それと時間がある時、フィーネ殿とのやり取りを洗い浚い吐け。これは頼みじゃない。命令だ。いいね?」
と、これまでで一番ドスの聞いた声音でそう念を押される。
「いや、話すようなことは何も無いけど」
「それを決めるのは私だ。お前じゃあない」
「えー…」
「やかましい! 私とて好き好んで馬に蹴られる真似をしたいものか!!」
頭ごなしに叱られ、不承不承とジュチは頷いた。
その様子を見てモージは悟る。この少年、少女が抱いている感情を全く気付いていない。
(自覚なしか! この鈍感さには付ける薬もないわ!)
その有様に思わず頭が痛くなる。
あるいは今のうちにジュチを手放す心積もりを固めておかねばならないかもしれない。フィーネがジュチへ送る視線の熱を思い出したモージはそう思った。
それくらいに少女が少年へ抱いている
一度恋心を抱いた闇エルフを押し留めるなど、焚火に手を突っ込むのと同じくらい愚かしい。ましてやそれが《天樹の国》の王女となれば!
だがそれはそれとして、一通りの事情は把握しておかねばならない。部族の首脳として、少年の養い親として心労は晴れなかった。
「…まあいい。まずはお前の診断も終わらせてしまうか。しばらくはそのままでいな」
と、言うが早いかジュチの体温や脈拍、目や皮膚の色つやなどを検診にかかる。
「俺のことはいいから、ツェツェク達を」
まるで病人のような扱いに抗議するジュチ。いま部族の病人達を診ているモージの時間以上に貴重なものなどないはずだ。
「皆の様子を診た後でお前の元へ来たんだ。良いから黙って私に従いな」
言い募ればスパーンと快音を立てて頭が叩かれる。
相変わらず手が出るのが早い老女傑だった。痛む頭を押さえながら、大人しく従うジュチ。
「……少しはお前の身を案じる私の気持ちも考えろ。ジュチ、お前はツェツェク達以上に危険な綱渡りをしてきたのだぞ」
「……まあ、な」
襲い来る
どこかで一つボタンを掛け違えれば、今頃ジュチはここにいなかっただろう。
「特にお前が自ら望んで死の淵に突っ込んでいったことを聞いた時は随分と肝が冷えたわい。お前は老い先短い老体を虐めるのが趣味だったかね? 幼いころから知っているが、とんと気付かなかったよ」
強い怒りを感じる皮肉にギクリとする。この口ぶりはまるで…。
「飛竜と同格の魔獣相手に大立ち回りをしてきたらしいな? 戯けめ、お前が生きて帰ってこれたのは本当にただ運と巡り合わせの賜物に過ぎんのだぞ」
滾々と諭すように言葉を尽くすモージ。
その説教にジュチはただ頭を下げるしかない。ジュチ自身飛び切り馬鹿な真似に挑んだことは自覚があるのだ。
そうして少しの間、声を荒げることなく、それだけに居た堪れない説教が続き。
「……だが、よく成し遂げた。私の出来息子よ」
最後の最後。聞こえるか、聞こえないかギリギリの声量でジュチを労う。ぶっきらぼうに少年の頭を撫でる手には、これまでの人生で一番のいたわりが籠っていた。
聞き違いかと驚いてモージに視線を向けるが、その時には老女は立ち上がって天幕を出ていこうとしているところだった。
「後は私が果たすべき任だ。お前は静かに体を休めておけ」
「俺も手伝う」
「ならん。お前は大任を果たしたばかりで疲れている。足手まといにくれてやる仕事は無い」
ツェツェクの看病を申し出るが、一蹴される。
正直なところ、ジュチ自身全身に強くくもたれかかってくる倦怠感は自覚していた。今のまま無理に働けば恐らく細かい失敗を無数にやらかす自信がある。
「なら、ツェツェクの見舞いに…」
「それもダメだ。病は弱っている者を付け狙うもの。いまのお前は《悪魔》の格好の餌だ」
「俺なら大丈夫だって」
「そうかもしれんが、それを証明出来ない以上、許すわけにはいかん」
「分かってる。でも―――」
「ジュチ」
なおを言い募ろうとしたジュチをきっぱりと押し留め。
「私を信じろ」
ただ一言。
ただそれだけを残してモージは天幕を去った。
あとに残されたジュチは不承不承と、だが納得して頷く。
「勝手なことばっか言ってくれるぜ」
老いた養い親の振る舞いに悪態をつく。
だがその胸の内に巣食った不安は随分と軽くなっていた。
「……とっくの昔に信じているよ、モージ」
モージは自分の言葉が持つ重みをよく知っている。そしてジュチもまたその事実を知っているからだった。
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