第二話 左右された愛

「な、なんでこの女が、こんな所で……」


 母と気付いた瞬間、そこから何歩も飛び退いていた。記憶の中よりも何倍も老け込んで汚く、見る影もないが、それでも面影は忘れようもなくある。

 確信した瞬間、負け戦で大砲と火矢を同時に打ち込まれた時よりも戦慄した。

 一瞬で子供の頃の記憶が蘇り、あの苦り切った目が脳裏で牙を剥く。腰の剣に手を伸ばしたのは無意識だった。柄の感触に驚いて、慌てて手を引っ込める。代わりに歯を食いしばった。

 冷静になれ、と何度も自分に言い聞かせる。

 共に暮らした十四年の間、一度も山から出なかった女が、こんな日中に道端に転がっているはずがない。

 きっと見間違いだ。そう自分を納得させるが、なおもずりずりと動いている女の顔をもう一度見る勇気はなかった。

 逃げよう。

 そう決めた時、三度みたび同じ声が背後で明答した。


「どうやら、お前を追いかけてきたようだな」


 それは、とても確信に満ちた声だった。そこでやっと、この声は誰のものだろう、と思考が及んだ。

 俺に旅の道連れはいない。この寂れた街道の前後にも、道行く者はいない。

 声がするのはおかしい。

 遅いくらいの警戒心が勃然と湧き上がった。

 ハッと振り返れば、数歩先に旅装の人影があった。フードを目深にかぶり、人相は判然としない。見覚えがあるような気もするし、ない気もする。


「……あんた、この女を知ってるのか」


 いつからそこにいたのか、という疑問は声にだせぬまま、尋ねる。すると、旅人は「ん?」と小首を傾げてから破顔した。


「手配書の顔だろう? 知っているさ」


 その答えに、俺はあぁ、と思い出した。先日立ち寄った酒場にいた男だ。確か三人……いや、四人だったか。

 だが一方で、釈然としないものがあった。あの酒場にいたのなら、この男はずっと俺の後ろにいたことになる。傭兵としてもう十年近く過ごしているが、こんなにも気配に気づかないことなど今までなかった。

 奇妙なことは他にもある。

 あの手配書と今のこの女とでは、あまりに面相が違う。手配書では、栄養状態こそ悪そうだったが二十歳前後らしい生命力の漲った力強さがあり、肌や髪にも艶ががあった。だが今ぼろ雑巾のように地面に横たわる姿は、ごわごわの蓬髪に、シミや幾つもの傷痕のせいで、五十路と言われてもきかない程の老齢ぶりだ。

 最も直近の顔を知っているはずの俺でさえ、一瞬分からなかったほどなのに。


「手配書と……似ているか? 年を食いすぎて見えるが」

「それはそうだとも。そんな生活を続けていれば、病も得ようというものだ。加えて母親コレはもう寿命を幾つも垂れ流し続け、死ぬ寸前だ。肉体だけなら、百歳の老婆にも劣ろうよ」


 俺の疑問に答える旅人の声は朗々として淀みなく、隅々まで確信に満ちていた。そのせいでつい「そうか」と応じそうになったが、寸前でその言葉の矛盾に気が付いた。

 この旅人は、手配書の顔だ、と言ったのだ。だというのに、何故この女が追いかけてきたなどと知っているのか。あの酒場でともに手配書を見た相手なら、この女とは今が初対面のはずだ。

 何より、寿命を垂れ流したとは、どういう意味なのか。

 命あるものは、日々を生きるだけで寿命を削っているとも言える。だが男の言いようは、どこか含むものがあるように聞こえた。


 この男は、ただの行きずりではないのか?


 些末なはずの疑問が、突如振り払えない靄のように立ち上がった。いまだ倒れたまま起き上がれない母のことを考えたいのに、すぐ傍らに直立する男が放つ不気味さに、目が離せなくなる。

 何故か、背筋がひゅっと冷えた。この男は、終始笑っているだけのに。


「――そいつの言うことは、聞くんじゃないよ」

「!」


 感情と状況の整理がつかず戸惑う中、数年ぶりに聞く声がそう諫めた。

 その声は記憶にあるよりも酷く掠れて弱く、子供の頃に震えあがったはずの気勢などどこにもない。

 しかし何よりも戸惑ったのは、母がこの男を知っているような口ぶりだったことだ。

 はぁ、はぁ、と気息奄々きそくえんえんたる有り様ながら、母がどうにか起き上がろうと腕に力を込める。それを優しく嗤って、男が親子の間に進みでた。


「嫌だなぁ。人にしてはわりと長い時間をともに過ごしたというのに、そんなことを言われるとは心外だなぁ。お前の子供の人生を左右してきたのは、常に私の言葉だったろうに。――なあ?」

「は……!?」


 最後の呼びかけは、流し目とともに俺に向けられたものだった。だがその内容があまりにも突飛で、理解はまるで追いつかない。

 長い時間をともに過ごした、とはどういうことか。俺が家を出た後で、母と暮らしたとでもいうのだろうか?

 そうでなくとも、俺はこの男に人生を左右された覚えなどない。


 まさか、父親?


 ふと閃いた可能性に、身震いした。ともに過ごしたという言葉の真偽はともかく、俺の人生に影響を与えられる男などそのくらいしか思いつかない。もしこの男が父親なら互いを知っているのは当然だし、行動を言い当てたことにも説明が付く。

 だが何故か、それを声に出して確かめることは出来なかった。

 虚勢を張るように、男を睨む。


「あんた、何言ってやがる……頭おかしいのか」

「寂しいことを言うなぁ。私とは、何度も会っているだろう?」

「は? んなわけ……」


 ない、と否定する言葉はけれど、喉に引っかかって出てこなかった。

 この男の顔に覚えがないのは事実だ。けれど、そう……なぜか、初めて会った気もしないのだ。

 どこで、と考えた時、母が再び掠れた声を絞り出す。


「聞くんじゃ、ない……」

「そうつれないことを言うなよ」


 肩を激しく上下しながらどうにか顔を上げた母に、男がまるで情夫のように甘く囁く。


「お前、もう死んでしまうだろう? その前に、折角だから誤解を解いてやろうという、これは親切心だよ」

「死……?」

「貴様……! 言うなと……ッ」


 上げた疑問の声に、母が死にかけていたとは思えない勢いで歯軋りした。その眼光の鋭さはまるで地獄の底から這いあがってきた鬼女のごときだったが、男は笑顔を崩すどころか実に軽く受け流した。


「分かってるって。契約者はあくまでお前だからね。喋らないという条件も、勿論守るさ。だがねぇ。このままじゃ、お前があまりに惨めで」

「よく言うよ……! 苦しむあたしを見ていたいだけだろう……!」


 芝居がかった愁眉を作る男に、母が苦々しげに怒鳴る。その様があまりに非現実的で、よもや幻惑でもかけられたのではと思えてきた。

 こんな男など知らないし、こんなに必死になる母も知らない。そもそも子供を嫌っていた母がこんな場所まで追いかけること自体、不自然極まりなかった。

 まさか、今になって俺を探し出して、金でも無心しようというつもりか?

 そうかもしれない。年を食って、病を得て、医者にかかるための金が欲しくて、俺をつけ回していたのかもしれない。

 そうでなければ、突如現れた母など、幻でしかありえない。

 そう、無意識に後ずさった時、


「違うよ。これは本物のお前の母親だよ」


 こちらを見ていなかったはずの男が、そう否定した。その時に背筋に走った悪寒を、何と言えばいいのか。手が、震えながら再び柄に伸びていた。

 男が、訝しむ俺を見て嗤う。


「ほら、心当たりはないか? 戦場で死にかけて、部隊に捨てられたのに生還したことはなかったか? 病で行き倒れたはずなのに、目を覚ませば宿で寝ていたのは何故だ? 何度死にかけても、死に切らなかったのは何故だと思う」

「…………は?」


 男が何を言いたいのか、まるで分からなかった。

 確かに、何度も死にそうな場面には出くわした。不死身アサナトスの通り名は、そのせいで付けられた。けれどそれを切り抜けたのはいつだって独力で、他の何かなどではなかった。その、はずだ。

 だがならば、何故気を失ったのに、死ななかったのか。男の言う通り、誰かが俺を助けていたのではないか?

 それは、誰だ?

 いつから――


「お前が家を出た十四歳の時から、ずっと。ずぅっとだよ」

「!」


 ぞわり、と肌が粟立った。

 それは思考を端から男に読まれていること以上に、今までの記憶の欠けや飛びがあることへの疑問が、その言葉で解決してしまうことにだった。


「……ずっと……」

「そう、ずっと」

「……俺のために?」

「そう、お前のために」


 声が震える度に、男が鷹揚に頷く。

 その明朗さに、次に芽生えた感情は。

 怒りだった。


「嘘だ」


 男と、その向こうの地べたでそれ以上起き上がれない母を睨んで、言う。


「嘘ではない」


 男は笑いながら否定した。


「嘘に、決まってんだろ……」


 母は息も切れ切れに言った。

 真実などどちらでも良かった。

 ただ一つ確かなことは、こいつらと同じ場所にはいたくない、ということだった。

 二人の言葉も表情も感情も、すべて無視して踵を返す。目的もなく来た道を、無為に引き返す。


「憐れな女よな」


 その足を、やはり男の嘲弄するような声が引き留めるのだ。


「どんなに愛する我が子のためを思っても、報われることは永遠にないというのに。なぁ、そう思わないか?」

「やめろ……!」


 猫撫で声で問いかける男の問いを掻き消すように、母が叫ぶ。

 けれど俺は聞いてしまった。

 愛する我が子?

 何のことだ?


「――冗談じゃねぇ……!」


 理解した瞬間、絞り出すように、叫んでいた。

 この母親が、俺を愛しているだと? 毎日山のように仕事を押し付けられ、失敗すればぶたれ、腹いせのように虐待されてきたあの所業で、俺を愛しているだと?

 有り得ない。揶揄やゆするにしても、あまりに酷い代物だった。


「冗談ではないとも。そうだ。証明しよう」


 憤る俺に、男はまるで名案を思い付いたとでも言いたげに人差し指を立てる。


「愛してると言ってみろ」


 そして満面の笑みで、そう言った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る