第二話 降り積もる罪
右手には、日雇いの仕事で得た賃金で買った、薄い干し肉が二切れ。左手には、長さもばらばらの麦が十数本、と一束。
たったこれだけが、六人分の今夜の夕飯だ。でも麦はまだ穂をしごいて幾つかの加工を経なければ、
黄昏の中、ツェーレは両手を握り締めながら、眼前の薄汚れた玄関扉を見つめていた。
この家は、元は放浪者だった父親がこの地に定住すると決めた時に廃村の一軒を安く借りたもので、奥行きは子供の足でも二十歩足らず。見た目など、地主の持つ穀物庫よりもみすぼらしい。
他の家にあるような前室もなく、戸の向こうはすぐ炉になっている。その奥には炉の暖を得た唯一の個室があるが、子供たちは滅多なことがない限り炉の周りにいる。
その声が、たった一枚の薄い木戸を隔てて幾つも優しく響いてくる。それはひどく郷愁を誘う声で、ツェーレは考えるだけで沈みそうになる表情を無理やり引き締めた。
それから、ここ二週間ですっかり習慣になってしまった幾つかのことをする。
まず体についた埃をよく落とし、顔を殴られた時は念入りにこすって誤魔化す。言い訳も考えたし、勿論笑顔を作ることも忘れない。
「よし」
それから、口の中で小さく呟く。
(私はお姉ちゃん。優しいお姉ちゃん。今日も楽しいことがいっぱい。笑顔。……よし)
少しだけ勢いをつけて木戸を引く。
火の入った炉の前には、十一歳になるすぐ下の妹がいた。母と同じ栗色の髪を持ち、ツェーレよりも澄んだ翠眼に炎を映し、
「リート。ただいま」
「お姉ちゃん。おかえり」
いつもの光景。いつものやりとり。
末子が生まれる前に父が亡くなり、母も体調を崩しがちのここ数年は、長子であるツェーレが働きに出て、その間の家事を次子のリートが、子守を更に下の長男ハーゼが分担するという役割が出来上がっていた。
今では、もしかしたら妹の方が料理の腕は上かもしれない。そして実際、良き母になるだろう。
(私よりも……)
「お姉ちゃん?」
「うん?」
呼びかけに、視界が前を向く。リートの手元の鍋を見る。錆と焦げと欠けばかりの鍋よりも、うんとみすぼらしい中身。粗挽きにした僅かな麦以外、具のないスープ。
「ごめんね。今日も、あんまりもらってこられなかった」
「そんなことないよぅ」
焦げ付くほどの具もないスープを時折掻き混ぜながら、リートが穏やかに笑う。
「今日は双子ちゃんたちがお手伝いして、お芋を少し分けてもらえたんだよー。『自分のハラは自分でみたすんだぞー』だって」
我が家の小さな怪獣こと最大の胃袋を持つ双子のレーレとキュールの豪快ぶりも、リートののんびりとした口調で聞くと微笑ましく思えるのだから不思議だ。
ともかく、今晩のおかずは間に合うようで良かった。仕舞っておくねと声をかけたところに、入る前からずっと聞こえていた声が間に乱入してきた。
「わっ、麦だ麦だ。
「ばか、レーレ。ほーさくってのは、ハラいっぱい食えることなんだぞ。両手でももちきれないくらいのことなんだぞっ」
「えー? ちがうよ、キュール。ほうさくはゆたかに作る、っていみで」
「作るんだろ? だったらやっぱり」
「だから、そもそも作るっていうのは」
「お前ら!」
ぴょこぴょこ跳ねる二つの赤毛を止めたのは、威厳というよりは気苦労の滲む怒声だった。長男のハーゼだ。
双子の弟たちが七年分蓄えた知恵を目いっぱい使って口々に喋りながら走り回るその後ろに、疲れた顔で仁王立ちしている。
「姉ちゃんにちゃんと挨拶しろ」
「はーい」
「わかってるって」
兄の言葉に、双子たちがおざなりに手を上げる。それから早口の「「おかえりっ」」が綺麗に重なったと思うと、再び二人の騒々しいし考察が再開した。
正しいことを知りたがるレーレと、直感で突き進むキュールは、いつだって互いの意見をぶつけ合っている。それを抑えるのが、若干十歳にして育児疲れの母親のような顔をするハーゼの日常だった。
そしてその右足には、四歳になったばかりの末っ子がしがみついていた。ツェーレを見上げて、にぱっと笑う。
「おおねえ。おちゅかれしゃま?」
愛しい家族だ、と思う。
一家の胃袋を守る妹も、苦労性が染み付いた弟も、毎日粗末な我が家を壊さんばかりに駆け回る双子も、成長が遅くていまだ舌足らずな末子も。
誰もが等しく愛しい。
「うん。ただいま、ブルーメ」
嘘の笑顔が、やっと本物になったと思った。目線を揃えて、小さな身体を精一杯の愛情で抱きしめる。
世界で一番大切なもの。大人には程遠い自分の両腕にもすっぽり収まるその温もりを噛みしめながら、ツェーレは今日も密やかに思った。
(私は、この温もりを裏切っている)
心から安らげる場所で、けれどツェーレの笑顔は春の慈雨のようだった。温かく降り注ぎながら、静かに体温を奪う。
深く沈みかけた思考を、キュールの無邪気な声が遮った。
「あっ、大姉。オレたちがもらってきた芋、母さんにも見せにいっていい?」
「こら――」
「ダメよ!」
習慣的に諌めようとしたハーゼよりも鋭い声が、その場を切り裂いた。
既に走り出していたキュールの足が止まり、弟妹たちの視線が一斉に声の主――ツェーレに向かう。
穏やかだった空気に、一瞬で冷たい亀裂が入っていた。
「大姉……?」
母が眠るこの家唯一の個室は、日中ツェーレが不在の間、弟妹が勝手に入るのを禁止している。キュールが母に自慢したくて姉の許可を求めるのはごく自然なことだし、今までにも何度もあった。
何故そんなにも怖い顔で止める必要があるのかと見返すキュールの戸惑いを、けれどツェーレは気付かぬふりをした。
「……ダメよ。お母さんは最近調子がとても良くないの。寝かせてあげて」
笑う。けれど上手く笑えていないと、自覚はあった。
正面から、左右から突き刺さる視線の意味が、もう分からない。
(お母さんが、心配でたまらないだけ? それとも……)
姉の言葉に、不審を抱き始めているのだろうか――?
ぎこちなく始まった夕食は、それでもブルーメの無邪気さとリートの温かな食事で、最後には普段通りに収まった。食後はそれぞれが自分の食器と匙を拭い清め、ソファーの上で傷んで薄くなった毛布にくるまって眠る。
誰もが自分の仕事を精一杯やりきり、疲れきっていた。
今宵も、寝息はすぐに部屋を満たした。
その深夜。
ツェーレは、今夜も寝床代わりのソファーを抜け出した。足音を殺して慎重に進み、そっと暖炉の向こうのドア――母の寝室に忍び入る。
室内に、音はなかった。平和の象徴のような健やかな寝息も、人の温もりも。
代わりに、臭いがし始めていると、ツェーレは気付いた。
(もう、限界、なのかな)
泣きたいような、叫びだしたいような昂りを飲み込んで、ゆっくり大きく深呼吸をする。
闇に慣れた目で、迷うことなく壁際に置かれた粗末なベッドに歩み寄る。傍らに膝をつき、ちっとも寒さを
現れたのは、骨かと見紛う程に痛々しく痩せた、年寄りの腕だった。その色は恐ろしいまでに暗く黒ずみ、血管の赤みは欠片もない。
「……おかあ……さん」
ツェーレは、何度も躊躇いながら手を伸ばした。触れる直前で、また躊躇う。まるで、毒だと知っているものに触れようとしているかのように。
「お母さん」
それでも、触れた。
触れた腕は、ドアを開けるたびに
今日も一日仕事頑張ったよ。
帰りには落穂拾いもしたけど、やっぱり大して拾えなかった。変な奴に邪魔されたし。
今日のご飯も具がなかったけど、リートが作る粥はやっぱり美味しいよ。
お母さんのご飯によく似てきた。
「ねぇ、お母さん……」
焼け石を飲みこむように、呼びかける。
父が亡くなったあとには、この世で唯一この名を呼んでくれた存在に。
今日も終わったよ、と。
いつもと変わらない一日だったけど、話したいことがいっぱいあるよ――。
他愛もない言葉は、
どんなに今まで通りに振る舞おうとしても、触れた腕はぞっとする程に冷たすぎた。
目を醒ませと、現実を突きつけるように。
「……そんなのじゃない」
目なら、嫌という程醒めている。
夜が来て、また新しい太陽が世界を白く洗い流すたびに、自分の行いがどんどん罪深くなっていると分かっている。
起きてしまった母の死を、一刻でも早く教会に申し出て祈りと
でも、そんなことは生きるのに余裕のある人間だけに許された救いだ。生きていない者の為に
だから、母の死を隠した。弟妹からさえも。
(逃げているわけじゃない。立ち向かおうと思っている)
毎夜、同じ言い訳を繰り返す。
今は、少し先延ばしにしているだけだ。決して認められないわけでも、拒んでいるわけでもない。そのはずだと。
ただ、言い出せなかった。
あの優しい母が、死んでしまったのだと。
一家の希望の象徴のようだった母がもういないのだと幼い弟妹たちに伝えるのが、辛かった。
キュールなどは、きっと激しく泣く。キュールが泣けば双子のレーレが、そして一番幼いブルーメも、訳も分からずつられて泣くだろう。そうなれば優しいリートも涙を滲ませ、頑固なハーゼも堪えきれずにきっと泣く。
けれど取り残された
それでも、頭の片隅にはずっとある。
(罪を犯すのは、恐い)
罪が暴かれるのが恐い。何よりも、変わってしまうのが、恐い。
大切なはずの家族との在り方が、抗いようもなく変わってしまうのが、ツェーレには恐しかった。
夜よりも冷たい手は、いくら待っても、朝のような温もりを取り返すことは決してなかった。
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