┏ File.01 サマータイム〜詩織20歳春〜

朝の目覚ましがわりのラジオアプリから聞き覚えのある曲が流れてきた。


(懐かしい、サマータイムだ)


思い入れがある曲なので、自然と耳が引き寄せられる。

 

——パパはお金持ちで、ママは美人。

——だからあなたは心配しないで、おやすみなさい。

 

そんな歌詞の歌だ。

 

私はこの歌の通り、他人から妬まれるくらいのお金持ちな家の子、高坂詩織こうさか しおり

年齢は今年20歳の大学2年生。

顔もスタイルも悪くない、と思う。

最近は女優だった母さんに似てきたって父さんにも言われたし。

 

ひとつ伸びをしてからベッドを降り、デスクの手帳を手に取った。

この手帳は大学入学のお祝いとして湊さんから贈られた物だ。

ページを開くと、今日は午前と午後に講義があり、護衛メンバーは湊さんに変更とある。

そうだ、今日は講義が終わったら、湊さんを連れて外商に行こう。

ちょうど昨日、我が家の外商担当が用意できたとメールをくれたから、今日引き取ってそのまま渡そう。

嬉しくてつい口角が上がり、大した予定でもないのに、『お返しの引き取り』と手帳に書き込んだ。


(湊さん、ちゃんと受け取ってくれるかしら)


もう一度会うチャンスがあればと思っていたら、今日から新しい人と湊さんが護衛を担当すると連絡があった。

でも、最後に会った時に気まずいまま別れてしまったから、実はちょっと不安だ。

そっと手帳の表紙を撫でる。

指先から伝わる革の温もりに少し勇気を貰い、手早く着替えて洗面所に向かう。

途中、ダイニングからコーヒーの香りがした。

この時間に父さんがまだいるなんて、珍しいな。

私に何か話でもあるのかな?

顔を洗ってメイクしてダイニングに行くと、やっぱりまだ父さんはいた。


「おはよう、父さん。珍しいね、まだ出社してないなんて」


席に着くと、桐山さんが「おはようございます、お嬢様」と、ミルクティーを出してくれる。

いつものシナモン入りのミルクティーだ。

神戸にいた時と変わらない味で、ほっとする。

桐山さんは我が家の家政婦さんで、母さんが父さんと結婚した頃から親子共々ずっと面倒を見てくれたから、私にとっては第2のお母さんみたいなものだ。

私が東京の大学に進学したので、東京の父さんの家に住む事になった時も、ここまで来たのなら最後まで務めますと神戸から一緒について来てくれた。


「おはよう、詩織。当日は搭乗口で待ち合わせにしよう。ゆっくり話しておいで」


パサリとした軽い音でテーブルにクリアファイルがダイニングテーブルに置かれる。

中から飛行機のeチケットをプリントアウトしたものが透けて見える。


「ありがとう、父さん」


クリアファイルからチケットを出して確認した。

8月3日、午後3時羽田発のニューヨーク行き、片道切符。

あとひと月程で、いよいよ日本を離れるのかと思うと、少し寂しさを感じる。


「本当にいいのかい? 今ならまだ間に合うよ」


父さんは私の表情を見逃さなかったのか、気づかわし気な様子だった。

私は頭を振り、ミルクティーを一口飲み下した。


「もう決めたの。私はここグループで生きていく。そのためにはあちらの大学を卒業したいの」


私は高 坂 社 長TKエネルギー開発社の娘ではなく、グループの高坂詩織として認められたい。

その為に留学から転学へ変更した。

今の私にはアメリカの大学を予定通り卒業する事自体がとても難しいけど、何とか2年以内に卒業するつもりだ。


「そうか。詩織が決めたのなら、反対はしないよ。好きなだけ頑張りなさい。卒業後は父さんも一緒に働けるのを楽しみにしているよ」


父さんは立ち上がり、椅子に引っ掛けていたジャケットに袖を通し、ボタンを止め、鞄を持った。


「行ってくるよ、詩織。今日は早く帰れるから夕飯を一緒に食べよう」


「わかった。いってらっしゃい、父さん」


そういえば父さんは大学の近所にあったカフェのテイクアウトでシュー生地に惣菜を詰めた塩味のシューが美味しいと喜んでいたから、おつまみがわりに買って帰ろう。

私と桐山さんは甘いシュークリームで食後のデザートにしよう。

父さんを見送り、時計を見上げると私もそろそろ出かける時間になっていた。

ミルクティーを飲み終え、桐山さんに「行ってきます」と声をかけてから、鞄を抱え玄関を開けた。

 

「おはようごさいます、高坂様。本日より護衛エスコート藍野あいのから私、杜山もりやまへ変更となりました。当日のお知らせとなり、誠に申し訳ございません」


私の目の前には杜山さんが立っていた。

出迎えが湊さんじゃなかった事で結構がっかりして、会う事が楽しみだった自分に気がついた。

杜山さんも長く私についてくれている人だ。

優秀な人で、エリート揃いの1課に引き抜かれて異動したそうだ。

なので安心だけれども、一緒に歩くと大抵の女性が振り返るから、私は少し気恥ずかしい。

この通り見た目ですから、女性に苦労した事がございませんと昔言われたっけ。

今日はキャンパス内でも目立たないようにか、ベージュ色のパンツに綺麗目なシャツとジャケットのカジュアルスタイル。

白衣でも着てれば院生か講師に見えそう。

それでも耳元を見れば、目立たぬよう透明な無線機が差してあり、見る者が見れば学校関係者ではないとわかる。


「どうかなさいましたか?」


急に押し黙った私に、杜山さんは問いかけた。


「ううん、何でもない。杜山さんが担当してくれるなんて、本当に久しぶりだなって。杜山さんも元気そうだね」


「お陰様で藍野も私も恙無く勤務しております。詩織様のお披露目は会場の外でお目にかかっておりませんでしたね。本日はあちらも藍野の代理なんです」


杜山さんはつと目線を右に移す。

一緒に見ると一人男性が立っている。

私の目線に気づいて一礼した。

あの人が湊さんの指導予定だった人か。

にしても、杜山さんも後輩を持つ世代なのかと、付き合いの年月を思う。


「後でご挨拶させますが、彼は紫藤しとうです。先日初期研修を終了して、今日から藍野が紫藤の研修担当でしたが、急遽私が担当となりました」


「へぇ、紫藤さんはどんな人? 杜山さん」


「シンガポール育ちの帰国子女だそうです。HRFでは珍しく広東語も話せるトリリンガルですが、まだまだ甘い所もあり、依頼人の前に出すにはもう少し修行が必要ですね。高坂様、どうぞ」


杜山さんに先導されて車寄せに向かうと、出迎えの国産セダンが停められていた。

杜山さんは私より先んじて、後部座席のドアを開け、私が座席に座るのを確認して、ドアを閉め、自分は助手席に座った。

今日は紫藤さんが運転手らしい。

杜山さんはカーナビを切り替えて、私の居場所がGPSマップと一緒なのを確認して、無線でどこかに指示を出し、車は大学に向けて走り出した。

一通り指示の終わった杜山さんから、今日の予定を確認される。


「高坂様、本日の予定は午後3時まで講義、その後、外商部に立ち寄って帰宅、で宜しいですか?」


「ああ、ごめんなさい。今日は講義の後、寄りたい所があるから帰りは必要ないわ。あのう……杜山さん、横浜の日本支部に直接行けば藍野さんと会えるかしら?」


人づてに渡すのは嫌だと思った。

お礼も言いたいし。

何より、このまま別れてしまいたくなかった。


「申し訳ございません。藍野は本社アメリカの極秘案件を担当するようで、しばらくの間、スケジュール調整は難しいかと。藍野に何かお伝えする事でもごさいますか?」


今日の変更もその極秘案件を担当するために外れたそうだ。

杜山さんも私と湊さんに何かあったか本当は知ってる癖に、ちょっと意地が悪い。

内心で盛大に杜山さんを罵って、私は引き下がった。


「いえ……ありません……。あ、本日もよろしくお願いします」


(本社、アメリカの極秘案件か……。湊さんが担当ならやっぱり高レベル、よね……)


彼らの案件は内容や脅威によって危険度のレベル分けがされる。

レベルが高ければ高いほどベテランが担当し、今の私の護衛のような危険度が低いものは中途や研修中でも担当する。

だけど、湊さんが担当するような高レベルは危険度も高いから、自然と嫌な事ばかり想像して胸が苦しい。

分かってはいるつもりだけど、目の前の杜山さん達を差し置いてでも、湊さんだけは安全でいて欲しいなんて、我ながら嫌な女だと思う。


(それでも、心配くらいしたっていいじゃない)


何かあった時、自身が危険でも、依頼人や仲間の危機であれば、きっとあの人は迷いなく飛び込むだろう。

かつての自分を救ったように。

私は、左手首の腕時計をそっと撫でた。

もう何代目かの華奢なブレスレットに見えるGPS入り腕時計。

一緒に選ぶことはもうない事に、寂しさが募る。

車窓から外を眺めると、目黒川沿いの桜は盛りを過ぎて、葉っぱが目立つようになっていた。

きっと神戸はもうとっくに葉桜の季節。

桜といえば、同じ名前の咲良は元気かな?

総一さんとうまくやってるみたいだけど。


(そういえば、湊さんと初めて会ったのも春だったな)


あれは中等部1年の春。

私は初めて湊さんに出会った日の事を思い出していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る