第9話

 私はびくりと肩を揺らして隣の席に座る人物を見た。

 そこにいたのは穏やかな雰囲気の老紳士だった。

 白いものが大部分を占めた髪は丁寧に撫で付けられ、品の良い衣服を身にまとっている。深い皺を刻んだ優しげな口元が印象的だった。


「なぜそう思われるのですか?」


 私は肯定も否定もせず尋ねた。

 こういう人物が一番油断ならないと知っている。

 その証拠に柔らかい鳶色の瞳の奥には鋭い光が見え隠れしていた。


「おや、お嬢さんはご存じなかったのかい? 今、おチビさんがしたのはダークエルフの食前の祈りだよ」

「食前の……祈り?」


 ちょっと意外な話だった。

 故郷の森や山脈から滅多に出てこない、エルフやダークエルフの生態を詳しく知っているわけではない。

 私が持つ彼らについての知識は、主に世間一般で語られている噂や憶測と、故郷の一族の蔵書に記されていた白魔法と黒魔法に関しての薀蓄だけなのだ。

 前者は人間界に出てくる変わり者のエルフの言動を元に、伝言ゲームのように伝わる根拠のない通念であることも多く、後者は魔法以外のことにはきれいさっぱり触れられていなかった。

 よく考えてみれば彼らの生活習慣などは全く知らない。

 にしても食前の祈りとは。喧嘩っ早く黒魔法大好きなダークエルフのイメージからは想像が難しい。


「エルフってのは、人間よりもよほど信心深いからねえ。それだけじゃない。人は平気で嘘をつき、約束を破るが、彼らは違う。己の言葉や信念を何より大切にするのさ」


 老紳士はしみじみと言う。


「滅多に郷里から人の世に出てこないから誤解されやすいのだろう」


 嘆かわしいと言わんばかりに首を振る老紳士。

 祈りを捧げただけの子供を、すわ黒魔法発動かと警戒した自分が恥ずかしくなった。


「まあ、ダークエルフが少々人間嫌いで激情的になりやすく、優れた黒魔法の使い手であることは間違いないけどねえ」


 そう言って老人は茶目っ気たっぷりのウィンクを投げてよこす。

 ……なんだか遊ばれてる気がする。

 二の句が継げず、私は手に持ったパンに視線を落とす。

 すると老人は「さてと」と腰をさすりながら立ち上がった。


「そろそろ行かないとねえ。ああ、今日もいい天気だ。それじゃあね。……お嬢さんたちにはまた会えそうな気がするよ」


 老人は伸びをして空を見上げると、なんとも思わせぶりな台詞を残して去っていく。

 そのしゃんと伸びた背を、私は不思議な気持ちで見送った。

 きっと私はまた老紳士にまみえる。これは予感。私に流れる占者トヨ・アキーツの血がそう告げていた。


 ――だからって再会早すぎない?

 虚ろな目で壁を見つめる私の前には、朝に出会ったばかりの老紳士。

 椅子に腰掛け重厚な飴色の机に肘をついて、にこにことこちらを見上げている。

 ここはギルド・ロフォカレの二階にあるギルドマスターの執務室である。そう、老人はロフォカレのギルドマスターだったのだ……。


 あの後、朝食を済ませた私たちが、バートの店にたどり着いたのは、彼が顔を洗う水を井戸に汲みに行こうと出てきたときだった。

 寝癖のついたボサボサの髪をかき上げながら「お早いご到着だな」と苦笑していたっけ。

 これでも回り道をしたり、開いている店を冷やかしたりと時間を潰そうと頑張った。でも子供と二人でいると間が持たなかった。

 なにせ三歩歩くたびに「あれはなんのお店?」「これはなに?」「あの人たちは何をしてるの?」のオンパレードである。

 最初のうちこそ「笠屋さん。雨が降ったときにかぶる笠を売っている」「箒、掃除道具。特にこの竹箒は店の前を掃き清めるのに用いられる」「おそらく朝帰りの恋人もしくは愛人同士。人目もはばからず別れを惜しんでいる」と丁寧に答えていたのだが……。

 答えてやると次は「どうして?」「なんで?」とさらに質問を繰り返される。

 たまりかねて一口大の焼き菓子を袋で購入し、一粒口に放り込んで言った。


「質問は一日十回まで、あと耳目が気になるものも混じっているのでこっそり聞くこと。約束してくれたらもう一粒あげる」


 焼き菓子の甘みに顔を綻ばせていた子供は、「わかった、約束する」と元気いっぱいに頷いてくれた。

 子供の扱い方のコツを確信した瞬間だった。もしかしたら私には乳母の才能があるのかもしれない。

 職業の選択を誤ったかと思ったのも束の間で、質問をしなくなった子供は、今度は自分で疑問を解決しようとしたらしい。

 気になるものを見つけると、一目散に近寄り触ろうとする。猫や飼い犬なんかはまだいいほうで、禿頭親父の刺青の入った足を触ろうとしたときには、横からかっさらって走って逃げた。


「よし、もう一粒あげるから約束しよう。街を歩くときはお姉ちゃんと手をつなぐこと」

「うん! 約束!」


 こうして私は子供と手を繋いで街を歩くことになった。

 昨日はふにゃふにゃで柔らかく頼りなかった手が、心なししっかりとした感触を返す気がするのは、子供自身の印象が変わったからだろうか。

 昨日感じた儚げな気配はすっかりなりを潜め、今日は元気溌剌なやんちゃ坊主なのだから……

 そんなこんなで、おそらく私は疲れた顔をしていたのだろう。バートは仕方がないなといった調子で告げる。


「ちいと早いが、ロフォカレに行ってみたらどうだ。朝に強い御仁だからもういらっしゃるだろう」


 なんでも昨晩、私たちが帰ったあとに、ロフォカレの人員が訪れたらしい。これ幸いとマスター宛に一筆したためて託けてくれたそうだ。


 そうとなったら一刻も早くロフォカレを訪れよう!

 まだ目が覚めきっていないらしく、大きな欠伸をするバートに別れを告げ、私たちは一路ロフォカレを目指した。

 足早に歩いて大通りまで出、ギルドの立派な門構えにびびりつつ扉を叩き、今に至る――


 私は一見人畜無害そうな笑みを浮かべる老紳士の顔を、苦いものを飲み込みつつ眺めた。

 「また会えそうな気がする」もなにも、バートからの手紙をとっくに受け取っていたに違いない。なのに知らんぷりであの態度である。これだからこの手の人種は嫌なのだ。

 というか、老紳士の醸し出す雰囲気に釣られて「また見える」なんてセンチメンタルに浸ったのがこっぱずかしい!!

 そういえば兄から「お前には我らが祖トヨ・アキーツの血の代わりにトマトジュースでも流れているんだろうね」って言われたぐらい私の力は薄かったんだったわ……

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