妖精王女 中編
全てのキッカケは一人の少女が病に倒れたことだった。
アウラ・スキールニル。
フィーネの乳姉妹であり、専属侍女であり、フィーネ言うところの
闇エルフは概ね人族に比べて身体的に頑強な部類だが、逆に闇エルフ特有の病もまた存在する。《精霊》との親和性が高すぎ、身体と精神の調和が崩れることが原因で発症する奇病。
「《妖精のうたた寝》?」
「は…。罹る者の少ない、非常に稀な病ですな。原因は肉体ではなく精神に由来しまして、優れた巫術師が罹ることが多い。病とは言いますが、巫術師の宿痾である《
《
「しかしご安心を。稀な病ではありますが、治療薬は既に先人の手で生み出されております。ただ薬の源となる霊草を手に入れるためにちと時間がかかりますが…」
「それはどこ、ですか?」
「は…? いえ、《
ああ、そういえば師から聞いたことがあります。数十年ほど前に国の外から来た騎馬の民の少女が、見事かの霊草を手に入れ、病に苦しむ部族の元へ持ち帰ったと。まこと称賛すべき勇気の持ち主でありましょうや」
《
《
「霊草の名と、特徴を」
「名は
「ありがとうございます」
一通りの事情を王宮付きの医術師から聞き出すやいなや、フィーネは身を翻して自室へ向かう。部屋に辿り着くなり、服を収めている家具から外出するのに相応しい装束を引っ張り出し、自らの衣装を改めた。
普段は
服装を改め終えると、続けて身の回りの物を適当に広げた
そうしてまとめた手荷物を前に準備完了と頷く。なに、例え不足する物があっても現地調達すればいいのだ。食糧などはその最たるものだった。
いっそ男前にそう割り切ると、駆け足で乗騎である
ポータラカ王宮の広い敷地を風のように駆け去っていく闇エルフの姫君の姿は当然王宮に出仕する者たちの目に留まった。ある者は微笑ましい顔で、ある者は戦々恐々とその後ろ姿を見送る。だが無関心な者だけは一人もいない。
王族に生まれながら異様にフットワークの軽い少女は霊花の群生地である
「スレン、飛ぶよ! 《
騎手たる少女の気合が入った号令に、むくりとその巨躯を起こしたスレンは気合に応じるように咆哮した。久方ぶりに満身の力を振り絞る機会とあって、どこか高揚と歓喜すら感じられる咆哮であった。
「ん、スレンも元気一杯。ならあとは私がアウラを助けるだけ!」
乗騎の咆哮に応え、フィーネは力強く
「待て、フィーネ! お前が向かうことは罷りならん!! 今すぐスレンから降りよ!!」
そしてまさに号令をかけ、飛び立たんとしたフィーネを大音声が押し留めた。その声の主は医術師からの報せとスレンの咆哮を耳にし、玉座からその足で駆け寄ってきた父王ガンダールヴであった。
その大音声を耳にし、今まさにスレンが羽撃こうとしたのを制止する。不満気に唸るスレンを宥めながら、厳しい視線を向ける父王の方へ顔を向けた。
「行ってはならん」
「行きます」
「儂は行ってはならんと言ったぞ」
「私は行くと言いました」
珍しく互いに一歩も引かない親子喧嘩に、離れた位置から王妃リーヴァがパンと手を鳴らす。睨みあう二人の
「フィーネ、よくお父様のお話を聞きなさい。その上でまだ行くと言うのならば、ええ、私たちも
穏やかで人畜無害な笑みを浮かべ、静かな口調で諭す母の姿にフィーネは戦慄した。国王家の家庭内ヒエラルキーは母こそが最上位。それも第二位の父を大きく突き放しているのだ。
今の発言も頭を冷やさなければお仕置きするし、逆らい続けるならばやっぱりお仕置きすると言う宣言だ。
出来ない、とは思わない。
リーヴァは物理的な力に依らず人を従える力、王族の威厳とでも言うべき迫力が頭抜けていた。正直なところ国王である父よりもそうした威厳を持ち合わせているとすら思う。
「分かりました…」
そんな母から制止され、大人しくスレンの背から降りてきた娘の姿に若干自身の威厳に疑問を抱きつつも飲み下したガンダールヴ王は改めてフィーネに軽挙妄動を慎むようその理由を説いた。
そもそも闇エルフは情愛深い種族だ。家族も同然に親しい臣下を助けるのを止めるのも、フィーネが数少ない王族という身分だけではなく、そうしなければならない理由があった。
件の霊草の群生地には飛竜の騎手にして両界の神子であるフィーネをして、危険と呼ばざるを得ない脅威が待ち受けているのだ。
「…………」
そしてガンダールヴ王の懇々と諭すように語られたその理由を耳にし…。
(お父様の言葉は、正しい。
フィーネは聞き終えてから長い沈黙を挟み、何度か抗弁しようとする気配を見せたが、遂には父王の言葉を受け入れた。
基本的にフィーネは「良い子」なのだ。妹分のアウラの危機に頭に血が上っていたが、王たる父や賢人議会からの命令を断ると言う選択肢を選ぶことはほとんど無い。
「……お父様、私は霊草を…
「それはならんと既に言ったであろうが」
「はい。だから
霊花の群生地に
その理屈にむ…、とガンダールヴ王は押し黙った。理屈だけで言うならばその通りだからだ。だがガンダールヴ王としては理屈はさておき可愛い娘を何日も外に出したくはなかった。
親の愛情を抜きにしてもフィーネはいずれ《天樹の国》の王位を継ぐ一粒種なのだ。みだりに危険にさらす真似は望ましくない。
「どうか……私にアウラを助ける機会を下さい。だってお父様の言うことが本当なら、誰も《
そう、涙を滲ませて懇願する娘の姿にガンダールヴ王の心がグラつく。
闇エルフとしてアウラへ向ける深い情愛と掟に従うべしという刷り込みが反発し合い、フィーネを苛んでいることも分かり過ぎるくらいに分かる。ガンダールヴ王とてアウラのことを娘の妹分として身内のように思っているのだ。王として割り切り、切り捨てることは出来るが、それは決して心が痛まないということではない。
「別にそれくらいは構わないのではありませんか? 王よ」
苦悩する父王にそう声をかけたのは、先ほどからニコニコとした笑顔を崩さない王妃リーヴァだった。ガンダールヴ王が憂慮の顔を見せようと、フィーネが荒ぶる気配を漏らそうと崩れない鉄壁の笑顔がその美貌に張り付けられている。
「それくらいとは無茶を言ってくれるな、王妃。フィーネはいずれ《
「思いつめたこの子が《
無茶を言う妻へ窘める気持ちを込めて王妃と呼びかけるが、対するリーヴァの笑顔は相変わらず僅かほども揺らぐ気配もない。
むしろ不思議そうに首をかしげてさも当然であるかのように疑問を呈した。その疑問に馬鹿を言うなと返そうとして、逆に言葉を詰まることとなる。
幼少から掟を遵守するようキツく教えを刻み込まれたフィーネ。だが果たして親しい者の命を危険に晒してまで掟を遵守するかと言えば、正直なところ全く分からない。更に本音を言えば、そんな機会は一生来なければいいとガンダールヴ王は心底願っていた。
「そうはならぬために今、決断が必要なのでは?」
ガンダールヴ王の心の動きにするりと滑り込むように言葉を紡ぐ。その心の奥底を見透かされた言葉に、ガンダールヴ王は自身の敗北を悟った。悲しいかな、リーヴァ王妃の方がガンダールヴ王よりも余程王族として、親として器用にこなせる適性の持ち主なのだ。こうなればあとは王妃の手の上を上手く転がされる他はない。
「このまま押さえつけておかしな時に爆発されても困りますし。スレンが守るあの子に手を出せる者が早々現れるはずもなし。アウラが危険に冒されながら、ジッとしていられる性分ではない以上あまりきつく縛り付けては却って逆効果かと?」
なおこの時王妃の想定とは全く別の形でフィーネに手を出す……というかフィーネから手を出される少年との出会いが待ち受けているのだが、当然そんな例外は想定しようもない。
「それに…」
「なんだ?」
「あの娘は私の子どもですよ?」
クスクスと上品に笑う王妃。貴族的な優雅さと淑女の柔らかさを併せ持つ玲瓏な笑み。だが今ばかりはかつてお転婆を極めた我が儘な御令嬢の本性が微かに出来た笑みの罅割れから覗いていた。
幼少期から散々に手を焼かされ、後始末をこなし、遂にはそこが良いのだと諦観と性癖の覚醒にまで至ったガンダールヴ王は溜息を吐いて、首を縦に振った。
「私の子でもあるのだがな…」
「ええ、だから一途なところと優しいところは本当にそっくりね?」
最後のささやかな抵抗もまとめてさらわれ、ガンダールヴ王は降参した。肩を落とした愛すべき夫を背に、リーヴァはゆっくりとした足取りで愛娘に近づいていく。
「……行って、いいの?」
「聞いての通りよ。もちろん貴女の我が儘ばかりが通る訳ではないので、これから言うことをよくお聞きなさい?」
「うん、ありがとう! お母様!」
元気一杯に返事を返す愛娘によろしい、と返す。なおその背後で何故あの眩しい笑顔が自分に向けられていないかと、父王が寂しげな気配を漂わせていた。
「まずこれを。母から贈る心ばかりの品物です」
「これは…
「王宮の穀物蔵から取り出してきた物よ。貴方とスレンが道中で狩りをこなす分も勘定に入れて……一〇日分と言ったところかしらね?」
大事に食べなさい、と戒めるように告げる。実際
「それを毎日キチンと食べて、尽きたら戻って来ること。約束よ?」
言外に時間制限を設けられたが、フィーネはしっかりと頷いた。
「それともう一つ。国の外では決して貴方の身分を明かしてはならず、出来るなら言葉も交わしてはなりません。貴女は曲がりなりにも姫であり、私たちの大切な娘です。これも貴女の身を憂うからこそ忠言。しかと留めおくように」
「はい! でもどうしても人と会ったり話さなければいけない時はどうしたら…?」
「交わす言葉は少ない程、残す物はささやかな程良いと知りなさい。しかしそれ以上に順縁と逆縁を忘れないように。いずれの
どこか超然とした気配を湛えながら、囁くようにリーヴァは言葉を紡いだ。さながら予言を口にする御子のように。
それも当然。王妃リーヴァもまた方向性こそ違えど妖精王ガンダールヴに匹敵する術者だった。
視えぬモノを視、知らぬモノを知り、時に未来の一端すらその手に掴むこの世ならざる世界を覗く霊眼。
王妃リーヴァは巫術以上に資質に左右される
「少しだけ、視えました。貴女が目的を遂げられるかは分からないけれど、きっと貴女はこの旅で素敵な
その天稟を知るフィーネにとって与えられた予言は天啓に等しい。きっとこの旅は無駄にならないと励まされた少女は力強く頷き、精一杯の親愛を込めて両親を順番に抱きしめる。
頭を撫でる力強い掌の暖かさに、頬に口づけられた柔らかな唇の感触に感じた寂寥と慰めを振り切るように再びスレンの背へ飛び乗った。
「行こう、スレン!」
今度こそ力強く飛び立ったスレンとともに、少女は《天樹の国》を後にした。
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