第三話 見事な空回り

 いつも、人を殺してしまいたい衝動を必死でこらえているような、飢えた獣のような目で睨むことしかしない女だと思っていた。

 不機嫌と不満と不幸を憎悪で煮立てたような、見ている者を不快にするツラ

 それが一転、家に帰る時は嬉しそうに笑うのを見た。

 多分、それが一度目。


 別の日には、帰りに寄った店先で、たった一切れの干し肉を値切るために奮闘しているのを見かけた。仕事中には決して見せないような笑顔を振りまいて。

 そこから帰る足取りは、刈り取りの後の侘しい畑を踏んでいたものと同じとはとても思えないほど軽やかだった。

 だというのに、やっと辿り着いた玄関の前では、生死を分ける決断でも迫られているかのような顔で把手とってを凝視していた。埃を払い落とし、時に涙の跡をごしごしと拭う。震える口元を無理やり吊り上げているのは、まさか笑顔のつもりだろうか。

 そして最後は深呼吸をして、魔法の言葉。


『私はお姉ちゃん。優しいお姉ちゃん。今日も楽しいことがいっぱい。笑顔。……よし』


 それが、二度目。

 最初は偶然だった。別に、気になってあとを付けたわけじゃない。

 そしてそれを目撃した時、シュヴァルムの中には不可解しかなかった。


(はあ?)


 自分の家に入るのに、一体何の覚悟がいるというのか。

 自分の生まれた家で好きに起き、好きに食べ、好きに遊び回ってきた少年にとって、その行動は全く理解できないものだった。

 目に留めたのも、ほんの一呼吸ほどだった。すぐに興味は失せた。


 響いてきたのは、その夜だった。

 布団に入り、遊び疲れた身体を癒そうと目を閉じた闇に、ふと夕陽を受けて燃え立つ赤毛の奥の翠眼がちらついた。射抜くように、シュヴァルムを見ている。


(……はあ?)


 意味が分からない。だから寝た。

 地主の息子にとって、小作人ですらない少女など、耕す畑に転がる邪魔な石と大差がなかったから。

 けれど恐らく、これが三度目だった。




 それでもしばらくは、何とも思わなかった。

 けれどふと気が付くと、何の気なしに目が探していた。

 そして遠く櫛も通していないような赤毛を見付けると、何故だかほんの少し、浮き立つような気持ちになるのだ。そしてその顔が不機嫌そうなことに気付いて、今度は損をしたような、沈み込むような気分になる。


(今日も、笑ってないのか)


 そして、そんなことを考えている。


(はあ? 笑うとか……なんだそれ)


 おかしなことを考えている、とは分かる。

 神識典ヴィヴロスの中に出てくる魔獣も、愛しい者のもとへ帰る時はああもいじましい振る舞いをするのだろうか、などとは。

 だがそれ程に、少女が隠していた笑顔は強烈な印象を伴ってシュヴァルムの胸を貫いた。そして両目に――否、心に焼き付いた。


 それからのシュヴァルムの行動は、それこそ「いじましい」と表現するに値するものだった。

 父の幾つかある畑の一つは、少女の家ともいえぬような住処ともほど近い。畑を手伝うと言って繰り出せば、少女の姿を見付けるのはさほど困難でもなかった。それこそ、今まで視界にすら入らなかったのが不思議なほどに。


「……ここで、なに、してるんだ」


 シュヴァルムは、いつも最初の一言を怖気づく本能を抑え込んで絞り出す。

 本当は、いつも完璧に考え抜いた気の利いた言葉を、口の中で繰り返し練習しながら道々を歩いてくる。それを聞けば、彼女も絶対に笑うはずだ。

 けれど彼女を見つけた途端、それは喉の奥に逆戻りしてしまい、代わりにこんな野暮ったいものしか吐き出せない。

 これに返ってくるのは当然ながら、あからさまな嫌悪の入り混じった冷たい拒絶。


「……落ち穂を拾ってるのよ。見て分からない?」


 それだけで、シュヴァルムは今日が最悪の一日になると確信できた。押し寄せる後悔が胸を抉る。


(何でこんなことしてんだ、俺は)


 風に乱れた赤毛の間から覗く翠眼が、低い位置から不愉快そうにシュヴァルムを見上げている。そこに宿る色を、シュヴァルムはよく知っていると思った。


 昔。十四歳の今よりももっと子供の頃は、本当に何も知らなかった。

 教会の説教を聞いても、慈愛とか寛容とか、隣人への愛もよく分からなかった。だから放浪者と大差ない女たちが勝手に畑に入れば不快に思ったし、父に怒鳴りつけてほしかった。けれど父はいつも、嫌そうな顔をしながらも「あの女たちはいいんだ。放っておけ」と言った。

 そして、今は知っている。

 あの女たちは、必要な労も払わず、慰めのような卑しいおこぼれに預かろうと腰をかがめているのだと。それが神識典に記されているばかりに、父は渋々見逃さなければならないのだと。

 知っている、つもりだった。

 けれど更にその先を考えてみた時、分からなくなった。

 狡賢く安易な手段ばかりを選び、逃げてきたような連中だと思っていた。だから邪険にするのも鬱陶しく思うのも、悪とさえ思わなかった。


(だったら、何でこんな顔をするんだ?)


 世界を恨むような、周りには敵ばかりのような、限りなく押し寄せる苦痛に、なす術もなく歯を食いしばるような。

 そんな少女の顔をまじまじと見て、やっと気付く。

 そもそも、そんな境遇に生まれるしかなかった子供は、どうすればよいのだろうか。


「この前から……何なの? 今さら改まって文句つけにきて、何がしたいの」

「ちがっ、文句なんかじゃ……」


 一つ年下とは思えぬ迫力でめ上げてくる少女に、シュヴァルムは反射的に否定する。だがその後に続くべき適切な言葉は、悲しいかなまるで浮かばなかった。

 陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクと動かし、目が泳ぐ。


「じゃあ何が言いたいの」

「っ、そ……」


 そんなものは、自分にこそ問い質してやりたい。

 今まで大抵の場面で好き勝手に振る舞い、嫌なことは周りのせいにして生きてきたシュヴァルムにとって、それは経験のない糾弾だった。

 少なくとも、走って逃げ出したいほど自分が恥ずかしいと、役に立たないと自覚したのは、これが初めてだった。

 サッと、頬に熱が走る。冷静な判断力は、とっくに彼方に吹き飛んでいた。


「……お」


 だから、無理やり開いた口は起死回生どころか、当然のように墓穴を深くした。


「お前なんかに用があるわけないだろう!?」

「……?」


 声を上擦らせたシュヴァルムに、少女が珍しく呆気に取られた表情でシュヴァルムを凝視する。いつも張り詰めたような翠眼がぱちくりと見開かれるさまは、どこか年相応で。


(か、かわい……)


 と思った自分にまた動揺して、シュヴァルムは更に墓穴を掘り進む。


「だ、だから! こんな、一生懸命朝から晩まで働いてばっかりのお前なんかに声をかけるのも、俺だけなんだよ。だから、もっと……ッ」

「……『もっと』?」


 自分でも何が言いたいのか分からなくなったところで、少女が一瞬だけ見せた幼さを無情に消して、つ、とその目を細めた。


「もっと……何? ひざまずいて有り難がれって? 恵みの心で刈り残した穂を黙って見逃すように、その慈悲の心に感銘を受けて神が如く崇めろって?」

「へ? ぁ、ちがっ、今のは間違いで……」


 言いながらも、本当に何が言いたかったのかと自分でも思った。


(『もっと』……どうしろってんだ?)


 もっと、笑ってほしい? 優しくしろ?

 こんな乱暴な言葉ばかりをぶつけてくる奴相手に?


(いや無理だろ)


 どう考えても、目の前の少女が突然そんな風に変わるはずがない。声をかけてもほとんど無視されて、喜ぶと思って差し出した麦束さえ、泥棒から奪い返すような目で掴まれた。


(俺は、こいつが何をすれば喜ぶのかさえ、知らないのに)


 あまりに自分本位な現状に、シュヴァルムはそこで初めて気が付いた。

 妙なことをする少女に興味を持って、自分を見ないことに苛立って、あの笑顔を自分に向けてほしくて。

 けれどそれは、シュヴァルムの要求だ。少女の希望や利点などどこにもない。

 ましてや、とシュヴァルムが愕然とした時、


「大体」


 と、少女が文句を重ねた。


「声をかけてきた連中なら今朝もいたわよ。大方、あんたもあいつらと同じような用件なんでしょ」

「っな、お、同じ……!?」


 まさか他にも少女を気にする奴がいるのかと、思わず手が出た。が、その手が何をしたいのか気付く前に、痛いほど冷ややかな声が、シュヴァルムを正気に引き戻した。


「どうせ私が、意味もなく馬鹿にされて扱き下ろされて、惨めに地べたに這いつくばって無駄に抗う姿でも期待してたのだろうけど」

「ち、ちがっ」

「お生憎さま。残念ながら、まだここのおじさんには嫌味も嫌がらせも受けていないし、不当に追い出されそうにもなっていないわよ」

「っ!」


 それは忘れもしない、昨日失敗した会話の内容だった。昨日も落ち込んだというのに、時間差で再びシュヴァルムの心を抉る。

 ついに無言で肩を落とすシュヴァルムの前で、ついに少女は粗方の落穂をすっかり拾い終わってしまった。服についた藁のカスを払い落しながら、さっさと踵を返す。

 少女が先に畑を出たら負けのような気がして、シュヴァルムは結局この日も最後には意味不明なことを喚きながら、彼女の前から逃げ去った。


 今日こそ名前を聞くのだと、しつこく決意したことも忘れて。


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