まだ行けるはもう危ない


 ジュチを背に乗せたエウェルはゆっくりと断崖絶壁に足をかけて登っていく。山羊の蹄はかなり柔軟に出来ており、地面に接する部位である二つに分かれた蹄…外蹄と内蹄の両方ががっちりと絶壁の出っ張りや割れ目を掴むことが出来るようになっている。

 更に自身の背に跨った幼子分の体重にも慣れたもの。ジュチが体重移動に気を使っていることもあり、登り詰める姿は遅くはあっても危うさは無い。

 それらの特性、特技を生かし、エウェルは傍目にはのんびりと、実際には慎重に確実に絶壁を伸ぼり詰めつつある。

 時に四肢を突っ張らせるような無茶な姿勢を取ったり、短く岩棚から岩棚へ跳躍するような大胆な動きを披露しながらもその挙動にはどこか安定感があるのだ。


「いいぞ、エウェル…。もう少し、もう少しだ」


 ジュチは焦る気持ちを押さえてひたすらゆるゆると登り詰めるエウェルの挙動に自らの動きを一体化させることに努める。

 エウェルの乗り手、との肩書きを持つジュチであったが、こうして実際に登り始めればジュチが出来ることはただただエウェルと呼吸を合わせるだけであった。それはジュチが未熟なのではなく、単に山羊が人間よりもはるかに登攀能力に優れているというだけなのだ。


「もうちょっと、もう少し…。よし。止まれ、エウェル」


 主観的には気が遠くなるような長い時間、実際にはかなり短い時間で一本目の永遠のムンフ・ツェツェクに辿り着いたジュチ。

 狂おしい程求めた霊草は今やジュチの手が届く場所で可憐な花弁をそっと咲かせていた。


「まずは一本。次にまた動いて一本…。焦るな」


 自戒を込めて呟く。ジュチは敢えて口にすることで自身の焦りを押さえていた。


「土をどかして根ごと掘り返す。それから布に包む。使えるのは片手だけだ。慎重に…」


 手順を口に出して確認し、背負った小さな荷袋に手を突っ込んで小さな匙に似た金属器を取り出す。そのまま慎重に匙で永遠の花を根っこから掘り返していく。岩棚に堆積した僅かな土砂をどかすのはすぐに済んだが、霊草の根は岩棚の隙間を割り砕いてその奥へ進んでおり、引っこ抜くのは慎重を期さねばならなかった。

 下手に力を込め過ぎて体勢を崩せば一巻の終わりなのだ。

 更に片手は体勢維持のために使わなければならなかったから、どうしても作業は遅々としたものとなった。だが少なくない時間を使うことでなんとか一本目の霊草の採取に成功した。


(これを、あと十二本分か…)


 部族のために十本、フィーネの妹分のために二本。気が遠くなるような工程だったが、ひたすら丁寧に素早くこなすしかジュチに道は無い。


(後悔はしない…けど、生きて帰れる気がしないな)


 改めて身に迫る実感が思わず胸の内で零れた。

 自身の死がフィーネに、そしてツェツェクに与える影響だけが心残りだった。二人ともジュチにはもったいないほど心優しい友達で、義妹なのだ。


「……次に行こう。悪いがまだまだ付き合ってもらうぞ、エウェル」


 まあ、死ぬときはエウェルも道連れなので、死出の旅路が寂しくなることだけは無いだろう。不思議とエウェルを巻き込むことにはあまり罪悪感が湧かなかった。エウェルに対して情が薄いというよりも、彼と築いた悪友のような腐れ縁のような関係から来るものだった。


 ◇


「……見ているだけで心臓に悪い」


 一方その頃。

 ジュチたちの働きを少し離れた大岩の群れに隠れて見守るアゼルはボソリと呟きを漏らした。

 それは断崖絶壁と言うアゼルには未知の環境で慎重に、時に大胆に崖を登り詰めていく一人と一匹を見守りながら浮かんだ偽りない心情だった。


(が、大したものだ。モージが奴を押したのは英断だったな)


 大岩の陰からハラハラとジュチたちの挑戦を見守っているアゼルは感心の声を漏らした。傍目にはフラフラ、ユラユラと危なっかしく合わさった体躯を揺らしながらも決して死の一線を越えることは無い。

 傍目からは死線の上で踊っているようにしか見えないが、本人たちからすればまた見え方が違うのだろう。よくよく見ればその挙動には大地に根が張ったような安定感があった。


(これならば霊草の採取それそのものは問題ないだろう。あとの問題点は大王鷲か…)


 残る唯一にして最大の懸念点はそれだった。


「頼むぞ、天神テヌンよ。我が弟分へせめてもの加護を与え給え…」


 アゼルは決して信心深くはない。

 窮地にて頼るべきはまず己の腕。そして友と仲間であるとの信条を掲げている。

 だが己の手が届かない領分に対しては天神に祈ることしか出来なかった。


 ◇


 他方、フィーネは遠方にて乗騎のスレンとともに風精らの助力を借りて姿を隠しながら、アゼルと同様にジュチの挑戦を見守っていた。


「わ、わ…。凄い…あれで落ちないんだ」


 とはいえその言葉に籠る感情はアゼルとは大分異なる。

 悲壮感は薄く、純粋に感心する思いが強い。


「流石エウェルくんだなぁ…。大地の精霊に好かれているだけのことはあるね」

『……』


 同意を求め、隣に静かに待機するスレンへ話を振ってみたのだが、あっさりと黙殺される。

 その反応にむー、と頬を膨らませるもいいもん勝手にするもんと言葉をつづけた。


「地精に好かれ、受け入れられる才能はピカ一だね。事象への干渉力は低そうだけど、その分地精の方がエウェルくんを助けてるみたい。多分いま地震いが起きてもエウェルくんだけは影響を受けないんだろうなぁ」


 ジュチも、モージですら知らない事実であったが、エウェルは地精に好かれる資質を持った特別な山羊であった。

 エウェル自身が能動的に地精に働きかけることがないため気付かれることが無かったが、その卓越した登攀能力は精霊由来のものだったのだ。エウェルが挑めば断崖絶壁だろうと大地に宿る精霊の助力によって平地で立つかのように安定して動き続けることが出来るだろう。

 《魔獣》とは種族ではなく、精霊と意思を交わしその力を借りる獣を指す。その意味ではエウェルもまた《魔獣》に連なる獣の一匹である。

 そして両界の神子たるフィーネは精霊を介してほとんどの《魔獣》と意思を交わし合うことが出来た。エウェルの名をジュチから聞く前から知っていたのは何と言うことは無い、エウェル自身からその名を聞いていたからなのだ。


「霊草採取はエウェルくんがいれば何とかなりそうだね。やっぱりガルダだけが心配かな」


 フィーネもまたアゼルと同じ結論に至り、周囲の警戒のため気を張り巡らせるのだった。


 ◇


(これで八本目…。幸運だな、あり得ないくらい幸運だ)


 ジュチは霊草の採取目標十二本の内、八本の採取に成功していた。

 朝から始めた霊草採取は長時間にわたり、太陽はとうに中天を超えて地平線に向けて傾きつつあった。まだ日が落ちるには早いが、そう遠くもない。そんな時間帯だ。


(……流石に限界か? 正直俺もかなり辛い。エウェルも限界が近いし)


 長時間集中を強いられる作業を続けてきたこともあり、強い疲労を覚えていた。霊草採取もそう何度も試せるものではない。得られた機会を逃さないよう欲張って休まずに続けて来たがそろそろ切り上げ時かもしれない。

 ここは一度引き下がり、また様子を見ながら

 そうしよう、と内心で決断したジュチを翻弄するかのようにふとある光景が目に映る。


「あれは…」


 既に何度も目にした霊草、ただし本数は定かではないが何本もまとまって群生している。今いる場所から更に上へと上がる必要があるが、採れれば一気に目標へ近づく。否、届くかもしれないが…。

 ジュチが見るところ、位置が悪い。エウェルと言えど重力を無視しているわけでも、道なき道を通れるわけではない。普通では分からない、通れるとは思えない道筋を断崖絶壁の中に見つけ出し、そこを過たずに通れるというだけのことだ。目的の岩棚まで、この場所から登り詰めるのは厳しいかもしれない…。


「エウェル、行けるか?」

「…メェェ」


 相棒に声をかけると、流石に疲弊した声が返ってきた。

 やはり長時間の無理が祟っているのか。しぶとさと図太さが売りの相棒もかなり疲弊した様子だ。

 だが行けるか、との問いにはキッチリと行ける、と答えていることはジュチにも分かった。


「これで最後だ。終わったらとっとと安全なところで休もう」

「メェ…メェェ…」


 ジュチの宥めるような言葉に仕方ないな、と言わんばかりの力ない返事。

 それを肯定と受け取ったジュチは悪いな、と一声をかけてからエウェルとの呼吸を合わせることに再び集中し始めた。

 あるいはこの場に老獪なモージがいれば忠告したかもしれない。

 まだ行けるはもう危ない、とは古今東西で通用する至言である。もう少し、あと少しと欲を掻くと痛い目を見る。

 少年が抱くのは欲というよりも願いであったが、訪れる結果に変わりはない。

 予期していた危険が、当然のように少年に襲い掛かろうとしていた。

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